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(回答先: Re: 罪のない市民を殺戮する加害者に黙祷することは不道徳なのでは 投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2005 年 7 月 28 日 19:36:19)
>罪のない市民を殺戮する加害者に黙祷することは不道徳なのではないですか。
確かに、加害者として生きた者の死に対して黙祷するのは、不道徳であり、有害です。
彼の生き方を見ると、無責任な殺人ゲームの快感を求めてさまよっていたように思われます。
彼の死は彼にとっての予定されたゲームセットであり、我々は、彼の死を悼む必要さえありません。
我々が彼の死に対して「そのように生きた者」として黙祷するのは有害でもあります。我々が彼の生きた感覚を引き継いでしまう可能性があるからです。
しかし問題はちょっと違った所にあります。
彼の生き方と死は、いま生きている者たちの記憶の中にあります。
彼の生き方に何らかのシンパシーを感じる者たちは、彼の生きた感覚(荒魂)を引き継いでしまう可能性があります。
彼の生き方と死の記憶は生者たちに影響を与えるのです。
我々が彼を非難することは、彼を持ち上げてその影響力を増すことになります。
彼にシンパシーを感じた者たちは、我々が死せる彼を非難すれば、我々に反感をもち、彼の生きた感覚をより強く引き継ぐ傾向を生じさせてしまうからです。
これは、我々の社会に感情的な対立をもたらすことになります。
((靖国(招魂教)の弊害の一つは、このような感情的な対立をもたらすことなのです))
解決は、彼を「死せる者」としてまつることです。
「死せる者」というのは
一神教的には、神に召された者
浄土教的には、成仏した者
神道的には、生きていた時の記憶(荒魂)が鎮まって、穏やかな魂(和魂)となった者
アイヌ的には、肉体の制約から解放されて、祖先の国に戻ってなごやかに暮らしている者
などなど、ということです。
我々が彼を「死せる者」として念じる時、彼の魂は、自らの生を顧みて、「殺人ゲームはゲームマシンの中に留めておけ」と人々に語りかけるようになるでしょう。
これは、「気持ちの持ちよう」ということなので、物理学的、生物学的には無意味な話です。
しかし、心理学的、社会学的には意味をもちます。
ヒトの行動やその総和としてのヒトの社会というのは人々の「気持ちの持ちよう」によって影響を受けるからです。
ただ、最初に述べたように、彼の死に黙祷する時、彼を「生きた者(過去形)」として黙祷してしまうと有害な結果になってしまうので、注意が必要です。むしろ、危険があることは人には勧めない方がよかったかもしれませんね。
* 伝統的な神道は、「お祓い」という儀式を行って、「彼の魂や我々の魂は浄化された」という共通認識を確認したうえで、彼を祭る、という方法で、有害な結果を防止しようとします。