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実在したのか英雄・山田長政:朝日新聞(夕刊)1987.03.10
http://www.asyura2.com/0505/war72/msg/670.html
投稿者 木村愛二 日時 2005 年 7 月 26 日 15:55:31: CjMHiEP28ibKM
 

(回答先: アユタヤの山田長政はファシストが意図的に作り上げた幻想 投稿者 匿名取締役 日時 2005 年 7 月 26 日 10:47:50)

http://www.mekong.ne.jp/database/person/yamadanagamasa/19870310.htm
実在したのか英雄・山田長政

朝日新聞(夕刊)昭和62年(1987年)3月10日水曜日(4)
⇒メコンプラザ情報DB 「山田長政」

 17世紀シャム国王の武官として活躍したとされる「山田長政」が、日タイ修好百年のことし、ブームだ。タイ政府の観光キャンペーンも功を奏してか、長政ゆかりのアユタヤに行く日本人は例年になく多く、テレビ番組や旅行記などにも長政ものが目立つ。日本政府も修好百年事業の目玉商品として現地に「アユタヤ歴史資料館」を無償援助でつくることを決め、経団連なども日本人町跡整備のための募金活動を始めている。こんなおり、東南アジアにくわしい国際政治学者の矢野暢京大教授(50)が「長政は国策的に作られた人物。実在は疑わしく、盲目的な英雄扱いは外交上もマイナス」と発言、各界に波紋を呼んでいる。外務省も長政の扱いは「十分、配慮する」と慎重だ。長政のどこまでが「虚」で、どこまでが「実」なのか −こんな関心の高まりもやはりブームである。    (宇佐美 雄策記者)

 日タイ修好100年でブームだが   実在したのか 英雄・山田長政
矢野京大教授の架空説に波紋
戦前の国策が生む 出生年月・日本の身分など不明  タイ・オランダ資料に名前がない
 「史実としての長政は存在」の反論も
 「戦中派の日本人の頭には、ゾウに乗って活躍したシャムの日本武将のイメージがこびりつ
   いているが、ラッキョウの皮をむくように調べれば調べるほどに、なにも確実なものは残らない」と矢野教授。

 その「英雄長政の不在論」は単純明快だ。
 江戸時代の長政伝は創作で、歴史研究に最も大切な長政の出生の場所・年月、日本での身分、シャム渡航の日時、方法、シャムでの生活、死亡原因 などが解明されていない
 タイ・オランダ資料に「山田長政」の名が一切ない
   Bオランダ資料にある日本人傭兵名と江戸幕府資料の長政は一致するとされているが、オランダ人自体の記述は伝聞で、そのまま信用できない −というもの。
 矢野教授によれば、山田長政の名が一般に知られだしたのは、宝永4年(1707)の「天竺徳兵衛物語」の出版後から。このあとさまざまな長政伝が出回るが、「無断引用、盗作の繰り返し」で次々に話に尾ヒレがついた。
 
 幕末の英国人外交官アーネスト・サトウが、オランダ文献にあるシャム時代の日本人傭兵のリーダー「オークヤ・セナピムク」と「山田長政」は同一人物だ、との新説を唱えた。このあと昭和5年、岩生成一・元東大教授(86)がオランダ・ハーグの国立公文書館で調べたアユタヤのオランダ商館長、ファン・フリートの「シャム国王位継承革命戦記」(1640年)などの記録と元和7年(1621年)、徳川幕府に長政が送ったとされる手紙などを照合、同一人物と結論付けた。現在、学会では、この説に落ち着いている。
 しかし、矢野教授は「長政研究が最も盛んだった昭和初期の日本の政治的影響も検証し、常識とされたことを冷静に疑ってみる必要がある」と強調する。
 
    こういった矢野教授の”挑戦”に対して、戦前から南洋日本人町や朱印船貿易研究の第一人者とされる岩生・元東大教授は「矢野さんがどのくらいオランダ文献を吟味されたかしらないが、観念的に長政が実在しなかった、といっても説得力はない」という。「確かに江戸の本の中には、おもしろおかしく書いた作り話も多いが、長政が幕府に送ってきた書簡類などと、細かいことまで正確に記述したオランダ文献とは矛盾しない。戦争中、軍の威光を傘に、ずいぶんインチキな長政論をぶった連中もいたが、史実としての長政まで否定することはできない」と反論する。
 
    矢野教授は「江戸幕府の外交文書をまとめた『異国日記』には『長正』のサインの書簡があるが、これで長政の全容や武将としての活躍がわかるものではない」としたうえ、「私は、日本人の頭にある長政は実在しない、と言いたいのです。過去の長政についての誇張、わい曲の歴史は戦後、放置されたまま。いまこそ、虚飾と史実とを区別できるチャンスです」と語る。
 
    矢野教授は、昭和6年の満州事変以降の日本の南進政策が、長政を英雄に仕立てたとし、その国策化の歴史をあげる。
 
    昭和15年当時、長政は「南進の先覚者」と新聞にも扱われ、長政の映画も「国策映画」と呼ばれた。太平洋戦争突入の翌年の昭和17年、国定修身教科書に長政が登場した。
 
    矢野教授は、江戸時代の国学者、平田篤胤の「講本気吹於呂志」(文化10年、1813)の記述に注目する。まるで修身教科書のモデルだというのだ。
 
    「従わぬ国々を長政が討ちたいらげ、戦うごとに勝て、実に天竺中(東南アジアやインド)を震いわななかせ、日本軍といえば、小児もなきをやめ、天竺の国々をおぢ畏れさせたほどのことでござる。実に御国の武勇を天竺中に輝かしつけたでござる。大日本魂の人の外国に渡りたる時の手本ともすべきこと」
 
    国粋主義を強調した篤胤の長政礼賛が、そのまま「大東亜戦争」当時の教育にも用いられたのは、必然的でもあった、と矢野教授は分析する。
 

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