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長い間、感想を書く予定で居たのですが、その後事件が続発して、それらへの評論におわれて果たせずに居ました。
ジラディ氏の内面にまで立ち入って書きたいのですが、それでは長くなってしまいますので、掻い摘んだ形で採りあえず書いておきたいと思います。
彼の手記は良く納得の出来るものでは在りますが、事実としては衝撃的であります。
彼は、セファラディーであり、ユダヤ人としての誇りを持つ若者ならば、イスラエル国家の建国を訴えるシオニズムに共鳴する事は自然な姿であったと言えるでしょう。
しかし、結局のところ彼は「革命の裏切り」を知ったのであり、それは喜ばしい事であったと私は考えています。
これを読んで、私は同年代の多くの日本の若者達、全共闘や日本共産党の活動に参加したかつての若者達、さらには60年安保闘争やそれ以前の左翼活動または民族主義運動に参加した人達の事を頭に浮かべました。
偶然と成り行きにより、左右の両陣営に参加した経験を持ち、その事を自らの思想構成の為の肥料と捉えていた私には活動家達に対して共感と拒否の感情を持たざるを得なかったのですが、これは苦い感情を常に抱きつつ生きると言う事でありました。
私が、セファラディーにせよ、アシュケナジィーにせよ、ユダヤ人であったならばどの様な立場にたったでありましょうか。
ジラディー氏は「裏切られた革命」の経験者であります。したがって彼の手記は「青春の体験的小説」の性格も備えています。
私は、昭和35年即ち60年安保騒動時に少年ながら民族主義運動に若干ながら関わっていたので、この騒動の後に全学連活動家達が挫折感を持ったのと同様に、挫折感を体験したのです。
私の場合の挫折感の内容は、岸内閣の対米従属性と反対派の硬直した単純な思想性を見せ付けられて、国と国民の有り方の中に左右両陣営への従属性を見てしまったと言う事なのです。
したがってこの挫折感は対象を国と国民に対するものであったのです。
長く挫折感を克服出来なかったのですが、時の経過と共に、
「挫折感とは、片思いによる失恋感情に似たもの」と知るようになり、脱出いたしました。
国家と国民の有り方を其のまま認めて愛するならば、挫折感は持たないでしょう。
自分の理想を当てはめて愛そうとするから挫折するわけです。
異性への愛し方も同じことでしょう。
失恋では時には「俺の言う事を聞けないのか」と言い、追い回して挙句の果ては相手を殺害したりします。
これでは間違っているし、惨めであります。
ジラディー氏への共感はこの程度にして、また触れる機会を別に持つ事にして、
シオニズムとユダヤ人について考えるところを書いておきます。
セファラディーではなくアシュケナジィーは血統的にはユダヤ人ではないにも拘らず、ユダヤ人として振舞ってきたのですが、この事はチャイナで漢民族でない元や清のような周辺民族の政権がチャイナを乗っ取り、中華思想を大いに推し進めた事に似ています。
周辺民族の漢民族支配が中華帝国を強大化する事があったのです。それは今では過去のことではありますが。
シオニズムとイスラエル建国にも同じことが言えるのではないでしょうか。
シオニズムの主導権はアシュケナジィーにあって、セファラディーは追随していると言ったところではないでしょうか。
アシュケナジィーは古代ユダヤからさらに遡ってメソポタミヤ文明においては辺境地域であった筈です。中心地が衰退して辺境に影響力が残って辺境は思想的栄養を得たのでしょうね。
ユダヤ人は一枚岩ではないと言うのが本当のところだと思います。帝国主義的なユダヤ人グループは夫々が組織も思想も強固でありましょう。しかし、それらは個々には偏狭であり、広い視野を持つユダヤ人グループも居る筈であり、彼らは我慢強いのであろうと考えています。尤もそれは私の推測でしかありませんが。
最近、777のテロ事件を巡って、「カバラ」に於ける「宇宙論」を知ったのですが、それは全く正しいものであり、我が国の古神道に伝わるものと殆どが同じものであり、言い回しが異なるだけであると理解します。
百科事典ウィンキぺディアの扱いでは次のように書いてあります。
「カバラでは、神の創造を神の聖性の流出の過程と考え、その最終的な形がこの物質世界であると解釈する。中略。したがって、カバラは一神教でありながら、多神教や汎神論に近い世界観を持つ。」
また、Sephirotoカバラ数秘術では次のように書かれています。
「前略。例えば、カバラの宇宙創世はビッグバンに少し似ています。
この宇宙は球体(円)だと考えられていて、まず全ての概念を超越した不可知な『無(アイン)』が凝縮したことで『無制約(アイン・ソフ)』となり、アン・ソフがさらに凝縮し点が生じ、点は『無限の光(アイン・ソフ・オウル)』を放ち、限定された物質世界が生じます。」
タルムードはよい言葉ばかりではなく、バビロン捕囚で影響を受けた宜しくない言葉も書いてあると聞いた事がありますが、カバラにはこのように優れた認識が書かれています。
「この物質世界が神の聖性の流出」であれば、他民族や自然を敵とは看做せない筈であり、ユダヤ人はカバラの根本思想から外れたところで生きているのでしょう。それが何であるかはわかりませんが、推測は出来ます。
旧約聖書では7日をかけて神は世界を造ったとされていて、7の数字が神聖視されているのですが、
古代日本では、「宇宙生成は7段階を経て行なわれた」とされていたのです。
即ち「始源」(これは私がわかりやすく言い換えた言い回しです)から7段階を経て現在の姿があると言う事であり、現在の宇宙・世界は神(始源、今では根源)の体であると言う事であり、常に現在も「始原の継承としての根源」が存在し、全宇宙を統括していると言う事になるのです。
「根源の統括」への認識がなければ、いくら正しい認識の一部を持っていても迷うばかりでしょう。挙句の果ては袋小路に入って衰退となります。人体に例えれば垢になってしまうわけです。
キリスト教では、「根源の支配・統括」の代わりに「神の子としてのキリスト」と言うものを代わりとして考えて、キリストの再臨により秩序が回復されるとしていますが、それは「根源の支配・統括」が表面化する時代になることの言い換えであると私は解釈しています。
キリスト教では一般には一神教を単純化しています。イスラム教も単純化しているようです。
しかし、元々は一神教も多神教も汎神論も無かったのです。分かれているのではなく総ては含まれていたのです。
恐らく、モーゼの時代まではまだ一体的思考は残っていたのでしょう。
日本の「八百万の神々」思想は、一般の人々の間では「宇宙の始源・根源」を考える事を役目・仕事とはしていなかったので、その様な認識には接する機会が少なかったのでしょう。地域の氏神を大切にしていたのです。それで一神教的思想は生まれなかったわけです。
「根源の支配・統括」は知識によっては行なう事は出来ず、カバラのような深い知識を無闇に扱うことは、核開発と同じで制御不能となり扱いきれない核廃棄物を積み上げるのと同じような結果を招くと考えます。
ユダヤ人もキリスト教徒も、カバラに正しく優れた宇宙認識があるのであるから、それの意味するところを良く考えて謙虚に対応し、それに拠って「神の体を傷つけないように(自分自身を傷つける事になる)」と、考えと行いを転換すべきでしょう。
ジラディー氏の手記から展開して書きました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%A9
http://homepage2.nifty.com/ssry/u/uranai.html
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