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7月22日―メディアを創る
沖縄の米軍射撃訓練事件に見る国民と政府の限りなく遠い距離
国民ということばで我々は何を連想するだろうか。一つの集合体と思ってしまうであろう。ところが実際はそうではない。この国を動かしている一握りの人々とその側に立って様々な特権を享受している体制側に立つ人々(それは官界、財界、業界、学界などあらゆる分野に及んでいるのだが)が一方にあって、その対極にそうでない大半の庶民、大衆、労働者などが存在する。もちろんその中間に多数の人々が存する。しかしその人達も、結局はこのいずれかに属していることになるのだ。
そしてこの世の中は、目に見えない形で、前者と後者の対立、闘争で成り立っていると思えてくる。
何故このようなことを私が唐突に言うかというと、先般沖縄で起きた米軍の都市型戦闘訓練に対する住民の抗議と、それに対する政府の対応、世論の冷淡さを見てつくづく感ずるのである。
この平和ボケした日本にあって、国民(住民)の一部が戦争の実戦さながらの脅威にさらされているというのに、政府のこの冷淡な対応をどう考えればよいのか。これを殆ど大きく報じないわが国のマスコミをどう考えればよいのか。くだらないことにヨタ話を繰り返すテレビの解説者や文化人が、わが国民の生命が外国の駐留軍によって蹂躙されていることにかくも無関心にいられるこの国は、どういう国なのか。俺たちとお前たちは別個の国民群であるということなのだ。
21日、超党派の沖縄県議団が首相官邸、外務省、防衛施設庁を訪問し、訓練の即時中止を訴えた。これに対する町村外務大臣の対応は信じられないものであった。しかし実はこれこそが外務官僚の体質を象徴的に示している。
「訓練の中止を求めるわけにはいかない」
何故中止を求められないのか。まったく理由は無い。その気になればすぐにでも政府は米軍に中止を求める事が出来る。イラク占領を続ける米軍の実弾訓練を、住民の生命を危険にさらしてまで遠い沖縄の地で行う理由がどこにあるのか。それを何故止めさせることが出来ないのか。日米安全保障条約があるからこそ、日本政府は中止を求めるべきなのである。日米両国の友好と信頼に基づいた軍事同盟の維持の為にも、日本政府は米国政府に中止を求められるのだ。求めるべきなのだ。そしてそれはできるのだ。米国との交渉が面倒なだけなのだ。
杉浦官房副長官も大野防衛庁長官も、「安全に配慮してやっている」
と人事のように述べるだけだ。彼らがどこまで安全性を確認して発言しているというのか。官僚の作った答弁を繰り返しているだけだ。
こんな無責任かつ国民に冷淡な政府の大元締めは小泉首相だ。彼はこの問題にコメントしたことがあったか。記者たちは小泉首相にコメントを求めようとしたか。評論家や識者はこのことについて正面から発言をしてきたか。
この問題の根底にあるのは、日本の国民を無視してきた小泉政治がある。日本の国民を分裂させて統治してきた小泉手法がある。彼のもとで急速に固定化されて行った日米関係の不平等さ、不自然さ、不健全さがある。
我々はもう一度国民としての一体感を取り戻さなくてはいけない。人の痛みは自分の痛みと受け止め、自分だけ安逸な生活を送っていれば良いという貧しい心を捨てる心の豊かさを取り戻さなくてはいけない。もうそろそろ小泉首相の貧相で、いじましい生き様を、日本の生き様の合わせ鏡のように放置することは止めなければいけない。95年の少女暴行事件、先日の少女猥褻行為、今度の射撃訓練事件など、どこまで人権蹂躙を放置すれば気がすむのか。その間にわれわれの良心が風化していく。これを許してはいけない。
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