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沖縄戦新聞 第12号 2005年7月3日(日)
琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/variety/page-128.html
「疎開船」尖閣沖で沈没
台湾行き米軍機攻撃 石垣住民50人犠牲
7月3日午後2時ごろ、石垣島住民ら約180人余を乗せ、台湾・基隆港に向かっていた日本軍徴発の船、第一千早丸と第五千早丸(いずれも20トンから40トン)が尖閣諸島近海を航行中、米軍機の機銃掃射を受けた。第五千早丸は火災を起こして沈没し、第一千早丸が海に投げ出された住民の救出に当たった。両船で約50人が死亡した。一方、軍の命令で山岳地帯に強制退去させられた石垣町、大浜村住民や、西表島・南風見田(はえみた)に強制退去させられた波照間島住民の間でマラリア禍が猛威を振るっている。沖縄本島では掃討戦を続けていた米軍が7月2日に戦闘の終了を宣言。しかし、八重山では依然として住民が生命の危機にさらされている。
八重山でマラリア拡大
第一千早丸と第五千早丸は、石垣島駐屯の独立歩兵第299大隊(高木清太郎大隊長)が組織した水軍隊(長川小太郎隊長)が輸送力確保のため、沈没・座礁船を改修し使用している船や民間から徴発した船舶。
第一、第五千早丸は「疎開」を理由に、台湾に向かう住民を乗せ、6月30日午後9時ごろ石垣港を出港。西表島・船浮港に停泊した後、尖閣諸島沖を経て台湾・基隆港へ向かう途中、米軍機の攻撃を受けた。基隆港入港は3日午後の予定だった。
第五千早丸に乗っていた住民によると、3日午後2時ごろ、米軍機が機銃掃射を浴びせ、銃弾に撃たれた住民の血と肉が甲板に飛び散るなど、混乱状態に陥ったという。第五千早丸は火災を起こして沈没。第一千早丸も攻撃を受け、エンジンが故障。死亡者も出た。
海に投げ出された住民を救出した第一千早丸はエンジンを修理し、尖閣諸島に向かう予定だが、食料は限られており、住民らが飢餓状態に陥る恐れもある。両船に乗っていた住民数や米軍の攻撃による死亡者数の詳細は分かっていない。
一方、石垣島の山中や西表島の東部では軍の命令で居住地を追われた住民多数がマラリアに苦しんでいる。
波照間島住民は4月、石垣島に駐屯する独立混成第45旅団(宮崎武之旅団長)の命令を受け同島に配置された「陸軍中野学校」出身の残置諜報(ちょうほう)員の指示で、対岸の西表島・南風見田に強制退去させられた。さらに同旅団は6月1日、石垣町の翁長信全町長、大浜村の真玉橋朝珍村長らに対し、「米軍が石垣島に上陸する可能性がある」として、日本軍の指定する山岳地への退去を命令。2日から住民の移動が始まった。
西表島・南風見田では6月上旬から食料難となり、マラリア罹患者(りかんしゃ)も増加している。住民の間からは波照間島への帰島を求める声も上がっている。於茂登岳山中に移動した石垣、大浜両町村住民の間でもマラリアが広まり、生命が危ぶまれている。
福岡に臨時県庁
米軍は沖縄占領に伴い、日本の行政、司法権を停止した。1879(明治12)年以来続いた沖縄県政は、日本の施政から切り離された。しかし日本本土には九州を中心に6万人以上の県民が疎開しているとみられる。いずれも政府の指示で1944年7月以降、九州などへ疎開した老人、女性、子どもたちだ。政府はこうした人々を保護するため7月中旬にも「沖縄県関係行政事務内務省措置要領」を決定、沖縄戦で消滅した沖縄県庁に代わって、沖縄県福岡事務所(福岡市)を「臨時県庁」として当面の事態に対処させる。
内務省が想定している措置要領によると、沖縄県福岡事務所が沖縄県庁関係の事務を総括、差し当たり沖縄県内政部長が知事代理として沖縄県知事の職権を行う。
予算など県会(県議会)の議決が必要な事項は、すべて内務大臣が指揮。県行政に関する所要の経費は主に地方分与税財源を充てる。
市町村の場合は、各市町村事務所を福岡市に設置、出張中の市町村職員が事務を行う。主に戸籍、兵事、引き揚げ、市町村民の保護指導に関する業務を処理する。
沖縄が戦場になった場合を想定して、60歳以上、15歳未満の老人、女性、子どもを対象にした一般疎開が1944年7月から始まった。45年3月20日までに延べ187隻の船舶を使って九州を中心に約6万人を送り出した。学童約6000人は熊本、宮崎、大分3県に集団疎開させた。台湾には宮古、石垣両島から約2万人が疎開した。
しかし疎開地で生活の保障はなく、沖縄戦が始まってから、沖縄からの通信や送金が途絶え、生活の困窮が深刻になりつつあった。
大規模な基地建設 保護住民を大量動員 米軍
沖縄作戦終了を正式に宣言した米軍は、本土進攻作戦に向け本島中南部で飛行場など大規模な基地建設に着手、保護住民を作業に動員している。6月は延べ7万6000人を動員、7月にはさらに増加する見込み。6月末までに複数の飛行場が使用可能な状態になり、B25爆撃機が九州へ向け発進した。基地建設に伴い家屋はブルドーザーで破壊され、沖縄本島は米軍基地の島へと急速に変ぼうを遂げつつある。
米軍の集計によると、4月末に11万人の住民を保護。保護住民の総数は日本軍が首里の司令部を放棄して南部に撤退した5月末に14万人、日本軍の組織的戦闘が終了した6月末に28万人に達した。7月末までに30万人を超える見込み。
米軍は収容所に保護した住民に生活物資を配給。一方で、飛行場建設、物資荷揚げ作業、マラリア対策としての水たまり除去などの衛生対策作業、道路建設、水道敷設などに動員している。
基地建設予定地となった中部地区の建造物はブルドーザーで壊され、道路網、飛行場、物資弾薬の貯蔵庫などとして整地されている。
特に11月に予定している九州上陸作戦を控え、同地域を爆撃する飛行場建設が進んでいる。6月17日に2000メートルの滑走路を持つ読谷飛行場が完成したのをはじめ、伊江島、嘉手納、那覇(小禄)など5飛行場が使用可能な状態に整備された。6月28日にはB25爆撃機が九州へ向け発進した。
基地建設に伴い、7月以降、建設地の中南部から石川、田井等、宜野座など北部の収容所へ住民を移動させている。
米軍、各地で掃討戦 沖縄戦、戦闘終了を宣言
第32軍司令部の牛島満司令官、長勇参謀長自決後の6月23日から掃討戦に入った米第10軍は日本軍との間で散発的な戦闘を繰り返した後、7月2日に掃討戦を終え、沖縄戦の戦闘の終了を宣言した。3日、ムーレー米海兵隊大佐が軍政府副長官に就任した。
米軍側の集計によると6月30日までの日本軍戦死者数は約10万7500人、軍人の捕虜は約7400人、収容した民間人は28万4600人に上っている。一方、米軍の戦死者数は約6300人となった。
米軍は10日間の計画で掃討戦を開始。本島南部の高嶺村真栄里、真壁村真栄平などで日本軍が抵抗。夜間の斬(き)り込み攻撃が続いており、日本軍の戦死者数が約150人−200人余に上る日もある。本島北部、本部半島でも日米両軍が衝突した。24日、伊江島では日本軍の爆撃によって米兵16人が戦死した。
一方、米軍の投降勧告に応じ、捕虜となる日本兵も急増している。米軍は6月17日から23日にかけ数十万枚の降伏ビラを投下し、大規模な心理作戦を展開。19日には343人が自発的に投降した。
日本兵投降の増加について米軍は(1)投降は最大の屈辱という日本人の心情の崩壊(2)捕虜となるより死なねばならぬという命令や新聞、ラジオ、その他のうわさがうそだったと考える者が増えた−と分析している。
掃討戦の中で米軍第7師団は25日、摩文仁の32軍司令部で自決した牛島司令官、長参謀長の遺体を確認した。
日本兵7401人、米軍捕虜に 重要な戦略情報提供
米軍は6月30日までに1万755人(軍人、労務者、民間戦闘員含む)を捕虜にし、太平洋地域の戦闘の中でもかつてない規模に上っている。捕虜の中には将校200人以上も含まれており、米軍はこれら捕虜から日本軍の戦略や戦術についての情報を収集している。
米第10軍のG2(情報部)報告によると、30日までの捕虜のうち日本兵は7401人、労務者3339人、民間の戦闘員は15人。
日本兵の場合は、3月27日に阿嘉島と座間味島で計57人が最初の捕虜になった。6月20日(977人)、21日(1015人)、22日(973人)の3日間だけで合計約3000人に上っている。
米軍の島司令部は4月17日に捕虜収容所を開設。捕虜は全体的に協力的で、重要な情報を米軍に提供しているという。また、日本軍指導者に対して強い憤りを感じており、日本が勝っていると信じている捕虜はほとんどいない、と米軍は分析している。
このうち第32軍の沖縄作戦全般を立案した高級参謀、八原博通大佐は7月中旬に捕虜になった。八原大佐は牛島満司令官と長勇参謀長が自決した後、摩文仁の壕を脱出していた。米軍の尋問に対し八原大佐は、日本軍の戦略や戦術について多くの情報を米軍にもたらしているという。
第12号紙面案内
2面 苦難続く離島住民
3面 終わらない“戦争”
4面 戦争遺跡を歩く−宮古・八重山
インデックス
第1号 (2004年7月7日発行) 「サイパン陥落」
第2号 (2004年8月22日発行) 「対馬丸沈没」
第3号 (2004年10月10日発行) 「10・10空襲」
第4号 (2004年12月14日発行) 「戦時動員体制」
第5号 (2005年2月10日発行) 「疎開と動員」
第6号 (2005年3月26日発行) 「米軍慶良間上陸」
第7号 (2005年4月1日発行) 「米軍本島上陸」
第8号 (2005年4月21日発行) 「伊江島占領」
第9号 (2005年5月5日発行) 「第32軍総攻撃失敗」
第10号 (2005年5月27日発行) 「32軍 首里司令部を放棄」
第11号 (2005年6月23日発行) 「沖縄戦 事実上の終結」
次号は8月に発行します