★阿修羅♪ > 戦争72 > 277.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: イラクで数多くのテロに関与するイスラエル(仏『レゾーヴォルテール』) 投稿者 さすれば 日時 2005 年 7 月 17 日 15:39:22)
新首相は90年代の破壊活動でCIAに協力
http://www.geocities.jp/uruknewsjapan/new_premier.html
元CIAの証言: NEW PREMIER:
Ex-C.I.A. Aides Say Iraq Leader Helped Agency in 90's Attacks
ニューヨーク・タイムズ 2004年6月9日
JOEL BRINKLEY
http://www.nytimes.com/
ワシントン発、8日発;
今ではイラクの新首相に指名されているイヤド・アラウィは、サダム・フセイン追放を企てた亡命組織を指揮しており、1990年代前半には、CIA(米中央情報局)の指令のもとに、政府施設を爆破し妨害活動をすすめるために、バグダッドにスパイを送りこんだりした−−元CIA高官だった数人がこう証言する。
その高官たちは、イラク国民合意(INA)というアラウィ配下の組織が、イラク北部からバグダッドに密輸された爆弾や爆破装置を使用していた、と話した。元CIA高官はそれがサダム・フセインの統治を脅かすものにならなかったとインタビューで同意したものの、爆破作戦の有効性に関する評価は異なっていた。
爆弾作戦の公的記録はなにも存在してなく、元高官たちは彼らの記憶が多くの場合概略的なもので、矛盾する場合もあると話した。1992年から95年の間のことだとインタビューで明らかになったものの、彼らはいつ起こった事件だったか正確に思い出せなかった。
当時のイラク政府は、映画館で爆発があったという一件を含め、爆破作戦は多くの市民に犠牲者を出すことになったと主張していた。しかし、その爆破攻撃が本当に市民を殺害したかどうかは確かめられなかった。というのも、元CIAのある高官が、アメリカは当時イラク国内に確かな情報源を持ってなかったと指摘する状況だったからだ。
中東地域を活動拠点にしていた一人の元CIA幹部ロバート・ベアは、その時期に起こった爆破が「スクール・バスを吹き飛ばし、学童が殺された」ことを思い出した。イラク戦争を批判するベア氏は、どの反政府組織がその爆破攻撃を遂行したか思い出さなかった。
別の元CIA高官は、アラウィ氏の組織は当時、爆破・妨害作戦に参加していた唯一の反政府組織だと語った。
しかし、一人の元CIA高官は、「爆弾作戦が大した効果をあげなかった」ことを思い出した。「多数を殺害したという記憶がない」と彼は言った。
アラウィ氏が先週、暫定首相に指名されたとき、彼は最優先課題はイラクにおける爆弾攻撃や他の反乱者の攻撃を止めることによって、治安情勢を改善することだろうと話した。その考えに、彼の過去をよく知る数人の元CIA高官が「皮肉なこと」だと指摘した。
「盗賊退治に盗賊を指名する」−−1990年代前半にCIAでイラン・イラクの軍事問題分析官をしていたケネス・ポラニックはこう指摘し、当時の破壊活動を思い起こした。
アラウィ氏はワシントンの代理人パトリック・セロスを通じて、月曜と火曜に繰り返し求められたコメントに応じることを辞退した。爆破作戦へのCIAの関与を確認した元CIA高官は、どのようにCIAがそれに協力したかを明言しようとしなかった。
1990年代前半にアラウィ氏と一緒に活動していた米国諜報機関の幹部は、「当時はバグダッドの破壊活動に疑問を持つ者は誰もいなかった」と述べ、「今、事態がどうなるかを知っている者が誰かいるとは思わない」とつけ加えた。
アラウィ氏は10年前、CIAその他の米政府機関のお気に入りだったが、その主な理由は、より突出した亡命者アハマド・チャラビへの対抗馬として、彼が働いていたからである。
クリントン政府の国家安全保障問題顧問だったサミュエル・ベルガーは、インタビューに、彼(アラウィ)は「イラクの作戦に参加する者からとても尊重されていた」と述べた。「チャラビと違って、彼は中東地域の政府からも信用される人物だった。彼はあまり派手でなく、売り込みも少なかった」。
元諜報機関高官は、CIAがアラウィを雇い入れたのは1992年だったと話した。その時、「われわれがしていたことは、『イラク人反体制派のなかで』われわれの手先となる人物と取り引きすることだった」と元諜報機関高官は言った。チャラビ氏は1991年にCIAと一緒に仕事をし始めていたが、CIAが考えていたのは「一緒に仕事ができる別の人物を探し出すことで、われわれの携わる任務のなかでのチャラビの役割を小さくすること」だったと彼は言った。
1991年には、アラウィ氏は合衆国が芳しくないと評価した元イラク高官サリフ・オマル・アリアッ・ティクリティと連絡をとっていた。彼とアラウィ氏が1990年にイラク国民合意を創設したのだ。二人とも、以前はイラク政府を支持していた。
一部の諜報関係者は、アラウィ氏は1970年代前半にはまだ政権党であるバース党の党員だったが、ロンドンに留学するイラク人学生をスパイしていたかもしれないと示唆した。ティクリティ氏はバグダッドで公開処刑を監督していたと言われている。元関係者は、CIAはアラウィ氏はティクリティ氏と関係を断つまで(彼は1992年にそうした)一緒に仕事をしない腹づもりだったろう、と指摘した。
数人の諜報関係者が言った−−1991年の湾岸戦争直後のCIAの大きな目標は、イラク内に高レベルの人脈を持つ反体制派のリーダーを雇い入れることであった。イラク国民合意は元イラク軍高官と政治指導者で構成されていて、彼らは亡命者であり、政府内の同僚だった者と関係を維持していると言われていた。
「イヤド(アラウィ)は将来役立つだろうとCIAが考えていた人々と連絡を持っていた」とポラニック氏が言った。「彼は尊敬されるスンニ派の人物と関係があるようにみえたし、それは他の誰にもできなかった」と。フセイン政権はスンニ派教徒によって支配されていた。
爆破と妨害作戦は「能力を立証するためのテスト以上のものではなかった」と元諜報機関高官が話した。
イラク問題を担当していた諜報機関の別の元幹部は、爆弾攻撃は「われわれが考え実行した選択肢の一つだった」ことを思い出した。アラウィ氏のグループが採用された、と彼はつけ加えた。「なぜなら、チャラビは破壊活動を遂行しうる国内組織をなにも持ってなかったからだ」。
爆弾作戦の効果についてのさまざまに異なる評価は理解できる、と元諜報機関高官は話した。
アラウィ氏がこれまで爆弾作戦について公に話してきたとは思われてない。しかしイラク国民合意の一人の幹部は話した。1996年、イラク国民合意のための爆弾製造チームの責任者でイラク北部のスレイマニヤを拠点にしていたと自称するアムネフ・アル・ハダミは、彼が爆弾作戦について語り、報償と支給がごまかされていると不満を言っているのをビデオに記録した。諜報機関の元幹部二人がそのビデオテープの存在を認めた。
1997年の英紙『インディペンデンス』の報道によると、ハダミ氏は、「われわれは車を吹き飛ばし、2000ドルを手に入れることになっていた」が、1000ドルしか手に入らなかった、と話している。同紙はそのテープのコピーを入手していた。
ハダミ氏はまた、CIAが彼を「それほどのテロリスト」と見ていたことに悩んでいると話した−−同紙がさらに報じていた。
イラク首相はCIAのお墨付き
http://www.geocities.jp/uruknewsjapan/CIA_linked.html