★阿修羅♪ > 戦争72 > 259.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://www.saburo.info/hp/profile/index.html
靖国神社がなぜ問題か(17年7月1日)
民主党の岡田克也代表が衆議院予算委員会に於いて、中国が反発を重ねる小泉純一郎首相による靖国神社参拝を非難し、「国連の安保理常任理事国入りなどの外交課題の障害になっている」と指摘した。さらに小泉首相が「他国が干渉すべきではない」などと発言したことに対しても、中国側を刺激する発言を繰り返したとして「国際紛争を招いている」と言い切った。
そして最後に「選択肢は三つしかない」として、「小泉首相は靖国神社に行かないか、相手を説得するか、首相を辞めるかである」と詰め寄ったのである。
また「戦犯が祀ってある靖国神社に私は参拝する気になれない」と自分の所信を述べた。この発言は、恰も中国側の代弁者が日本の国会の場を借りて発言しているのではないかと疑う程の内容である。岡田代表が自分の信念を吐露し、国民の支持を得ようとすることは勝手である。だからと言って「靖国参拝」に対する非難を中国代表の発言と要求に応えるが如とく長々と繰り返すことの卑しさには、同じ日本人として腹立たしさを感じる。
時を同じくして、森岡正宏厚生労働政務次官が5月26日の自民党代議士会に於いて「A級戦犯は罪人ではない」と発言したことについて、民主党の島聡衆議院議員が「極東軍事裁判を受諾した政府方針と違う」と辞任を迫った。しかし小泉首相はこれを取り合わなかった。
勝者のみの裁判官と検察陣。弁護人の資料は一切棄却したのであったから、事実上、東京裁判は復讐劇そのものであった。また刑法は「罪刑法定主義」である。事件の後に新しい法を勝者のみによって制定し、前の戦争を裁くことなどは裁判ではない。
東京裁判の主導者マッカーサー司令官は帰国後、「東京裁判は間違いであった」と米国上院で証言をしている。その当時、日本国民の総てが「東京裁判の非道」を叫び、日本共産党も敗戦直後は米軍を「解放軍」と迎合したが、やがて「レッドパージ(赤色追放令)」によって占領政策を否定せざるを得なくなった。
それにしても中・韓両国が今日に至って、急激に「A級戦犯」という罪名を高度に利用してきている。それを中・韓両国の指導者の政権維持の具に利用することは、彼等の置かれた立場からは同情に値する。しかし大東亜戦争に対する審判及び東京裁判に対する「A級戦犯」という罪名については歴史が審判することであろう。
事実はサンフランシスコ講和条約発効後、所謂「A級戦犯」の死刑者は国内法上「公務死」の扱いにされたということである。
そして「A級戦犯」として巣鴨拘置所に繋がれた岸信介氏はやがて首相になり、さらに「A級戦犯」として禁固七年とされた重光葵氏は戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。また終身刑だった賀屋興宣氏は池田内閣の法相を務めたのである。彼らのいう「犯罪人」が法の番人となったのだ。
このように歴史的に見ても、所謂「A級戦犯」は「戦争責任者」ではあっても「戦争犯罪人」ではないのである。
1978年に「A級戦犯」とされた人達が靖国神社に合祀された。当時、大平正芳首相や鈴木善幸首相は従来通り参拝した。当時、大平首相は「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものについての審判は、歴史が致すであろうと私は考えております」と述べている。
ところで、マッカーサーの右腕・情報部長のウイロビーとオランダの判事レーリンクが、東京裁判を終えて帰任するとき「この裁判は史上最悪の偽善です」と語り、続けて「日本が置かれたような状況になれば日本が戦ったようにアメリカも戦うでしょう。そして日本には当時二つの選択肢しかありませんでした。すなわち、戦争をせずに石油備蓄が底をつくのを座視し、他国の情けに縋るだけの身分に甘んじるか、あるいは戦うかです。そのように生存のための権利が脅かされれば、どんな国でも戦うでしょう」と語っている。
何も戦争を美化する気など毛頭ない。しかし当時の日本の情況を知ることは日本人の権利である。
昭和28年8月3日、衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。中国は前年(昭和27年8月)、「日華条約」発効と同時に全員赦免を明記している。同時にフランス・フィリピン・豪州政府も全受刑者を赦免した。
講和条約の規定に従って関係各国の同意を得て、昭和33年までに受刑者全員が釈放された。不服はあっても「東京裁判」を受け容れる約束を日本政府は全て果たしたのであった。
これと並行して戦争裁判による刑死者・獄死者に対する遺族年金・恩給支給の運動が起こり、当時の左右社会党を含む国会の全会一致で法律が可決された。
通常、懲役3年以上の刑に処せられた者への恩給は停止されるのであるが、東京裁判の刑死者等は国内の犯罪者ではなく、「戦争犠牲者」と考えたから支給を決めたのである。
この国内に於ける赦免は、一般的には「罪人」ではあるが恩典として釈放する立場と、「罪人」とは認めないが故に当然の処置として釈放する場合があり得る。
我が国の政府の採った立場が正にその後者であることは、この決議に続く「戦没者遺族等援護法」及び「恩給法」の以後逐年の改正により、旧敵国の戦争犯罪裁判による刑死等は国内法の「罪人」とは見做さないとの立法措置を執ったことからも明らかである。
東京裁判で処刑された人々の無念は想像に余りある。戦争に負けた以上、日本国民に対する責任は自覚している。自分の運命は覚悟している。しかし二年半の屈辱的な取り扱いと裁判の後で死に際しても何の尊厳も認められず、獄衣のままで絞首刑に処せられ、遺骨さえ遺族への引渡しを拒否された。
「翌24日がクリスマス」のため米兵の警戒がゆるんだ昭和23年12月23日の夜に、米軍が骨灰を棄てたゴミ捨て場で弁護人が遺骨を掬い上げ、熱海の興亜観音に葬ったという。
この観音堂は処刑された松井石根大将が「怨親平等」の見地から、昭和15年に日支両軍の戦没者のために建立したものである。
「戦勝国」を自負する中国がなお60年を経ても日本国に追い付けないことを妬んでいる。この中国の人達の心情は致し方がない。しかし中国を支配したのは日本だけではない。また日本の支配は欧米の支配と比べて、とりわけ非情残虐であった訳でもない。
それでも日本だけを非難するのは、全く別の目的があるからだと思えて仕方ない。
昭和21(1946)年2月7日は元フィリピン派遣軍総司令官・本間雅晴中将を戦犯として裁く「マニラ軍事法廷」の弁護人側証人出廷最終日であった。
ここで被告の妻・本間富士子(当時42歳)は証言の終わりに次の如とく語ったことが伝えられている。
「私は東京からここへ参りました。私は今も本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。私には娘が一人おります。いつの日か、娘が私の夫・本間雅晴のような男性と巡り会い、結婚することを心から願っております。本間雅晴はそのような人でございます」。
この言葉が伝えられると法廷のあちこちから啜り泣きの声があがり、米軍検察官の中にも感動のあまり涙を拭う者がいたという。そして本間雅晴自身も妻の自分に対する絶対的な尊敬と愛の言葉に接し、ハンカチを顔にあて嗚咽した。
終戦直後のマニラでは日本人とみれば罵声が浴びせられ、石が飛んで来る程に反日感情が充満していた。しかし証言を終えた彼女には争って握手を求めたという。
フィリピンを追われたマッカーサー元帥は3年間敗軍の将となり、オーストラリアに逃げ、彼の輝かしい軍籍に傷をつけられた。その憎しみのゆえに本間中将を銃殺刑にしたとも言われている。山下奉文大将も本間中将も、裁判では真摯なそして毅然たる姿で通し、敵も味方も、日本軍人の誇りを示したと評している。
山下大将の弁護人であった米国人フランク・リールは「祖国を愛するいかなるアメリカ人も消しがたく、苦痛に満ちた恥ずかしさなしにはこの裁判記録を読むことはできない。(中略)われわれは不正であり、偽善的であり、復讐的であった」と語った様子が『山下裁判記録』で見ることが出来る。
連合国がポツダム宣言で「言論の自由の確立」を約束し、かつ日本に押しつけておきながら、自らは厳しい検閲を行って日本人から「言論の自由」を奪ったことは矛盾している。
とりわけ極東軍事裁判への批判は一切禁止された。連合国側、とりわけ米軍のB29による一般国民に対する無差別攻撃や、逃げ惑う女性や子供に対して戦闘機が狙い撃ちの機銃掃射を加えたことは明らかに国際法違反であった。
極東裁判において日本側弁護人であるアメリカのブレークニー弁護人は「戦争による殺人が犯罪になるのなら、なぜ原爆を投下した者がそれを裁くことができるのか」「原子爆弾という国際法で禁止されている残虐な武器を使用して、多数の一般市民を殺した連合国が捕虜虐待について日本の責任を問う資格があるのか」と質している。
またローガン弁護人はアメリカが如何に経済的、軍事的に日本を追い込んだかを論証し、連合国の不当な挑発によって第二次世界大戦が引き起こされたものであることを法廷で訴え、さらに「日本の攻撃が自衛手段でないと記録することは、実に歴史に一汚点を残すものである」とも論じている。さらに「日本の侵略行為が、約20年を遡って『満州事変』に言及されるならば、何故百年を遡らないのであろうか。約100年前、フィリピンを侵略したアメリカを、インドシナ半島を侵略したフランスを、インドネシアを侵略したオランダを、そしてインド・マレーシア・ビルマ等を侵略したイギリスをも裁くべきである」と論述して、裁判官席にいるこれらの国の代表に向って「日本を裁く資格が果たしてあるのか」と熱弁を繰り広げ、被告の胸中を余すところなく代弁してくれている。
「大東亜戦争が『アジア解放』のための戦争だ」とまでは主張しないにしても、「当時の日本は米英等に追い詰められ、『独立と自衛』のために戦わざるを得なかった」と当時の指導者は信じていた。その心境と祖国、民族の魂が靖国神社に祀られているのである。
その精神が独立後に正当に処理され、国会の全会一致の議決を行ったという当時の先輩達に敬意を表したい。また何れの国も当時異論は一切なかったというのが歴史の事実である。全国会議員は今一度、国会議事録を学んで欲しい。