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(回答先: 日本人は重慶の絨毯爆撃で何人殺したかを想え! 投稿者 木村愛二 日時 2005 年 8 月 05 日 23:33:31)
紹介 前田哲男 著 『戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶−広島への軌跡』
Cityscape Blog
August 08, 2004
重慶爆撃について
http://cityscape.air-nifty.com/cityscape_blog/2004/08/post.html
正林堂
http://www2.freejpn.com/~az1156/page070.html
第五テーマ館 今、戦争をどう語るか
前田哲男『戦略爆撃の思想』
http://www2.freejpn.com/~az1156/page166.html
より
本書のプロローグで「戦史初の戦略爆撃作戦」「眼差しを欠いた戦争」「もうひとつの真珠湾」
として、ゲルニカ以上に大きな意味をもつ重慶爆撃を次のようにまとめています。
戦史初の戦略爆撃作戦
第一に、日本軍の重慶爆撃は「戦略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図
的・組織的・継続的な空襲作戦であった。ドイツ空軍のゲルニカ攻撃より約1年遅れはしたが、
1日限りではなく三年間に218次の攻撃回数を記録した。空襲による直接の死者だけで中国
側集計によれば1万1885人にのぼる。ドイツ空軍が英本土に対して「アドラー・ターク(鷲の
日)」攻勢を開始し、あの「バトル・オブ・ブリテン」の始まる日までに、重慶は二夏の爆撃を体
験し、日本軍飛行士によって市街地は「平らになった」と報告されていた。英空軍によるベルリ
ン爆撃より「五・三、五・四」の方が1年3ヶ月も早い。つまり重慶は世界のどこの首都より早く、
また長く、かつ最も回数多く戦略爆撃の標的となった都市の名を歴史にとどめるのである。
その意味で「重慶爆撃」は、東京空襲に先立つ無差別都市爆撃の先例であり、核弾頭こそ使われなかったもの
の、思想においてそれはまぎれもなく「広島に先行するシロシマ」の攻撃意志の発現であった。第二次世界大戦の
中から生まれてきた「戦略爆撃の思想」が広島・長崎を転回点として核戦略に転移し、航空攻撃から弾道ミサイルに
よる「経空攻撃」へと飛躍して地球と人類にのしかかっている現実を考えるなら、ゲルニカ―重慶―広島への流れ
は、人類絶滅戦争=みなごろしの思想の原型を形づくったといえる。
加えて重慶から流れ出たもう一つの支流「焼夷弾からナパーム弾」への分野を見ると、東京空襲から朝鮮戦争、ベトナム戦争と続き、イラン・イラク戦争、湾岸戦争に至るまで、枚挙にいとまない血と炎の濁流を目撃できる。これも「重慶の遺産」と無縁ではないのである。
著者は他のところでも、チャーチルの「一般人の士気は軍事目標である」との言葉などを引き合いに、始めは軍事
施設のみを攻撃目標にしていても、多くの戦争で共通して公式・非公式に非軍事目標である民間人、民間施設が攻
撃の対象に変わっていく数々の事例を紹介しています。
眼差しを欠いた戦争
第二に、重慶を一つの始原とする無差別地域爆撃の戦法は、その出現によってまたたく間
に戦争と人間とのかかわり方をつくり替えてしまった。それは高々度爆撃につきものの大量死
や「前線・銃後の消滅」といった領域のみにとどまるものでなく、さらに深いところで戦争と人間
の関係をべつのものへと変換させずにはおかなかった。
それは徹底的に眼差しを欠いた戦争であった。重慶の人々はだれ一人として、自分の命を
奪おうとする日本軍兵士を目にすることはなかった。戦争の全期間そうだった。1938年2月の
小手調べのような空襲から1943年8月最後の空襲まで、日本軍は一兵たりとも重慶の地に姿
を現さなかった。ひたすら上空から爆弾を投下することでのみ、日本兵は重慶の人々と相対し
た。
ゴヤの「五月三日」の絵では、死刑執行人の銃は、殺される男の胸元に触れんばかりの近さで構えられている。
『戦争の惨禍』のエッチングに見る殺戮者と犠牲者の距離はさらに接近し、両者の関係はもっと生々しい。視線はか
らまり合い、行為者の記憶に必ず断末魔の表情が畳み込まれるだろう。
これに反し、重慶の「五月三日」には加害者の人影はまったくなかった。近づいてくる爆音とつかの間の機影、空気
を切り裂く爆弾の落下音、そして爆発、阿鼻叫喚・・・・・・。肉体のぶっつかり合いも殺意の視線もない、一方的な、機
械化された殺戮の世界だった。人々は侵略者がどんな顔つきをしているのかを知る機会もなく、死んでいった。
空中にある者からは、さらに殺人の感覚は欠落した。苦痛にゆがむ顔も、助けを求める声も、肉の焦げる臭いも、機
上の兵士たちには一切伝わらなかった。知覚を極端に欠いた戦争、行為とその結果におけるはなはだしい落差をも
つ殺戮の世界がそこにあった。それは来るべき戦争に新しい手法を持ち込むはずだった。一年半前、同じ揚子江流
域の南京の地で、「農業期戦争の虐殺」に頂点を画するともいえる事件を引き起こしていた日本軍は、ここ重慶にお
いては「工業期の戦争」と形容すべき、機械化された殺戮の戦術に先鞭をつけたのである。やがてこの悪夢の世界
は、東京、大阪、名古屋はじめ日本全主要都市の住民に追体験されるところとなる。
空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感覚の消滅」という要素は、同時に、行為者の回
心の機会をも閉ざしてしまう作用をもつ。南京大虐殺に従事した兵士なら、罪の意識にさいな
まれない者でも、一生振りほどけそうにない「光景」や「手ごたえ」をもっているに違いない。こ
れに対し、重慶爆撃に参加した兵士の記憶に残る感触といえば、爆弾投下装置を作動させる
さいの「腕一本の感触」と立ち上る土煙の印象に過ぎない。対日都市空襲に従事したB29の
パイロットや広島に原爆を投下したポール・チベッツ大佐と同様、重慶に大量死をもたらした日
本人もまた、行為の結果から阻害されていた。
だから南京の意味が問われるようには、決して重慶は語られてこなかった。
南京の罪を告白する兵士はいても、重慶に杖を曳く人はいない。
今なお原爆投下の正当性を主張してやまないチベッツ大佐の頑固な「非転向」をだれも笑う
ことはできない。
著者は文庫版あとがきでさらにこう付け加えている
従軍慰安婦、民間人の強制連行、戦場で使用・遺棄された化学兵器の処理・・・・国内で「戦争記憶の風化」が語
られる中、しかし、アジア諸国からは、新たな戦争責任の追及がいぜんあとを絶たない。それに「蒸し返し史観」と反
発するのは誤りであろう。同一の所業が、いまなお世界各地で起こっているがゆえに「呼び戻されて」いるのである。
日本がそれを克服し得ていないがために「引き合いに出されて」いると受け止めるべきた。
重慶爆撃もそのひとつの例である。対都市爆撃は、朝鮮戦争から湾岸戦争まで、重慶の遺産は第二次世界大戦
後の戦史に流血の道を記している。それを確認するため、私はこの本を書いた。
「もう一つの真珠湾」
三番目に、重慶爆撃は −もちろん中国人の対日感情に大きな役割を果たしたことは疑い
ようもないが− 同時にアメリカ人の対日感情に重大な影響を及ぼした。それは当時の日米関
係に破局をもたらす要因となったばかりでなく、今日に至るもなお引用され繰り返される「アン
フェア日本のルーツ」のような影も引きずっている。
エドガー・スノー、アグネス・スメドレーらジャーナリストが、爆弾の降りそそぐ重慶に滞在し、多くの記事をアメリカの
読者に送り届けた。『タイム』と、発刊したての写真雑誌『ライフ』は重慶に常駐駐在員を置き、セオドア・ホワイト、ジョ
ン・ハーシー、そしてカメラマン、カール・マイダンスらの記事と写真を切れ目なく掲載した。「五・三、五・四空襲」の現
場に居合わせたホワイトは、「日本人というと、今もって私は気色ばんでしまう」といい、次のように書く(『歴史の探
求』)。
「この殺戮に関して重大なのは敵のテロの目的である。南京と上海はすでに爆撃されていた。しかしそれは軍事上
の爆撃だった。それに対し、重慶のこ古壁の中には、軍事目標は何一つなかったのである。にもかかわらず、日本軍
は、重慶を灰燼と化す対象に選んだのだ。そしてそこに住むすべての人びとの精神、彼らが理解しえない精神を挫
き、重慶郊外に避難していた政府の抵抗を打ち破ろうとした。
その後、わが軍が日本軍を攻撃するようになっても、私はいささかも良心の呵責を感じなかった。〈略)無分別なテ
ロであった重慶爆撃は、私の政治観に直截かつ根源的な影響を与えた」
『歴史の探求』は1978年に書かれた自伝だが、半世紀にわたるジャーナリスト活動を、86年5月の死によって閉じた
ホワイトは、白鳥の歌となった論文「日本からの危機」の中で、ひときわ高く「アンフェア日本」の旋律を、11930年代
の日本と今日の経済大国日本を重ね合わせながら歌った。そのときの彼の脳裏には、火の海となった重慶と上空を
わがもの顔に飛ぶ日本軍機の黒々とした影が蘇っていたに違いない。
「日本人は、こっちが攻撃してもいないのに攻撃してきたんだ。そして、捕虜を、中国人をひどい目にあわせたんだ。
だから・・・・・。
いや、こういうことを今さら持ち出すと、日本人は、もうそんなこと、全部忘れるべきじゃないかというかもしれない。
しかし、まだちゃんと覚えている人間も少しはいるって事を、日本人にわからせておいたほうが、いいと思う」
死の直前のTVインタビューで、ホワイトはこう語っている(NHK特集「アメリカからの警告」)。
重慶爆撃は、日米関係史の中での「もう一つの真珠湾」と表現できる意味と影響力を、あたか
も残留放射能の後遺的影響のように、今も及し続けているのである。
「国共合作の陰謀が渦巻く都で」
このほか、空襲下の重慶にはさまざまな人がいた。抗日戦争の司令塔となった四川省重慶
の非占領地域、すなわち「大後方」は同時に国民政府首席・蒋介石と四家族(蒋・宋・孔・陳一
族)の支配する「白区」であり、陰謀と恐怖政治の渦巻く「陪都」(臨時首都)であった。外交使
節のための公館から、難を逃れて中国全土から集まってきた大学、美術館、さらには北京や
上海の一流料亭まで、おびただしい人と物の流れが、揚子江を遡ってこの地へと集まってき
た。
周恩来も「八路軍弁事処」代表の肩書きで、蒋介石とともにあった。重慶市民は焼け跡で彼
の国際情勢分析に耳を傾ける。郭沫若はここで『屈原』を完成、初上演した。爆撃機のこない
霧の季節を選んだ「霧季芸術節」は、市民の大事な行事となる。
これらの時代背景と条件もまた、重慶を日本軍機に魅入られた都市として、当時の情勢の中
に突き出していたのである。