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6月22日―メディアを創る
沖縄問題を考える
1945年6月23日は沖縄戦終結の日である。22日の毎日新聞が一日早く特集記事を掲載していた。これを読んで、自分はどこまで沖縄を知っていたかという思いにとらわれた。こういう特集記事は、日常生活に埋もれて殆ど勉強する事のない我々に、しばし考える時間を与えてくれる。
沖縄戦に限らず、我々は近代の歴史を殆ど学んでいない。靖国参拝をめぐる大騒ぎは、一つだけ良いことをしてくれた。歴史の勉強を我々にわずかばかりさせてくれたことだ。みずからの無知をさらけだした小泉首相も、少しは反省して学んだに違いない。付け焼刃でも勉強をしたほうがいい。勉強をしてみると無知な自分を思い知る。そして考え直すことになる。
毎日新聞の特集記事を読んで次の点を指摘したい。
1.沖縄が大本営によって着目されるようになったのは、敗戦が濃厚になった太平洋戦争末期になってからだという。沖縄守備軍である第32軍が創設されたのが44年3月。しかも44年10月に米軍は那覇を大空襲し沖縄上陸が予想されたにもかかわらず、大本営は守備軍の精鋭部隊を台湾に移した。45年4月1日、上陸した米総兵力は54万8000人で、これは当時の沖縄県民45万人を上回る。わが守備軍は約12万人に過ぎなかった。徹底抗戦が叫ばれ「鉄の暴風」と称される米軍の砲撃戦により、住民や動員学徒は次々と命を失って行った。18万8000人以上と言われる死亡者の半数以上が住民だった。大本営にとって沖縄戦は、長期戦で米軍を消耗させ本土進攻を遅らせる意味があった。まさに沖縄は「捨石」となった。
2.国土面積の0.6%の沖縄に、日本にある米軍基地の75%が存在する。しかもこの比率は、沖縄復帰時には本土41%、沖縄59%の比率だったものが、今では25%、75%になっているのだ。すなわち「沖縄の日本化」が進む中で、基地だけは逆行している。なぜか。
カート・キャンベル元米国防副次官補は22日の毎日新聞で述べている、
「・・・ベトナム戦争では沖縄の米軍基地がとても役立ったが、現在、沖縄の戦略的な位置づけは、疑いようもなく高まっている。中国、台湾海峡、尖閣諸島に極めて近い位置にあるからだ。(「抑止力の維持」と「負担の軽減」の両立は)理屈では可能だが、難しいと思う。沖縄の人々にとっては苦痛な事だと思うが、これは沖縄の戦略的位置づけをめぐる一種の矛盾だ。我々が沖縄を覗き込んでいるレンズは以前とは違う。沖縄の人々の心への思いやりよりも、アジアの平和と安定の維持に必要な、緊急の課題に対応しようという感覚のほうが強い・・・日米両政府とも、イラクやアフガニスタン、中国、北朝鮮などの問題で精一杯で、(沖縄の問題まで)注意が行き届かないのが現状だ・・・」
はからずも日本政府の本音がここに明らかにされている。米国関係者からバラされているのだ。すなわち日本政府が沖縄の基地縮小に取り組まなかったのだ。
決め台詞のように聞かされる沖縄の「戦略的位置」について、我々はそれが根拠のあるものか、政府から説得力のある説明を一度も聞かされていない。沖縄の戦略的重要性は、絶対的なものではないはずだ。米国にとって都合がいい、ただそれだけの理由なのではないか。
3.69年11月の佐藤、ニクソン会談で合意された「核抜き本土なみ」沖縄返還のウラで、「日本政府は核の再持込を保証する」という密約がなされていたことはもはや歴史的事実であるが、その交渉で密使を務めた元京都産業大学教授の若泉敬氏が、太田昌秀知事や沖縄県民に歎願状を出していたのには驚いた。今年の5月に遺族が明らかにしたという。
福田赳夫自民党幹事長(当時)から「沖縄問題の件でひと肌ぬいでもらえないだろうか。もちろん総理の意を受けて」と要請された若泉氏は、密約の重みに耐え切れず、94年5月沈黙を破って秘密交渉を詳細に描いた著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版した。それから一ヵ月後、6月23日付けで若泉氏は歎願状を出していたのだ。その中で、若泉氏はこう述べている。
「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁します」
実際には彼は自殺することなく2年後の96年7月、がんのため死去(享年66)するのだが、自殺まで考えたほど思いつめていたのだ。
それに比べ交渉の責任者であった佐藤首相はどうか。ワシントン滞在中の佐藤首相はその日記の中で、高揚感あふれてつぎのように記していると22日の毎日新聞は書いている。
「・・・軌道の上を予定通り走り、正午前には妥結。大成功。本土並み核抜きが実現、ほんとにありがとう」(69.11.19)。悲願達成をテコに自民党はこの年12月の衆院選挙で圧勝した。さらに佐藤首相は退陣後の74年12月に、沖縄返還の「功績」でノーベル平和賞を受賞した。いつの世も、真面目なものは悩み、権力者は厚顔無恥だ。
4.72年5月15日、沖縄は本土復帰を果たした。しかし歴代政府の沖縄政策は、基地問題を棚上げにしたまま経済振興策に傾斜した。「本土との格差是正」と「自立的経済発展のための基礎条件整備」が二大目標だった。つまり米国相手の難しい交渉は避けて、金に物を言わせて沖縄を黙らせようとしたのだ。
政権を担う日本の政治家で、基地問題について米国と真剣に交渉しようとした者は一人もいない。もっとも関心がないのが小泉首相だ。それはものの見事に対米追従度と比例している。沖縄県選出の照屋寛徳議員はこう述べる。
「橋本さんや小渕さんは沖縄に特別な思いを持っていた。しかし小泉さんの関心事からは沖縄は欠落している」
しかしその橋本首相でさえも次のような情けない体たらくだ。
すなわち96年2月橋本首相はサンタモニカで会談したクリントン大統領に、
「難しいことはわかっているが、あなたの好意に甘えてテーブルの上に乗させてもらう」
と言って普天間の返還要求をぶつけたという。「難しい事はわかっている」とはなんだ。「好意に甘えて」とはなんだ。本気で交渉する気迫はまったく感じられない。だめもとで言ってみただけだ。交渉以前の卑屈な態度である。
その橋本首相はさらにこう振り返る。
「普天間を持ち出すことに事務方は反対だったし、大統領の顔を見るまで決心できなかった。『ノー』と言わせちゃったら一発で終わる話だから」
ここまで日本の首相は米国に気後れしているのである。小泉首相などはおそらく自分の保身と引き換えに、「沖縄はどうぞいつまでもアメリカさんの好きなように使ってください」とこちらから進んで献上するぐらいのことをやりかねない。
5.海軍少将として沖縄方面根拠地隊司令官を務めた大田実中将(死後中将に昇進)が自決を前に多田武雄海軍次官にあてた電文というものを始めて知った。
沖縄県民の献身的や協力や悲惨な状況を、感涙むせぶ文章できしている。そして最後にこう締めくくっている。
「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
この大田中将の遺言を、誰一人として真剣に受け止めたものはいなかったのだ。沖縄の基地問題に取り組まないこの国の政治家を残念に思う。
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