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(回答先: 長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 検閲で没収 (毎日新聞) 投稿者 彗星 日時 2005 年 6 月 19 日 17:15:21)
長崎原爆ルポ:
ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その3
ジョージ・ウェラー記者原稿(3)
【9月8日長崎】モザイク状に分解された歴史の断片が、解放された連合軍兵士たちによって明らかにされている。彼らは解放後も日本の最南端の島、九州の収容所に残され、救済されないままでいる。ウォルター・クルーガー将軍の陸軍部隊の到着を待っている間、収容兵士たちは厳しく支配してきた日本軍将校から、卑屈な敬礼を受けている。他の地区の収容者と情報交換する中で、この戦争中に何があったのかがヤミの中から浮かび上がってきた。
原爆が投下されるまで三菱軍需工場の中にあった第14収容所は、長崎港の西側入り口へと移った。ここでは機関士のエドワード・マシュー、エベレット・ワシントンや、アメリカの駆逐艦「ポープ」に会うことができる。どのようにしてポープが巡洋艦「ヒューストン」を率い、8隻の巡洋艦と無数の駆逐艦を擁する日本軍相手にスンダ海峡の戦いに臨んだか…。
「我々は朝7時に初めて日本軍を認識し、敵は午前8時半に攻撃を開始した。我々は午後2時まで持ちこたえたが、日本の偵察機が船尾付近に爆弾を落とし、我々の船が沈んでいくのを観察、日本の駆逐艦も見ていた。快晴の日だった。日本軍は我々兵士が海中にいるのを3日間放置した。24人乗りの救助艇と救命いかだに154人がしがみついていた。彼らが我々をすくい上げ、マカッサルに連れて行かれた時には、我々は気が狂いそうになっていた」。
北九州・門司港近くの戸畑にある第3収容所からは3人の収容者が来ていた。彼らは3年間の耐え難い監禁生活後に開かれた道の誘惑に駆られ、原爆投下の結果を見るため長崎にやって来た。
メリーランド州ノースイースト出身のチャールズ・コリンズは「巡洋艦ヒューストンはスンダ海峡の東側、あるいはジャワ側でつかまった。バンタン湾の近くだった。348人が救助されたが、全員散り散りとなった」という。
シカゴ生まれのイリノイ州プレーン出身、マイルズ・マーンケは健康そうに見えたが、本来の体重215パウンドから160パウンドまで落としていた。「俺はバターンの死の行進にいた。それがどういうことか分かるだろう」と話した。
潜水艦射撃手のアルバート・ルップは、フィラデルフィアのベルモント・アベニュー920番に住んでいる。「我々はペナンから450マイル離れたところで2隻の日本の貨物船を追跡していた。偵察機が爆弾を投下して、操舵室に当たった。我々は海底にいたが、もう一回爆弾を落とされて浮上した。最終的に潜水艦を沈めるしかなかった。42人の乗員のうち39人は助かった」という。もう一人、潜水艦にいたのは、ウィリアム・カニングハムだ。ニューヨークはブロンクスのウェブスター・アベニュー4225番に住んでいる。彼はルップと一緒に日本南部の旅行を始めた。
日本の将校や警備兵が姿を消してしまった収容所から放浪してきた別の4人組は、オハイオ州ジュネーブのアルバート・ジョンソン▽カンザス州バンブーレンのハーシェル・ラングストン▽テキサス州ミュールシューのモーリス・ケロッグ。全員がオイルタンカー「コネチカット」の乗員で、テキサス州ワグザハチー出身のウォルター・アランと一緒に日本を旅している。アランは北京の中国北部警備隊から来たのんきな海軍人だ。
オイルタンカー乗員の3人は彼らを捕虜にしたドイツ軍部隊長の言葉が気に入っていた。隊長は「前回の戦争で君たちアメリカ人はドイツ人を日本に閉じこめた。今回は我々ドイツ人がアメリカ人を日本に連れて行く。そうすれば君たちにも同じ薬の味が分かるだろう」と言ったのだった。
九州には約1万人の囚人がいる。日本全体にいるうちの約3分の1だ。日本人らしい全く無秩序なやり方で囚人たちはごっちゃにされ、記録もなかった。
長崎湾の入り江そばにある第2収容所には、英国の巡洋艦「エクセター」の生き残り68人がいた。エクセターは日本の艦隊を排除するためジャワ海で闘い、沈没した。8インチ砲が喫水線を貫通したのだ。その時の戦闘でやはりスンダ海峡近くで沈没した英国の駆逐艦「ストロングホールド」の生き残り計9人のうち5人もいた。また、沈没した駆逐艦「エンカウンター」の乗員100人のうち14人の英国兵と、ほとんどがジャワやシンガポールから来た英国空軍62人もいた。
1942年2月27日の夜11時、324のオランダの巡洋艦のうち、「ジャワ」と「デ・ルイター」が沈没した。駆逐艦や潜水艦によってではなく、日本軍が自慢していた巡洋艦からの魚雷攻撃の攻撃に遭ったのだ。
ジャワ海の戦闘で、やはり夜間の魚雷攻撃にあった駆逐艦「クールトネール」のオランダ人将校もいた。
頑強なテキサス州フレデリックスバーク出身のレイモンド・ウェスト伍長は、ジャワが陥落する前のスラバヤ郊外で、第131野戦砲兵隊がどのように日本軍に6時間にわたって75インチ砲を浴びせ続けたかを話した。死者は700人に上った。
記者の部隊についての熱心な問いに、ウェスト伍長は、450人の隊員がジャワ西部に連行され、その後この極東の地で散り散りとなった。彼らは長崎に送られ、ほとんどが第9収容所に移されたと話した。
原文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/specials/0506/0617weller.html
毎日新聞 2005年6月17日 3時00分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040169000c.html