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デービッド・オマンド
David Omand
2004年6月12日、トニー・ブレアは、今日英国政府が行っているテロリズムとの戦争の正当性への自分の確信について表明した。そのような楽観主義の原因となったのは、王国建国日を祝したホワイトホールの「高官」、サー・デービッド・オマンド(David Omand)の勲章授与だった。
サー・デービッドは、王国建国日を祝して騎士団に列せられる国家公務員、ビジネスマン、科学活動家、並びに警察及び軍の高官、文化及びスポーツ分野の著名人の年次リストに入り、バニー大十字勲章の所持者となった。ダウニング10番街の報道官の表明によれば、「サー・デービッドは、彼の現在の役割の承認の印に認められた」。
サー・デービッド・オマンドには、複数の職務がある。彼は、内閣安全保障・情報問題委員会議長、合同情報委員会(JIC)委員である。その外、オマンドは、政府管理・政策研究センター(Government's Centre for Management and Policy Studies)の長である。CMPSとは、国家公務員がその経験を向上させることを助けるを求められた内閣の部署であり、ある程度、ロシア国家勤務アカデミー(RAGS)の類似物である。
オマンドは、56歳。スコットランド出身の彼は、グラスゴー・アカデミーとケンブリッジ大学クリスティー団を卒業した。GCHQの政府情報センターでその出世を始め、後に国防省に異動し、最終的に主任文官秘書官の職を得(1981年)、この職務でフォークランド危機を迎えた。1985年、彼は、自分の家族をブリュッセルに引き連れ、駐NATO英国代表団国防担当顧問として、契約により外交局に着任した。
後に、彼は、再び国防省の各種職務で勤務した。1992年、彼は、国防次官、後に常任秘書官に任命され、GCHQ長官職を得た。彼は、2001年1月にリンパ癌の治療を受ける必要性のために退任せざるを得なくなるまで、3年間長官だった。治療成功後、オマンドは、2001年10月に内閣の勤務に復帰した。
彼は、妻帯で、2人の息子を有する。現在、数学博士の学位審査を受けるため、公開大学で学んでいる。
■特務機関の調整官
2002年、オマンドは、安全保障・情報問題担当内閣常任秘書官・調整官のポストに任命された。事実上、これは、特務機関MI5、MI6及びGCHQの活動を調整しなければならない大臣のポストである。この職務は、首相府と諜報及び保安機関の最良の調整のために創設され、9月11日の事件に対する政府の反応だった。アメリカのテロ行為後間もなく、英特務機関は、過度の消極性で非難された。批判者の言葉によれば、特務機関は、9月11日の行為防止のために、より多くのことをできた。2002年6月、英国会議員は、特務機関が9月11日より前に「アル-カイダ」の戦闘員が打撃を準備していた「明らかな証拠」を有していたと表明すらした。下院議員の主張によれば、これらの証拠に諜報員は全く反応しなかった。
新しいポストを得て、オマンドは、その時までに既に5年間在籍していた合同情報・安全保障委員会の委員の資格を保持した。
安全保障・情報問題調整官として、オマンドは、以下の義務を負った。
情報支出財務監督官(SIA)
情報機関常任秘書官委員会議長(PSIS):諜報情報の収集、他省とエージェントの共同作戦、及び共同作業の実施への要求を編成しなければならない。
公的安全保障委員会(Official Committee on Security):protective security及びco-ordinates actionに関する領域の政策を編成する。
内務省附属非常事態秘書官顧問
再編の結果、合同情報委員会議長も、オマンドに従属することになったのは興味深い。
■政策
イラクの大事件が始まったとき、オマンドと合同情報委員会議長ジョン・スカーレットは、もう少しで「戦争党」の主要プレーヤーになるところだった。両者は、デービッド・ケリーの死後、証言した。
2003年8月29日、トニー・ブレアは、ケリー事件に関する調査において、専門家の名前の暴露に対する責任を自ら負い、彼の死の間接的有責者であることを認めた。この際、オマンドの名前が再び浮かび上がった。
首相は、彼が「BBC」の情報源の名前の暴露に対して責任を負うことを表明した。「デービッド・ケリーの名前は、彼が政府官僚であった以上、公開しないわけにはいかなかった」とブレア氏は強調した。「我々は、最大限、公開的に行動しなければならない」。内閣の長は、これほど大きな公然たるスキャンダルの主人公の名前を議会から隠すことは英国の伝統にはないため、議会の国際問題及び安全保障委員会の議長にケリー氏の名前を伝える決定を下したと説明した。
「私は、我々が下院から何かを隠したがっていると何人にも言わせないことに留意した」とブレア氏は強調した。「国際問題委員会から彼の名前を隠すことは正しくなかったはずである」。首相は、議会へのしかるべき書簡が、彼の委任によりサー・デービッド・オマンドが書いたことを伝えた。一方、オマンドは、彼がケリーの名前を明らかにするように首相に勧告したことを確認した。
2004年3月、オマンドは、次の5年間におけるテロリズム対策の展望に関する特別表明を行った。彼は、保安措置の強化のため、あまり防護されていない目標に対して、その打撃を向けざるを得なくなったイスラム・テロリストの今最も予想される標的が、貿易センター、取引市場のような経済組織であると表明した。
サー・デービッド・オマンドは、テロリストが生活の通常の進行を侵害しようとして、その標的にコンピュータ・システムを選び得るとも警告した。彼は、「アル‐カイダ」と新世代の傭兵がしかるべき準備を既に行っていると伝えた。全世界的なジハードは、世界の各種民族集団の若き理想主義的ムスリムを惹きつけ続けている。彼は、「アル‐カイダ」が化学及び生物学兵器にますます大きな関心を表していると付け加えた。
オマンドは、ロンドン警察署長がマドリードでのテロ行為が欧州に対する警鐘とならなければならないと表明した翌日に表明を行った。
オマンドの表明によれば、「我々は、保安措置の強化に対する反応として、より脆弱な標的及び経済標的へのテロリストの移行を予期しなければならない」。脆弱な標的は、パブ、クラブ、バー、ロンドン・シティー地区の経済性建物及び観光産業と関連した組織を含む。サー・デービッドは、「我々は、犯罪者側から、テロ目的を問わず、我が情報システムに対する攻撃を予期すべきである」とも語った。サー・デービッド・オマンドは、政府が予防打撃、市民の防護、テロリストの訴追及びテロ行為の結果への備えが含まれる4方面戦略を立案したと伝えた。
2004年5月、オマンドは、英国議会を難攻不落のバンカーに変えることが提案された報告書の著者の1人となった。5月19日、下院の会議時、2人の活動家が来賓用の特別席に忍び込み、出席していたトニー・ブレア首相に粉末状の物質を投げつけた。会議は中断し、下院は避難せざるを得なかった。後に、内務相デービッド・ブランケットは、事件の詳細な調査を行うことを約束し、代議員の安全の保障措置が厳しくされることに理解を示した。
この事件後、デービッド・オマンドとMI5は、議会の警備強化を提案する特別報告書を準備し、自爆テロ行為の防止用に設置されたコンクリート製の梁を建物への入り口から撤去することが提案されている。その代わり、報告書の著者は、議会の周囲に歩行地帯を創設し、建物全体を連続的な鉄柵で囲むことを欲している。テムズ側から議事堂への接近経路の防護に、特別な注意を払うことが計画されている。
しかしながら、МI5は、下院内の全特別席を透明な防弾スクリーンで囲むことに反対している。この代わり、防諜部は、検問体制を厳しくすることが適切であると考えている。従って、来客用の特別席と議会間の一時的な防護スクリーンは、常設、より確実かつ堅固なものと交換されるだろう。作業費用は、120万ポンド・スターリングと評価される。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~intelljp/uk/person/omand.htm