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(回答先: 市内平静と、大統領は首都へ戻る、ウズベク反政府暴動 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 5 月 14 日 16:23:08)
□イスラム・カリモフ大統領の経歴 [対外情報調査部]
http://www2.odn.ne.jp/~cae02800/uzbek/karimov.htm
1938年1月30日、サマルカンド市の勤務員の家庭に生まれた。民族は、公式にはウズベク人である。青年時代のイスラム・カリモフを知る人々は、彼がタジク民族の家庭出身で、子供のときからタジク語を話し、ロシア語も悪くなく、ウズベク語は、ソビエト及び党の業務に就きながら習ったと確認している。恐らく、タジク出身とその秘匿の必要性は、政治活動において実現されるイスラム・カリモフの反タジク政策が立脚する基盤でもある。
カリモフは、2つの高等教育を有し、中央アジア工業大学及びタシケント人民経済大学を卒業し、機械工学及び経済学を専攻した。労働活動は、1960年、「タシュセリマシュ」工場で開始した。その後は、ソビエト党員・生産者の典型的な昇進である。V.P.チカロフ名称タシケント航空生産公団において、技師、主任設計技師として働いた。1966年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国ゴスプランの仕事に移り、主任専門官から共和国ゴスプラン第1副議長までの道を歩んだ。1983年から、カリモフは、ウズベク・ソビエト社会主義共和国財務相、1986年から、ウズベク・ソビエト社会主義共和国閣僚会議副議長/共和国ゴスプラン議長。1986年、彼は、党カシュカダリヤ州委員会第1書記となった。ここで、カリモフ自身は、自著の1つにおいて、当時の状況をこう回想している。「いわゆる党ノーメンクラトゥーラが旧ソビエト連邦において非均質だったことの西側の無理解は、私を率直に驚かせている。これは、その本質自体において非常に細分化されていた。いや、紙の上ではなく、何らかの党文書上ではなく、現実の生活においてである。いかなる場合でも、私は、3つの質的に異なる集団に全く正確に分けることができる。第1に、これは、共産主義ユートピアに忠実な熱狂者である。彼らにとって、マルクス・レーニン主義は、宗教だった。そして、この人々の言葉は、まあ、その信念と異なっていなかった。だが、仕事は?そう、彼らは、何か有益なことを行えたのか?これは、活きた現実、実際の、捏造されない生活から目を逸らした宣教師だった。第2のグループとは、簡単に言えば、順応主義者である。真の職業も、重要なのは、良心もない人々である。いかなる思想が?そこにどんな共産主義が?彼らは、その生活の幸福を保障してくれるいかなる権力にも常に奉仕する用意がある。共産主義も、反共産主義も、彼らにとっては、いかなる役割も演じなかった。国家社会主義でも、何らかのファシズムですら。彼らの多数がソ連共産党及びソビエト連邦の崩壊後に自ら証明したことである。彼らは、党のゲームのルールに素晴らしく習熟していた。いつ何を語り、いつ黙り、誰のご機嫌を取り、誰をいかに非難すべきかを知っていた。ここに、彼らの力があった。彼らは、あることを語り、別のことを考えた。第三者が行ったことを語りたい。しかし、これは、正しくないはずである。彼らは、いかなる専門領域においても、実務的なことは何もできなかった。このための職業訓練がなかった。しかしながら、共産体制は、あらゆる他の全体主義体制と同様に、経済、財政問題、農業、産業領域における専門知識を有する有資格者なしでは存在することができなかった。つまり、テクノクラートなしでは。特に、党ノーメンクラトゥーラのこの集団は、人民における党の権威を創出した。私は、これらの人々の中に、自分自身も、カザフスタン大統領ヌルスルタン・ナザルバエフも、キルギス共産党中央委員会事務局で働き、そこで科学・大学課を管理していたキルギスタン大統領アスカル・アカエフも入れる・・・。しかし、私は、直接の意味において、党職員では決してなかった。そして、そのような自分の生活の急転、自分の人生の登り道へのそのような「飛躍」の可能性は、頭にすら浮かばなかった。そして突然、私は、党州委員会第1書記になった。事は、こうだった。1986年、ゴスプラン議長となって、業務状態の本格的な研究後、共和国が経済危機に直面していることを理解した。私の個人的参加の下で、「ウズベキスタンの経済発展の問題及び展望に関する」書類が準備され、共和国指導部に送られた。重大な会話が予見され、命令が引き続いた。当時のモスクワの傀儡、中央委員会第2書記アニシチェフは、私を乱暴に叱責した。一般に、私は、この時、私の周りで排除の環が締め付けられているのを感じた。指導部は、私のその後のタシケント滞在は、意に沿わぬものだった。これが、カルシ、カシュカダル州での私の「抜擢」に先行したことの概要である」。
カリモフの復帰への強力な刺激だったのは、時代そのものだった。テリマン・グドリャン及びインコライ・イワノフが指揮したソ連検察庁捜査班の活動は、あらゆる制限にも拘らず、しかるべく、ウズベク人ノーメンクラトゥーラに「穴を穿った」。怠惰ではない人間であるカリモフは、カシュカダリヤ州において、権威と非常に真面目な人間のイメージを獲得した。主要な役割を演じ続けた公式指標は、印象的だった。綿の生産は、33万tから55万t.に上昇し、300kmの道路、市場、数十ヶ所の日常生活施設が建設された・・・。
1989年6月、カリモフは、失敗したラフィク・ニシャノフの代わりに、ウズベキスタン共産党中央委員会第1書記として、タシケントに戻った。1990年6月20日、ウズベキスタン最高会議は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の国家主権に関する宣言を採択した。ウズベク・ソビエト社会主義共和国最高会議は、大統領職を制定し、この職務にイスラム・カリモフを選出した。ソビエト連邦は、目に見えて崩壊し、カリモフの前には、根本的に新しい業務の一角、つまり、ウズベキスタン国家の創設が開けた。1991年8月31日、他のソビエト共和国に並んで、ウズベキスタンの独立も宣言された。1991年11月18日、ウズベキスタン共和国大統領選挙法が採択された。大統領立候補者としては、ウズベキスタン人民民主党(共和国共産党の権利継承者)により推薦されたイスラム・カリモフと、「エルク」(「意思」)党議長、共和国人民代議員、詩人のモハンマド・ソリフが登録された。1991年12月29日、イスラム・カリモフは、ウズベキスタン共和国大統領に選出された。公式結果は、投票者の86%が「賛成」投票した。1992年2月、タシケントにおいて、「エルク」党支持者のデモが発砲され、モハンマド・ソリフは、国外に隠れ、独立ウズベキスタンの新しい歴史は、こうして始まった。
既に1991年8月、カリモフの発議により、ウズベキスタン共産党は、「根本的に新しい」イデオロギーと政策を有する人民民主党に再編された。当局は、緩慢に、党権力は、急がずに変化した。大統領−政府−ホキミアト(地域行政府)という新しい機構は、お馴染みのものとなりつつある。
1995年3月、国民投票の実施により、カリモフ大統領の任期は、2000年まで延長された。
新しいウズベク史に従えば、ウズベク人国家の創設者は、チムール(タメルラン)である。ちなみに、彼は、ウズベク人では全くない。今日、チムールは、新しい思想家の意図によれば、大ウズベク民族の偉大な歴史の基点となるはずである一種のシンボルである。一般に、1917年11月〜1918年3月、旧ロシア帝国のトルケスタン地方に、ソビエト政権が樹立された。地方領域の主要部分は、トルケスタン自治ソビエト・社会主義共和国の構成下に入った。1920年、ホレズム及びブハル・ソビエト共和国が建国された。1924年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国が建国され、1925年、連邦共和国としてソ連の構成下に入った。事実上、国の歴史は、1990年代から始まっている。質的に新しい段階は、1992年2月に開かれた。
2月16日、タシケントのムスタキリク・マイドニ広場において、カリモフ大統領の到着が待たれていた。現地時間1115、爆音が轟いた。政府庁舎の直近に存在した2台の自動車が空に吹き飛び、内務省、国家銀行、「インターコンチネンタル」ホテル、州国家自動車監督局の建物、並びに「セーヴェルヌイ」駅及び空港地区において、別の爆弾が爆発した。閣僚会議の建物には、爆発の数分後、ナンバーのない自動車が大統領のパレードに近づき、突破を試みた。それに乗っていた者達は、停車の試みに対して、火器の射撃で応え、射撃戦が発生したが、この自動車のその後の運命については、何も知られていない。市の中心部は、その場で民警及び特務機関の戦力により封鎖され、タシケントには、軍が導入された。直ちに、広場において、イスラム・カリモフ大統領は、事件への最初のコメントを行った。「この行為は、大統領に対して向けられた。しかし、我々は、状況を安定化し、このテロ行為を組織した者の手を切り落とすのに十分な力を有している」。国家保安庁長官ルスタム・イノヤトフは、「これは、国外の過激派及び我が共和国のその関係者の手によるものである」と表明した。テロ行為の追跡に関する発言の1つにおいて、2月16日, イスラム・カリモフは、「我々は、隣国、アフガニスタンでは、既に20年間戦争が行われていることを忘れている。そして、南には、我々の独立政策を見ようとせず、イスラム過激派の浸透を欲している過激勢力が存在する」。
2月のテロ行為の3日前、タシケント公式筋は、ウズベク側が主として、条約が時代の要求に応えず、そこで付与された任務を遂行しないことを動機にして、集団安全保障条約への自国の参加の延長を意図しないと公表した。いかなる疑いもなく、ウズベキスタンの決定に対する影響力に関して支配的だったのは、ロシア要素である。第1に、タシケント筋がしばしば確認するように、その対外政策方針において、事実の「帝国的」知覚にかかったロシアからの距離を誇示するタシケントの希求が明らかだった。第2に、ウズベキスタンとロシアの利益は、タジキスタンで衝突し、タシケントでは、特に自国の直接影響範囲においては、ロシア軍の駐留も含めて、ロシアとの統合の強化による存立を保障とは見たがらないはずである。タシケントにおいて大きな疑いを引き起こしているのは、ロシアのザカフカーズ政策(ナゴルノ・カラバフ問題の未解決の条件下でのアルメニアとの接近)である。CIS集団安全保障条約からのウズベキスタンの脱退が、その対外政策方針を重大に再検討する希求により引き起こされたという意見も存在する。これは、タシケントの予想によれば、1992年2月のCIS集団安全保障条約署名時と比較して、安全保障分野における状況が顕著に変化したことによりもたらされのかも知れない。当時、ウズベキスタンの国家安全の大きな脅威は、タジキスタン及びアフガニスタンでの軍事紛争だった。これらの条件下において、ウズベク指導部は、つい最近国家独立を得たばかりの国が独自戦力を当てにできないことを理解した。ウズベキスタンは又、旧ソ連共和国間の破壊された関係の維持にも関心を有していた。それ故、特に彼は、当時、当条約の締結の主唱者の1人なった。今、ウズベク指導部の意見によれば、国は、十分な軍事的潜在力を有し、自国の安全を独自に保障することができる(西側、何よりも、米国への指向を伴い)。先回りして、1999年夏〜秋のキルギスでのバトケン事件が、タシケントを文字通り不意に立ち上がらせ、当時、ウズベク指導部は、指向変更で少し熱くなったことを理解したようだと指摘することができる。イスラム過激派とのそのような大規模紛争の場合、地域のどの国も、西側の直接軍事援助を当てにすべきではない。そして、ロシアは、ダゲスタン及びチェチェン戦争後、中央アジアにおけるイスラム戦闘員に対する戦争に参加し得る。「ロシアの戦力機構にとって、これは、全く当然の反応である。キルギス?北カフカーズ、アルメニア、アフガニスタン、タジキスタン、コソボでの事件は、関連している」と、1999年11月、ロシア連邦安全保障会議第1副書記ウラジスラフ・シャルスチュクが表明した)。一般に、「ロシア人」エリートにより決定される全てへの病的な態度が、イスラム・カリモフを特徴付けている。つまり、カリモフ大統領は、採択された新しいロシアの国家象徴を厳しく非難した。ウズベク議会第4会期の開会においてジャーナリストの前に出て、彼は、「新しい国歌が演奏されるや否や、各人の脳裏には、「自由の共和国の確固たる連邦を、偉大なロシアが永遠に団結させた」という言葉が響くだろう。これは、共産党が統治した全体主義システムの国歌であり、これは、スターリンその他のボスが承認した国歌である。これは、未だ去っていない多くの連想と結びついている」と表明した。カリモフは、ロシア国旗とは、軍旗であり、その下で、ピョートルT世時代から、侵略戦争が行われたと考えている。ロシア国章について、カリモフは、これがウズベキスタンで白い皇帝オク・パシャに賦与された巨大な権力の専制政治の象徴であると答えた。
反ロシア・レトリックにより、CIS集団安全保障条約からの脱退と関連した全てのコメントも彩られた外、その対外政策方針を局地化するウズベキスタンの希求も反映していた。タシケントは、当初から、中央アジアにおける地域指導者の役割を演じることを試みた。この計画においては、恐らく、CIS集団安全保障条約からの脱退に関するウズベキスタンの決定が、その地域の隣国にロシアとの接近のテンポを抑制させ、中央アジアの優先システムにおいて、ウズベキスタンがロシアよりも少し近いことを確信させる目的も追求していたのだろう。検討されるウズベキスタンの行動のもう1つの重要な原因は、その西側との接近の希求である。同時に、ウズベキスタンは、タジキスタン及びアフガニスタンのような政治的に不安定な国の直近に存在し続けている。1999年のキルギスでのバトケン事件時、特にウズベク領土に入ろうとする戦闘員の意図のため、ウズベキスタン指導部は、かなり神経質な政策を行った。
2000年のウズベキスタン・イスラム運動のウズベキスタン領土侵入開始と、CISと隣接するアフガニスタン北部の州における情勢の先鋭化と共に、タシケント公式筋は、キルギス、カザフスタン及びロシアの結集した立場に完全に合流した。タシケントの政策の移り気な性格は、2000年秋に現れた。9月22日、モスクワとタシケントの反タリバン統一戦線が突然崩壊した。同日、イスラム・カリモフは、アシュハバードに赴き、そこで、「タリバン」運動に対する自分の立場を突然急激に変えた。イスラム・カリモフは、地域における対テロ・センター及び緊急対応軍の創設に関するモスクワの計画を強く非難し、アフガニスタン・イスラム国大統領ブルハヌディン・ラバニ側からの援助要請を事実上嘲笑した。ウズベク大統領は、自分の立場の変化を西側でアフガン紛争への新しいアプローチが立案されていることで説明した。その後、10月12日、ウズベキスタン大統領は、「アフガニスタン国民自身が片付ける」と表明した。その指導者の言葉によれば、ウズベキスタンは、アフガニスタンに長期的平和が確立されるために、「深く関与」している。同時に、彼は、「誰がそこを統治しようが」関係なく、アフガニスタンと協力する用意があった。「我々は、平和の中で全員と生きたい」と、イスラム・カリモフは強調した。大統領は、タリバンがアム・ダリアの対岸にほぼ2年間存在し、「ウズベキスタンに対する侵略を現していない」と指摘した。カリモフの言葉によれば、アム・ダリアを通る橋のウズベキスタンと「タリバン」運動の国境警備対間では、業務会見が行われている以上なおさらである。「私は、これを決して隠さなかったし、隠していない」と、カリモフは強調した。「我々は、「タリバン」運動の目的及び任務を好むことができないが、これは、考慮する必要がある勢力である」と、ウズベク大統領は語り、「今日、この勢力は、支配的になりつつある」と指摘した。ウズベキスタンは、「我々には、アフガニスタンとのいかなる対峙、いかなる戦争も必要としていない」ということに立脚している。それと共に、イスラム・カリモフは、「タリバン」運動だけがアフガニスタンの政府を支配すれば、政府では、全ての集団、国民及び民族の利益が代表されなければならないため、アフガニスタンに真の平和と平穏は訪れないという個人的確信を表明した。しかしながら、イスラム・カリモフは、「いかなるイデオロギーがアフガニスタンを支配するのかは、自民自身に決めさせ、我々は、全員と協力し、平和の中で生きたい」と強調した。
タリバンは、タシケントにおける感情の変化を迅速に認めた。10月17日、駐パキスタン・タリバン大使アブドゥル・サラム・ザイーフは、ウズベキスタン共和国大統領に対するカブール政権の長、モハンマド・ラバニ師の書簡をウズベクの同僚に手渡した。タリバンのヒエラルキーで2番目のラバニ師は、自分の書簡において、「タリバン」がいかなる隣国に対しても脅威ではなく、逆に、タリバンが善隣関係の不足を感じていると保証した。ラバニ師は、他国の内政へのタリバンの干渉に関する確認を否定した。書簡では、「タリバン」指導部が既存の関係水準の改善のためのウズベキスタン政府との接触継続に不足を感じているとも語られていた。10月18日、ウズベキスタン外務相アブドゥラジズ・カミロフは、タリバンがハイラトンを初めて奪取した1997年5月から閉鎖されているテルメーズの国境検問所、「友好の橋」をウズベク側から開放する用意について表明した。10月19日、タリバン大使アブドゥル・サラム・ザイーフ師とウズベク大使シュフラト・コビロフは、イスラマバードでの会見において、外務相レベルでの接触を組織する必要性に関して合意に達した。ここでは、ドスタム将軍のハイラトンから襲撃と反タリバン戦争の新たな戦線の開設が行われないことが既に明らかになった。
同日、CISの他の諸国は、各種レベルにおいて、集団安全保障条約機構の完全化及びCIS集団安全保障条約加盟国対テロ・センターの創設に関する問題を審議した。観察者は、一致して評価した。イスラム・カリモフは、地域におけるモスクワの軍事・政治的強化を恐れて、再びロシアから西側に転回した。1999年12月、タシケント訪問後直ちに、ウラジーミル・プーチンは、首相として、ロシア連邦連邦会議の会議において、クレムリンがポスト・ソビエト空間における自国の立場の強化を戦略的課題と考えていると表明した。プーチンは、ロシアとの協力における隣国の経済及び軍事・政治的関心を呼び起こしつつ、CISの政治舞台に効果的にデビューし、ポスト・ソビエト空間における影響力を巡るモスクワとワシントン間の闘争の質的に新しいラウンドが始まり、その競技場には、2000年秋、ウズベキスタン大統領もいた。
ウズベキスタン・イスラム運動に対する恐怖は、CIS諸国の防衛協力への参加復活をタシケントに強制し、2000年春、タシケントは、ロシア、タジキスタン、カザフスタン及びキルギスの共同軍事演習「協力南の楯-2000」に合流した。タシケントのモスクワへの方向転換は、米国を強く懸念させた。4月のマドレーン・オルブライトの中央アジア訪問(2000年)が、反応となった。米国の限りない懸念を引き起こしたのは、「上海5ヶ国」(ロシア、中国、カザフスタン、タジキスタン、キルギス)の国防相その他の戦力官庁の会談と、モスクワ及び北京の参加の下での地域における安全保障システムの構築の可能性だった。ウズベキスタン・イスラム運動のテロリストの拡大は、ウズベキスタンと西側をばつの悪い状態にさせた。タシケントは、モスクワの援助を要請しなければならず、ワシントンは、これに妥協せざるを得なかった。一時的ではあるが。「あなたの隣人は、ロシア、中国、トルコ及びイランである。あなたは、アフガニスタン、それを通してパキスタン及びインドにも影響力を与えることができる。このようにして、あなたは、地理的に米国から遠くに存在するにも拘らず、我々の死活的に重要な利益と密接に関係している」と、タシケントの世界経済・外交大学において、米国務長官マドレーン・オルブライトは、極めて公然と表明した。イスラム・カリモフは、米国の「死活的に重要な」利益の実現において、第一人者として留まり続けている。
イスラム・カリモフは、妻帯で、2人の娘と3人の孫を有する。妻のタチヤーナ・カリモヴァは、経済学者で、共和国科学アカデミー経済研究所科学職員である。長女ゴリノラは、準博士、政治学者である。イスラム・カリモフの住所:ウズベキスタン共和国、タシケント市、「オスカロイ」官邸。電話番号:(8-10-99871)139-80-00。