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ナチ収容所で死んだ5000人のスペイン人たち(エル・ムンドより)
(写真は60年前の5月14日に解放され歓喜の声を上げる生き残ったスペイン人たち)
http://colt.cache.el-mundo.net/elmundo/imagenes/2005/05/05/1115285102_0.jpg
5月8日付エル・ムンド紙(電子版)は、スペイン首相サパテロが、第2次世界大戦中にオーストリアのマウタウゼン(Mauthausen)集中キャンプ(収容所)で亡くなった5000人のスペイン人たちの名誉を称えたことを報道しています。
以下に内容の紹介と説明を、簡単にですが書いておきます。記事のUrlと見出しは以下の通りです。
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エル・ムンド(2005年5月8日)
http://www.elmundo.es/elmundo/2005/05/08/espana/1115521450.html
『サパテロは本日Mauthausenのナチ収容所で死んだスペイン人の名誉を称える』
http://www.elmundo.es/elmundo/2005/05/05/cultura/1115285102.html
『Mauthausenのスペイン人たち』
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主に下のほうの『Mauthausenのスペイン人たち』の内容を元にして、この日本ではほとんど知られていないと思われる「マウタウゼン収容所のスペイン人」をご説明します。
1939年にフランコ軍の勝利で終了したスペイン内戦で、大勢の共和国支持者たちがフランスに亡命しました。最初はフランス南部の収容所に集められたのですが(ただしここでも寒さと飢えと病気で大勢の人が亡くなった)、その後半年もたたないうちにナチス・ドイツのポーランド侵略によって第2次世界大戦が始まり、そのときに収容所にいた共和主義者たちの多くが志願してフランス軍に参加し、ナチ軍と戦ったのです。
ご存知の通り、ナチスはフランス北部を占領し南部には傀儡ヴィシー政府を作りましたが、この戦いで捕虜となった7000名のスペイン人たちはオーストリアのMauthausen集中キャンプ(収容所)に送られました。
悪条件の中での強制労働の果てに、大戦終了時までに、そのうちの5000人が飢えと過労で死亡し、わずかに2000名が生き残りました。その一部は解放されてじきに命を落としました。
さらに悲劇は続きます。解放されたものの祖国はフランコ独裁が続き、多くの人たちは国に帰ることができずに長期間フランスに残って生活しなければなりませんでした。
せっかくですから、以上に書きました説明の後に続く記事を翻訳してご紹介します。
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【翻訳開始、前略】
現在50名の共和主義者たちが生きているに過ぎない。パウ・ベルガラ【現在この収容所についてのドキュメンタリー・フィルムを作成中のスペイン人映画監督者:訳注】は、「鉄条網のはるか向こう、恐怖の記憶」ではあったのだが、そのうちの23名に合って話を聞き、わずかに13名が証言をしてくれただけだった。そして100時間を越える彼らとの会話が録音された。
「客観的な日付とデータばかりのドキュメントにはしたくはありませんでした。私の意図は話をしてくれる元収容者たちの声を視聴者に与えることでした。だから私は、このフィルムは人間性の歴史記録なのだ、と言うのです。」ベルガラはこのように強調する。マウタウゼンは絶滅収容所ではなかったにもかかわらず、収容者たちがやらねばならなかった労働の厳しさは、食料の不足も伴って、「過労によって」行われる絶滅収容所となっていた。彼はこう説明する。
証人の中に、唯一の女性であるアンへリネス・マルチネス、およびドイツ系ユダヤ人のシーグフィールド・メイァ(Siegfried Meir)がいる。メイァは最初両親と一緒にアウシュビッツに送られ、両親はそこで死亡したが、彼はまだ子供だったのでマウタウゼンに送ってこられた。
「そこで1年を過ごしました。そしてその間にスペイン人の共和主義者、サトゥルニノ・ナバソと知り合いました。私たちが解放されたときに私は彼に、私を一人にしないでくれ、と頼みました。そして彼は私を連れて出ました。私のような子供を背負っていくのは大変なことでした。私は生きるために盗みを働くことに慣れていたのです。」メイァは語った。彼は現在フォルメンテラ(Formentera)で事業を営んでいるが、ドイツには決して戻ろうとは思わなかった。「私はドイツにはアレルギーを持っています。言葉に対してすらです。これは体にしみこんでいます。」他の兵士たちとはやや異なった視点から語るこの男はこのように強調した。
「私は子供として、何が起こったのか、なぜ起こったのか、解らないまま生きていました。だから私は自分のことを、過去を思い出したくない虐待を受けた子供であるように感じています。」
【翻訳終り】
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記事はこれで終り、唯一の女性であるアンへリネス・マルチネスやシーグフィールド・メイァと一緒に過ごしたサトゥルニノ・ナバソの話はこれ以上は出てきません。またメイァの両親がアウシュビッツで死亡した状況についても書かれていません。ただ彼がこのオーストリアの収容所にアウシュビッツから移送されてきたことは事実でしょう。
なお、エル・ムンドの記事には、マウタウゼン収容所跡に多くのスペイン国旗、バスク、カタルーニャ、バレンシアの旗に混じって「スペイン共和国」の国旗も振られていたことが書かれています。(この収容所に送られた共和主義者にはバスク、カタルーニャ、バレンシア出身者が多かった。これは内戦末期にフランスへ脱出できたのが多くはこの地方の人たちで、後の地域では、スペイン国内で捕らえられ殺害されたり投獄された人が多かった。)
またサパテロは次にモスクワに向かい、内戦直後にソ連に逃れたスペイン人たち(多くが共産主義者)の子供の世代である「戦争の子供たち」に会う予定であることが書かれています。
(参照)
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/541.html
「スペイン内戦」の幻想と傷と癒し