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(回答先: Re: ABCD包囲網 投稿者 スパルタコスポノ 日時 2005 年 6 月 03 日 20:02:34)
イラン・イラク戦争にまがりなりにも勝利したイラクは、
当時の駐イラク米国大使グラスピ−女史の「クエートを巡ってイラクとの間で何かが起こっても米国は関知しない」との発言に、
米国はイラクのクエート侵攻を阻止しないとのサインを出してたと解釈し、
クエートに侵攻した。これは罠だったのだ。
当時、ペルシャ湾には米国空母艦隊が浮かんでいた。イランに向けて睨みを利かせていたのだが、実はイラクの方をも向いていた筈なのだ。この空母から戦闘機を一機でも飛ばして、クエートに向うイラク機甲部隊の低空を飛行させて牽制すれば、イラク部隊はクエートへの侵攻を止めたであろう。しかし全くその様な事は行なわず、米国空母艦隊は黙ってみていたのである。
ブッシュ親父政権は、
「イラクは網にかかった」と喜んで「湾岸戦争」を始めた。戦費を出せる余裕は無く、ゼロに近かったので日本を脅して出させた。
始めからイラクの軍事力を消滅に向わせる戦略であったのだ。
イスラエル存立にとってイラク軍事力は脅威であり、イラクを傀儡化して地下の石油を独占支配したかったからである。
湾岸戦争だけで一気にフセイン政権と軍事力を消滅させる事は不可能だったので、国連を巻き込んで「制裁包囲」して序々に弱らせる作戦を取った。
フセイン政権も騙された事を知ったので、米軍の再侵攻を読んでいて戦争に備えるにいたり、米国はバブル経済の破綻を迎えて尻に火が付き、行動を起こさざるを得なくなり、アルカイダを引き込み9・11事件を政治ショーとして引き起こし、これをバネにして戦争経済へと飛び越えた。これは経済の堕落と転落である。
戦前日本をイラクの現在に至るまでの経過に例えると、
満州事変から日華事変→イラン・イラク戦争とクエート侵攻
日米(英、蘭)開戦→湾岸戦争からイラク戦争
と見る事が出来るし、
主な事件を例えると、
9・11→真珠湾攻撃
西安事件と盧溝橋事件、通州事件→クエートからのイラク側油田への斜めからの採掘、グラスピ−発言
となるでしょう。
この様に日本はイラクとソックリの扱いを受けてきているのです。
イラクはイスラエル存続にとって脅威であり、
戦前日本は米英の支配者にとってはアジア支配の邪魔者であり脅威であったわけです。
それで、日本の軍事力を広い中国大陸におびき寄せて戦わせて序々に消耗させ、仕上げとし「ハル・ノート」で挑発し米国自らが攻撃を加えて、軍事力と経済力を消失させ、日本を支配下に置いたわけです。
イラクは他の中東諸国と地続きであるため、イラク戦争そのものが中国大陸での戦いと似た意味を持つものとなり、返って米国の方が中国大陸へ侵攻した日本に似た立場になってしまったのです。イスラエルも同じでしょう。こちらは実はもっと複雑な立場ではありますが。ここでは詳しくは書きません。長くなりますから。ともあれ、イラク戦争の戦線は広いのです。アフガニスタンもパレスチナもシリアもイランも含んでいます。さらに多くの国々を含んでいます。
その様なわけで、イラク戦争で米国の勝利は難しいものとなり、膠着・持久戦となりました。戦争は軍事力の戦いではなく、「国力」の戦いでありますから、国の生命力が強い方が勝ちます。
私にはイラク人の運命が日本人の運命に二重写しに見えるのです。
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