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<注>この記事は、既に当板でUPした「[暴政]『踊るポンポコリン化した小泉劇場』の深淵を探る」の一部分(後半部)です。後になってから、かなり加除・修正がありましたので、この部分だけを再度UPしておきます。
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(小泉劇場の濫喩的分析の試み/「イルミナート、DV、小泉劇場」の意外な共通点)
1776年、バイエルン大公国(バイエルン王国は1806年〜/現在はドイツ南部の州、ミュンヘンが中心地)のインゴルシュタット(Ingolstadt)大学教授ワインスハウプト(A. Weinshaupt/1748-1830)が中心となって、秘密結社「啓明(光明)結社/イルミナート又はイルミナーテンノルデン」(Illuminat又はIlluminatennorden/直訳すれば“北の光明”)が結成されました。初めの頃、イルミナートの性格はイエズス会を批判する学者集団でしたが、やがてイエズス会の攻撃を受けて地下に潜入して秘密結社化します。イルミナートは秘密結社・フリーメーソンと重なる部分もあり、ゲーテ、モーツアルトらもかかわりがあるとされています。 このイルミナートの理念的な部分を敢えて端的に纏めてみると次のようなことになります。なお、このイルミナートの秘密活動は現代も続いているとされています。
●我われこそが真の宗教であり、キリスト教のみならず凡ゆる宗教を破壊することを最終目的とする。
●この目的は手段を正当化できるので、賢人は「善」を実行するため悪人が「悪」を行う手段を使うべきだと考える。
●従って、イルミナートはキリスト教を破壊するために各国政府を転覆することになる。
このイルミナートが結成された頃のドイツはシュトウルム・ウント・ドランク(Strum und Drang/疾風怒涛)の時代です。これは1760年代後半頃から1780年代の半ばにかけてドイツ中を駆け巡った文学運動ですが、その目的を一言で言うなら、それは人間の情熱や根源的な空想力などを重視する立場に立ちつつ“合理的世界観と形式的秩序(つまり、官僚制度による近代国家の建設)を重視する啓蒙主義に修正を迫ろうとする運動でした。また、この時代はフランス革命(1789)の直前であり、イルミナートの思想は大革命下のフランスに伝播してロベスピエールのジャコバン派(Jacobins)の思想形成を促したともされています。周知のとおり、ジャコバン派は過激な急進派で1793年から独裁体制を採り恐怖政治を行っています。ともかくも、このような時代背景なので、イルミナートとシュトルウム・ウント・ドランクがどこかで共振していると考えるのが自然だと思われます。ただ、シュトルウム・ウント・ドランクの方は、例えばゲーテの「感情移入論」で見られるように市民社会における人々の精神的な繋がりを重視する方向へ傾斜しており、反社会的な傾向は強く出ていません。
S. フロイト(Sigmund Freud/1856-1939)の用語に「自我衝動」(自我本能)と「自我欲動」(性本能)がありますが、彼は生物学用語の「個体保存本能」と「種族保存本能」を援用して、前者を「自我衝動」に、後者を「自我欲動」に対応させています。そして、この両者の内面での葛藤が神経症をもたらす病因を生むと考えました。フロイトによれば、「自我欲動」(性本能)は快楽原則に従ってひたすら快感を求めるあまり、「現実」を無視して個体の安全を脅かすことになります。つまり、「自我欲動」(性本能)はエントロピーが増大する方向(死へ向かうベクトル)へ向かうことになります。一方、「自我衝動」(自我本能)は現実原則(摂食・排泄・知覚などを統制する本能的な作用)によって「自我欲動」(性本能)を抑圧するという訳です。
また、フッサール(Edmund Husserl/1859-1938)の現象学に「間主観性」(自我共同体)という用語があります。人間は、自分が存在する意味を先ず自分自身の精神環境から自覚するようになるのだから、自己の存在自体こそが人間精神の初期発達段階における根源的な志向対象であるということになります。人間の2〜3歳頃の発達段階が、まさにこの段階であり、それは「鏡像段階」と呼ばれます。それは、丁度、鏡に映る自分の姿に強烈な関心が向けられる発達段階です。この最初の他者である自分の像に魅せられるあまり、精神環境がこの段階に固着してしまう場合があり、それがナルシスト的な性格(この傾向が過剰になると極端なまでの自己中心性と非情な冷酷さが出現する)となる訳です。いずれにしても、人間は幾分なりとも自分だけのナルシスティックな世界の住人であることは理解できるはずです。しかし、一方で我われにとっては万人に共通する自然世界や文化・経済・社会的な客観世界が存在することも自明であり、このような客観的世界(公的な世界)の共有意識こそが近・現代的な意味で我われの日常性(日常の生活)を支える「間主観性」です。
一方、近代市民社会発展の歴史に目を向けると面白いことが分かります。世界で最初の市民革命でもあったとされる「オランダ独立戦争」(1568-1609)によって、中世自由都市の面影を残しながらもイギリスやフランスに先駆けて逸早く市民による活発な交易活動社会を実現した17世紀のオランダ(その黄金期は現代オランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga/1782-1945)によって『レンブラントの時代』と名づけられている)は、新興ブルジョワ階層(レヘント(Regent)と呼ばれる商人等を出自とする都市門閥貴族)を主体とする市民社会を創りあげていました。彼らは、その地の利と他国に先駆けて芽生えた「17世紀オランダ近代理性主義」(16世紀のエラスムスを源流とするグロティウス、スピノザなどの系譜)の知的遺産と欧州の十字路と呼ばれるマルチリンガルな個性的文化を十分に活かしながら、このネーデルラントの地で、現代的な意味合い近いグローバルな経済活動を展開していました。
しかし、ほどなくして英仏両国から追撃を受けて彼らの黄金時代は終わります。なに故に「レンブラントの時代」は約100年足らずの短命で終焉を迎えることになったのでしょうか? その解を求めて地政学的条件や自然環境条件の変化など様々な方面からの研究が続けられていますが、未だ決定的な結論は見つかっていないようです。が、一つはっきりしていることがあります。それは、絶対王政時代の歴史的経験がない17世紀のオランダ共和国では近代官僚制の発達が不十分であったという事実です。他方、これを追撃した英仏両国は、それぞれの絶対王政時代を通して強大な近代官僚制を創り上げていました。このことから、その是非はともかくも、近代国家を効率的に経営する条件として効率的な官僚制度の整備ということは必要なことであったと考えられるのです。
近代民主主義国家における官僚制度の役割は、ある国が持続的な経済発展を遂げながら、同時に国民(その持続的発展を支え続けるための貴重な労力提供者たち)の厚生を永遠に改善し続けるために、より効率的な国家経営の仕組みを経済社会及び市民社会へ絶えず提供し続けることです。その底流にあるのは近代合理主義思想と啓蒙思想を背景に絶えずソフィスティケイトされ発展し続けてきた「公」の役割に対する正当な理解です。その最も進んだ段階での概念が、「公」から「公共」へ発展したことを想定する、現代社会における「理想の効率的な官僚制度」です。従って、新自由主義者たちが呪文のように唱え続ける「小さい政府」、「官から民へ」のキャッチ・コピーは、あまりにも表層的に過ぎます。まるで、それは図体が大きく育ち過ぎた人間を生命がない剥製に見立てて、余分に成長した骨や贅肉を削り取りさえすれば効率的な人間に改造できると主張しているようなものです。
実際の順序は逆であり、弱った骨や機能不全の臓器には補強と手当を施し、単に皮下脂肪がついて太くなっただけの腹の脂肪(無駄な公共)は取り除くというのが正しい処方であるはずです。相対的に考えて無意味な「小さな政府」ではなく、「公共のために役立つ効率的なモデラートな政府」を目指すべきなのです。従って、『小泉劇場』のように、郵政民営化で見かけ上の公務員の数を減らすという詐欺的な手法を採ったり、「特別会計制度」や「財務制度」(財務省管轄)に直接メスを入れずに「道路公団改革」や「独立行政法人化」のような看板の掛け変えで国民の目を誤魔化すような、見かけだけの“公の効率化”は邪道です。というより、このような手法で国民を誑かすのは犯罪的な行為だとさえ言えます。
ところで、近代国家における「公」(または公共)には、もう一つの重要な役割があります。それは、既に述べたフッサールの「間主観性」にかかわる問題です。大雑把に言うと、およそ中世以前の社会では、フッサールの言う「間主観性」に近いという意味においてのことですが、万人に共通する自然世界や文化・経済・社会的な客観世界が存在するという意識はきわめて希薄でした。特に、国家の支配階級に属する人々を除けば、殆んどの人々は私的でナルシスティクな精神環境の住人でした。従って、この時代には近・現代的な意味での「公」の意識は希薄です。代わりに、そこで強く意識されたのは王や諸侯による支配権力への恐怖心故の服従であり、あるいは、キリスト教信仰故の神の世界の住人であるという意識でした。しかし、やがて絶対王政から啓蒙思想の時代へ向かう流れの中で起こる市民革命の時代を経て近代国民国家と市民社会の輪郭が浮かび上がるとともに、次第に新たな「公」の意識である「公共」が明瞭な形となってきたのです。
18世紀ドイツに始まったイルミナートなどの秘密結社は、このような中世から近世への過渡期の人々の精神環境に密かに浸透して、恰も「公」の代替物のような役割を演じたと考えられます。しかも、特にイルミナートの思想は「公」や、その代替物である「キリスト教」に対する過激で強固な敵愾心が特徴です。このように過激で敵対的・破壊的な精神活動の根底にあるものは「暴力」を肯定する“特異な精神”(あるいは生物学・心理学的には闘争本能などの観点から合理的に理解できる精神)です。当然ながら、このような“特異な精神が現代社会にも満ち満ちていることは周知のとおりです。そして、その一部が、折に触れて精神病または犯罪のジャンルとして理解されています。
ところで、近世初期以前ころまでの時代においては、いわゆる狂気と何か人的な領域を超えた超自然的な精神の事態との区別は明確なものではなかったようです。場合によって、そのような精神活動の表出は、何か得たいが知れない神聖な超自然的な現象として取り扱われることがありました。あるいは、イルミナティも、そのような境界領域の問題であったのかも知れません。いずれにしても、一つ言えることは、このような特異な精神作用の表出が「公」または「公共」に対する「過激なほどの敵愾心」が「非情で冷酷な姿」となって表出するということです。ここで、注目されるのが、その見かけ上のイメージは全く異なるものでありながらも、「イルミナート」と「DV」と「小泉劇場」の間に何か共通する異臭の雰囲気のようなものがあることです。それは、言うまでもなく「過激なほどの敵愾心が非情で冷酷な姿」となって表出することです。
それは、一種の圧迫感か恐怖感(心)のようなものを我われ過半を超える国民(今回の総選挙で政権与党が衆議院の議席数2/3以上となったことによって半数以上の国民が恐怖心を抱いたことは、各紙のアンケート調査の結果に出ているとおりです)が抱き始めたことに表れています。先ず、「イルミナート」と「DV」に共通するのは、その過激で破壊的なまでの暴力性であり、何らかの対象に対する強過ぎるほどの異様な敵愾心です。「小泉劇場」の印象は、恐らく受け手しだいでイロイロだと思います。しかし、少なくともそこに一貫して強烈な敵愾心が存在してきたことは多くの人々が認めるところではないでしょうか? それが「極めつきの悪役や抵抗勢力の演出」であったり、「趣味の悪い卑猥なパフォーマンスを見世物とする三文役者の如くケバケバしい刺客たちを送りつける対象」であったりという、まるでストーカーを思わせる執拗さと尋常ならざるエーテル(妖気)の放出に結びついているのです。また、そこには特に近代市民社会における「公共」に対する激しい敵愾心も感じられます。それが「参議院で否決されたことを口実に、その法案について国民の信を問うことを理由に衆議院を解散したこと」による「憲法違反」の強い疑いとなって表出しているのです。別に言えば、これは健全な「市民意識」(主権在民意識)に対する激しい嫌悪感の表明です。
(参考URL)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/
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