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□「後藤田礼賛論」一色に染まるマスコミの『異様な光景』 [東京アウトローズ]
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「後藤田礼賛論」一色に染まるマスコミの『異様な光景』
後藤田正晴氏が19日、肺炎のため亡くなった。周知のように、同氏は警察庁長官から政界に入り、常に権力の中枢にあり続け、「カミソリ後藤田」との異名もとった。96年に引退した後も「政界のご意見番」として積極的な発言を続けた。
後藤田氏は数々のエピソードを残しているが、その中には『負の側面』もある。もちろん、本誌としては故人に『鞭打つ』ようなことはしたくないが、最近のマスコミの論調を見ていると、まさに『後藤田礼賛論』で埋め尽くされている、といっても過言ではない。これは余りにも異様な光景だ。
周知のように、後藤田氏は旧内務官僚出身で、69年には警察庁長官に就任。長官時代には新左翼の爆弾テロ対策に力を入れた。72年、田中角栄首相にこわれて内閣官房副長官に就任。「角栄の懐刀」として辣腕を振るった。
74年には政界進出をすべく、参議院議員選挙に郷里の徳島選挙区から立候補。しかし、同選挙区は三木武夫氏の「城代家老」といわれた久次米健太郎氏が現職だった。後藤田氏は自民党の公認を得たが、これに三木派が大反発。選挙戦は田中、三木両派の代理戦争「徳島戦争」とよばれる熾烈なものとなった。後藤田陣営は稀に見る金権選挙を展開し、大量の逮捕者を出した上に落選。当時、後藤田氏はマスコミから厳しい指弾を受けた。その後、強力な後ろ盾となっていた田中首相も金脈問題をきっかけに辞任し、後藤田氏は『隠忍自重の時』を過ごすハメになっている。このように、「政治家・後藤田正晴」は、今とはまったく逆のダーティなイメージから出発しているのだ。
そして、もはやこれは語られることも少なくなったが、「ロッキード裁判」をめぐる旧田中派と検察当局の『暗闘劇』で、後藤田氏は重要な役割を果たしている。81年6月、同裁判丸紅ルート公判で、田中側の証人として後藤田氏が証言。これをきっかけに政治家が次々と出廷し、「榎本アリバイ」を裏付ける証言をしている。
ある事情通は次のようにいう。
「後藤田は、ロッキード事件を指揮していた伊藤栄樹(後の検事総長)らに対して異常な敵意を持っていた。後藤田の証人喚問を何とか阻止したい検察側との暗闘は、すさまじいものだった。これは決して表沙汰にはならない裏面史だが、結局、検察側は後藤田を葬り去ることに失敗した。後藤田は常々、『この仇は必ず取る』と周辺に洩らしていた。後藤田は92年、法務大臣に就任し、検事総長を始めとする検察人事に介入したのも、こうした背景があるからだ」
『後藤田正晴回顧録 情と理』(=写真)の中でも、決して語られることのない『裏面史』を封印して後藤田正晴という政治家はこの世を去った。
(一部敬称略)
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