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小泉は無傷でいられるか?
http://www.asyura2.com/0505/senkyo14/msg/1142.html
投稿者 baka 日時 2005 年 9 月 25 日 13:03:22: RQJEnV9HbG4Tk
 

(回答先: そろそろ、造反組の仕置きの時期ではないかな? 武部幹事長殿。 投稿者 baka 日時 2005 年 9 月 25 日 11:28:30)

http://www.ffortune.net/social/history/seiyo-mod/danton.htmより)

今日はフランス革命の話でもしましょう。

1794年の4月5日、ダントンが処刑され、フランス革命政府はますます厳しい
恐怖政治へと突き進むことになりました。

フランス革命の発端は国王の失政にあります。

フランスは太陽王と言われたルイ14世の時に華やかな繁栄の時代を過ごし
ますが、彼の死後国王となった曾孫のルイ15世はポーランド・オーストリ
ア・イギリスとの戦争で大量にお金を使い、しかも領地を失って国家財政を
苦しくします。その後をついだ15世の孫のルイ16世はチュルゴー、ネッケル
らを登用して何とか財政再建に務めますが、アメリカ独立戦争(1776-1783)に
介入したばかりに更に借金を増やすことになります。

事態の打開を図ろうとしたルイ16世は1789年長く開催されていなかった
三部会(貴族・聖職者・市民の代表からなる議会)を開催しますが、市民たち
の代表が過激化、議事は紛糾します。色々な動きが出ますが市民代表たちは
6月20日「テニスコートの誓い」を行い団結して事に臨むことを確認しあい
ました。そしてルイ16世が愚かにも国民に人気のあった財務長官ネッケル
を罷免(7.11)しますと、市民が騒然となり、とうとう7月14日、バスチーユ
監獄が市民たちに襲撃される事件が起こります。一般にはこの日をフランス
革命のスタートとみなします。

事態を掌握したのは、三部会の市民代表に一部の聖職者・貴族が合流してで
きた国民議会でした。国民議会は8月4日封建制の廃止を決議、8月27日には
名高い「人権宣言」を採択して、国王夫妻は身柄をベルサイユからパリへ
強制的に移されます。

最初の頃は一応国王を立てて改革を進めようとしていた市民たちでしたが、
2年後の1791年6月、国王夫妻が密かにオーストリアに亡命を試みると国民は
「国王は自分たちを捨てるのか?そんな国王ならいらない」と国王夫妻に
対する感情が悪化します。結局夫妻は国境の近くの町で拘束されパリに戻さ
れました。市民たちはこれを「パン屋の親方と女房を連れ戻した」と表現
したといいます。

翌年国王夫妻は裁判にかけられ、死刑が宣告されます。1793年の1月21日に
ルイ16世が処刑され、10月16日には王妃マリー・アントワネットも新発明
の処刑器具ギロチンによって処刑されました。ギロチンは大量に死刑を執行
しなければならないという必要性と、処刑される人が一瞬で死んで苦しまな
くて済むようにという人道的?見地から採用されたものです。

しかしギロチンで切られた首は30秒くらいはまだ生きているという説もあ
りますから、ほんとうに苦しまなくて済む処刑法なのかはやや疑問が残る所
です。通常ギロチンに人を乗せる時は落ちてくる刃を見なくて済むように
下向きに置かれますが、国民の憎しみが集中していたマリー・アントワネット
は上向きに乗せられたとも伝えられています。

さて、この間フランス革命を主導してきたのは「サン・キュロット」と呼ば
れる人たちです。キュロットとは半ズボンのことで、貴族の標準的な服装で
した。それを穿かない一般市民であるということで「キュロット無し」つまり
「サン・キュロット」となる訳です。

その中でも有力な派閥だったのが「ジロンド党」と「ジャコバン党」ですが、
一時は穏健なジロンド党が政権を取ります(1792年3月23日)。しかしこれが
やがてマラーらの積極的な活動によりひっくり返り、1793年6月2日、ジロン
ド党が国外追放されて、ジャコバン党が政権を掌握、新憲法を成立させて
恐怖政治を始めます。

当時、貴族や政府官吏などが極めてささいな罪でどんどん処刑されました。
質量保存の法則の発見者ラボアジェなども科学関係の政府の委員をしていた
為にギロチンの露と消えます。そのギロチンの発明者ギヨチーヌ自身もギロ
チンで処刑されました。

そんな中ジャコバン党の指導者たちも次々に倒れていくことになります。
まずマラーが詩人コルネーユの姪の娘コルデーに浴室で刺殺されます。彼女は
マラーこそがこの恐怖政治の中心と考えて暗殺したのですが、もっと怖い人物
が残っていました。無論彼女はすぐに捕らえられ、4日後に処刑されます。

マラーの死後ジャコバン党を指揮したのはダントンとロベスピエールでした
が二人は恐怖政治をどんどん先鋭化していきます。結局このジャコバン党政
権下でコンコルド広場のギロチンで処刑された人の数は10ヶ月間に2800人に
のぼると言われています。1日10人平均の計算です。またその間の全国での
処刑者は14,000人にのぼるとも言われています。そんな中、やがてダントン
とロベスピエールの路線も時々対立するようになっていきました。こうなる
と先に手を打った方の勝ちです。

1794年3月10日、ロベスピエールはまず最大のライバルであるダントンとその
一派を逮捕、続いて13日には次に問題になりそうなエベール一派を逮捕して
即裁判にかけます。無論この時代の裁判には意味がなく、死刑を宣告しなけ
れば裁判官が処刑される時代。3月24日に先にエベールらが処刑、そして4月5日
にダントンらが処刑されました。ギロチンに乗せられたダントンは処刑直前
にこう叫んだと言います。「私の首をみんなに見せろ。その値打ちはある」と。

無論、このような無茶な恐怖政治は長持ちしませんでした。その年7月27日、
革命暦で熱月(テルミドール)8日、カンボンやタリアンらの、ロベスピエール
と対立し始めた一派が先手を打ってロベスピエール一派を根こそぎ逮捕。有無
を言わさず翌日処刑して恐怖政治を終わらせました。世にテルミドールの反動
と呼ばれる事件です。このロベスピエールの処刑で国民はやっと胸をなで下ろ
すことができました。

タリアンらは一時的に政権を掌握するもののあまり指導力はなく、政府は混乱、
やがて1799年ナポレオンのクーデターによって時代は革命終結に向けて動き出
すことになります。

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