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(回答先: 長銀「われらが血税5兆円」を食うユダヤ資本人脈ついに掴んだ!新聞が1行も書かない「長銀」「ウォール街」「米大統領選資金」 投稿者 外野 日時 2005 年 9 月 25 日 00:03:59)
破綻その後――拓銀DNAは死なない、多士済々、道経済支える(列島金融ファイル)2005/06/07, 日経金融新聞, 1ページ, 有, 2820文字
北洋銀内でも存在感
【札幌】大手銀行が二〇〇五年三月期決算で不良債権問題の終結を宣言した。様々な金融危機を乗り越え、ようやく平時にたどりついたが、長かった道のりの出発点は、一九九七年十一月に大手銀行として初めて経営破綻した北海道拓殖銀行だった。あれから七年半。旧拓銀マンはいま何をしているのか。取引企業はどうなったのか。破綻のその後を追った。(鈴木禎央、土居倫之)=関連インタビューを3面に
「ホテルの一角に、うちの商品を扱うコーナーを設置してもらえませんか」――。五月末、北海道のコンビニ最大手のセイコーマートの副社長、西山政市(67)は道内のあるホテルを訪ね、取引開始を要請した。西山は元拓銀札幌南支店長。いまはここのCFO(最高財務責任者)。当時の人脈を生かして道内の企業をせっせと訪問する。
短期で提携合意
昨年二月に中堅コンビニのハセガワストア(函館市)と資本提携した時も西山のネットワークがものを言った。金融界の知人から情報を入手。三カ月という短期間で合意にこぎつけた。昨年三月、札幌商工会議所会頭だった社長の西尾長光が急逝した時は後任会頭人事の調整役となった。
五千三百人いた拓銀行員。千八百人が受け皿の北洋銀行に、残りが他に散らばった。拓銀は消えたが、人材は多士済々。道内企業の主要ポストに就いた人も多い。
老舗の火守る
道内大手酒造メーカー、日本清酒(札幌市)の社長、白髪良一(66)は元拓銀の検査部長。拓銀破綻直前の九七年七月に請われて転身。赤字の卸部門を切り離し経営を立て直した。昨夏には経営破綻した老舗酒造メーカー高砂酒造(旭川市)の支援要請を受けた。「迷った。でも老舗酒造の火を消したくなかった」と語る。
清酒PRのために本社前に開設した「酒ミュージアム」の利用客を増やそうと、拓銀時代からつきあいのある道内有数の人気ラーメン店「すみれ」の店主を頼って、昨年十一月に本社一階にラーメン店を誘致。利用客を二倍にした。
拓銀破綻時に頭取代行を務めた鷲田秀光(64)は現在、建機レンタルのカナモト副社長だ。
北洋銀内でも旧拓銀マンの存在感は大きくなりつつある。いまも半数を占める。不良債権処理で先頭に立つ常務の島田俊平(57)、融資拡大の旗振り役、取締役業務企画部長の石井純二(54)らは中核幹部だ。道内信用金庫の幹部は「北洋銀の旧拓銀マンが本気になり出した」と警戒する。
ただ経営戦略を描く企画部門は、副頭取の中井千尋(59)、取締役経営管理部長の柴田龍(47)ともに北洋銀プロパー。十一人いる取締役(六月下旬から十二人)のうち、北洋出身者が四人、旧拓銀は三人、残りは日銀、財務省など外部起用。日銀OBの頭取、高向巌(66)が双方のバランスをとりながら微妙なかじ取りをしている。
消える3人衆
昨年五月、北洋銀が発表したある人事が旧拓銀マンの間に衝撃を与えた。当時常務だった星野尚夫(58)の札幌市の外郭団体への転身が決まったからだ。星野は拓銀の営業譲渡で中心となって汗をかいた「旧拓銀三人衆」の一人。北洋に移った後も拓銀出身者からは「将来の頭取候補」と見られていた。今月二十八日付で常勤監査役の青山敏彦(58)が関連会社社長に、常務取締役の檜森聖一(56)が常務執行役員になる予定で「三人衆」全員がボードメンバーから姿を消す。
北洋は昨年十月に次期頭取含みで元日銀人事局長の横内龍三(60)を副頭取に招へい。会長の武井正直(79)は「どちらがトップでも派閥ができる」と打ち明ける。
「三人衆」が消え、北洋銀首脳の世代交代が進む。それでも大手銀の一角を占めた拓銀のDNAはなお、北洋銀内に、そして地元企業を通して道経済に生き続け、それを支えている。(敬称略)
旧拓銀取引先処理
最後の大型案件詰め、中小企業再生なお時間
「(出資も)前向きに検討したい」(高向巌北洋銀行頭取)。「できる限り支援したい」(堰八義博北海道銀頭取)
北海道最大の百貨店で老舗の丸井今井(札幌市)の再建の協議がヤマ山場を迎えている。旧拓銀の取引先のうち最後の大型案件だ。
拓銀破綻時に三兆一千億円あった正常債権。北洋銀と中央信託銀行(現・三井トラスト)が引き継いだ。残りの二兆七千億円は不良債権として整理回収機構(当時は整理回収銀行)に移った。
破綻直後の一、二年は、カブトデコムなど経営不振企業の処理が相次いだ。〇三年からは処理が再燃。地崎工業は昨年二度目の金融支援を受け、会社分割後に地元の岩田建設の傘下に入った。
残ったのは丸井今井。一時、千二百億円まで膨らんでいたグループ負債の一部は整理回収機構に移ったが、「地域への影響が大きい」と北海道庁が調整し回収機構に債権放棄を要請。北洋銀と道銀の融資で九九年はいったん危機をしのいだ。それでも立ち直らず、今回は伊勢丹に支援を求め、北洋銀などに金融支援を要請中だが、信金の反発で関係者の調整が続く。
これで大型案件は終わるが、回収機構に残った未回収の旧拓銀債権はまだ一兆円近くある。道内分は中小企業を中心に六千億円残っている。
過去の処理は主に回収機構が手掛けるが、北洋銀にとっても中小企業の再生、育成は課題だ。公共事業への依存度の高い北海道経済は依然明るさが見えないからだ。「拓銀はベンチャーや中小企業の育成に熱心だった」と取引先にはいまも拓銀を懐かしむ声が残る。
「拓銀と同じことをしては破綻するだけ」(北洋銀首脳)だが、道経済に「拓銀の幻影」は生き続けている。北洋銀は地元中小企業をどう育てていくか。取引先問題の解決は時間がかかる。
◇
この数年、日本列島は金融危機に襲われ、大手だけではなく地方金融機関なども経営破綻や再編が相次ぎました。火曜日付の連載企画・列島金融ファイルで、淘汰や再編のその後を随時掲載します。
▼北洋銀行 北洋銀行は拓銀を吸収した後、二〇〇一年に札幌銀行と経営統合した。北海道では「断トツのリーディングバンク」となっただけではなく、地方銀行全体でも二〇〇五年三月時点で預金量六位になった。
一方、ライバルの北海道銀行は昨年九月、北陸銀行と経営統合。道内では北洋銀のグループがまだトップだが、地銀全体では「ほくほくグループ」が二位で逆転された。
北洋銀は不良債権比率が三・四%(単体)と低いとはいえ、収益面で課題を抱える。総資産に対する実質業務純益の比率は〇・七%。横浜銀行(一・三%)や千葉銀行(〇・九%)より見劣りする。
店舗と人員の多さが一因。五年かけ旧拓銀店との重複店の統廃合を進めたが、札幌銀との統合もあってまだ二百二十五店ある。逆に収益拡大が見込める地域への出店はこれからだ。昨年十月、八年ぶりに新規出店を再開。今年度は十前後の出店を計画する。
【図・写真】破綻後、道内企業で活躍する旧拓銀マンは多い(白髪良一・日本清酒社長=写真上=と西山政市・セイコーマート副社長)
日本の金融界は危機の傷を癒やす間もなく、新たな大競争時代を迎えた。市場原理という羅針盤を用いて一斉に走り出したが、明日の勝者、二十一世紀の秩序はまだ見えない。顧客と時代の要請に応えられた金融企業だけが生き残る資格を得る。(山本修平)
前線指揮官
「我々は株主、投資家を向いて提案している。時代は変わった。以前のように密室で物事を決めるなんてことはできない」
経営統合を進める三菱東京フィナンシャル・グループとUFJグループの間に、割り込んだ格好の三井住友フィナンシャルグループ。株式の交換比率は一対一との条件をUFJに提示した八月後半、グループ首脳はこう強調した。
「長期金利も下がったし、クレジットデリバティブの上乗せ幅も縮まった。これなら先方の条件を他行ものんでくれそうだ。バンクミーティングの準備に入ろう」
同じころ、三井住友銀行の投資銀行営業部長、西本達也が率いるチームは、ある中堅企業へのシンジケートローン(協調融資)の組成に追われていた。融資先が希望する条件を他行に打診したところ「ちょっと厳しい」と言われシ団形成に二の足を踏んでいたが、幸い環境が変わりつつあった。
UFJを巡る三菱東京FGと三井住友FGのM&A(企業の合併・買収)合戦は、銀行経営も市場の評価によって左右される時代に突入したことをはっきり示した。
のみ込むか、のみ込まれるか。のみ込む場合、いかに有利な条件にするか。基本的には株価で決まる。そのためには、企業価値を高める必要がある。三菱東京と三井住友もいつ何時、外資系金融機関の手によってUFJと同じ立場に置かれないとも限らない。
シェア重視・条件二の次の旧来型営業では利ざやは稼げず、企業価値は高まらない。経営陣だけでなく現場も市場を常に意識する必要がある。「融資の押し売りは決してするな」が口癖の西本は、さしずめビジネスモデル変革の前線指揮官だ。
かつてはどの銀行でも貸出量を競い合うだけで、他行と協調する発想は乏しかった。「今は無理に貸そうとするとダンピングにあうだけ」と西本。自行にはリスクの分散、顧客にとっても調達先の多様化につながるシンジケートローンの利点を重視する考えに変わった。
普及したとはいえ、バンクミーティング開催を渋る企業経営者は少なくない。収益、財務を詳細に明かさなくてならないからだ。だが、開催後に参加行からの手応えを感じると「いやあ、開いてよかった」と感謝されることがしばしば。そうした反応に、企業を直接担当する西本の部下も「銀行マンみょうりに尽きる」と言ってくるという。
資金需要があった場合のシンジケートローン提案にとどまらず、株式公開買い付け(TOB)対策から、債権のオフバランス化まで顧客のニーズにあった財務戦略を提案していく。
中小をつかめ
「純資産の要求水準を一億円に引き下げると、業種の分散効果がこれくらい広がるから、金利は…」
みずほ銀行の資本市場第一チーム調査役、伊藤直仁は投資家の望む金利と、中小企業が許容できる資金調達コストが折り合う点を模索する日々が続く。中小企業は銀行が高収益のビジネスモデルを確立する上で重要な“票田”だ。
伊藤の業務は中小企業が発行する私募債を引き受けて、その受益権をCBO(社債担保証券)として証券化し、投資家に転売する枠組みを組成するものだ。融資に比べ、銀行にはリスク資産を増やさずに資金供給できるメリットがある。昨年三月に東京都の債券市場構想で初めて百五十億円のCBOを組成した。
当時は私募債発行企業を純資産三億円以上の優良企業に限定した。投資家に好感されCBOを即日完売できた半面、「次は三億円以下の企業にも広げられないか」とも思った。その場合、投資家の望む金利はどの程度か。伊藤の念頭には常に市場がある。
支配人が出迎え
融資のスタイルが変われば調達も変わる。キーワードは「もう預金はいらない」。
中央三井信託銀行では、支店や個々の営業現場で定期預金の獲得目標はあまり語られなくなった。代わりに営業企画の会議で俎上(そじょう)に上るのは投資信託の販売手数料や、資産相談を通じての富裕層の取り込み策だ。
社長の田辺和夫は「右肩上がり経済が終わった以上、単にお金を集めて企業に貸し出すのは通用しない。新しいビジネスモデルをつくらないと」と強調する。
新生銀行のように高金利を提示する一方で、預入期間は銀行が決める定期預金を出すところも現れた。その新生銀の各店舗で「いらっしゃいませ」と真っ先に来店客を迎えるのは、店長に当たる支配人。店舗のことを最もよく知る人間が最初に出迎えるべきだ、との発想による。
変わり始めた銀行の現場。変化を駆動するのは「市場」だ。=敬称略
(シンジケートローンは2面「ミニ辞典」参照)
【表】主な金融関連の出来事
1985年3月 ○ MMC(市場金利連動型預金)が導入、預金金利自由化が始まる
88年7月 ○ 国際決済銀行(BIS)、銀行の自己資本比率規制を公表
92年4月 ○ 大蔵省、大手銀行の不良債権を開示
93年4月 ○ 金融制度改革関連法が施行、子会社で銀行、証券の相互参入などが解禁
94年10月 ○ 流動性預金の金利自由化
12月 ○ 東京協和信用組合、安全信用組合の破たんを公表
95年11月 ○ 米金融当局、大和銀行(現りそな銀行)に巨額損失の報告を怠ったとして米国から撤退命令
12月 ○ 住宅金融専門会社の処理案を閣議決定
96年4月 ○ 預金保険法の一部改正、ペイオフの一時凍結
11月 ○ 橋本首相、日本版ビッグバン構想を発表、規制緩和が加速
97年11月 ○ 三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が破たん
98年3月 ○ 金融持ち株会社が解禁
9月 ○ SPC法が施行、証券化が容易に
10月 ○ 金融再生法、早期健全化法が成立、総額60兆円の破たん処理と予防策が整備
○ 日本長期信用銀行が国有化
98年12月 ○ 銀行法改正、情報開示が強化
○ 投資信託の銀行窓販が解禁
99年10月 ○ 普通銀行の社債発行が解禁
2000年7月 ○ 金融庁が発足
8月 ○ 金融再生委員会・金融庁、異業種の銀行参入のガイドラインを公表
01年4月 ○ 預金保険法改正、破たん処理が恒常化
02年10月 ○ 年金保険の銀行窓販が解禁
05年4月 ○ ペイオフの全面解禁(予定)
護送船団、バブル、不良債権処理…、“寄り道”30年
銀行は現在、大量に預金を集め大量に融資する、護送船団方式の下での旧来型経営に代わる新しいビジネスモデルの構築を迫られている。
明海大学の高月昭年教授によると、間接金融中心の銀行形態が通用しなくなったのは高度経済成長を終えた一九七〇年代半ば。その後、三十年間は日本を覆ったバブル経済による見かけ上の成長や、その後始末である不良債権処理で寄り道を余儀なくされた。
二十一世紀に入ってようやく、低成長下で収益確保に向けモデルを構築するのが経営課題になったという。
預金金利自由化など規制緩和は八〇年代後半から進められてきたが、当初は「自由化も横並び」の色彩が濃かった。九七年からの日本版ビッグバン、大手銀行の淘汰(とうた)や再編を経て、足かけ二十年かかった自由化をどう生かすかが、銀行界の勝敗を決める。
【図・写真】シンジケートローンのバンクミーティングも一般的になった(三井住友銀行が開いたプロロジス社の会合)
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