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(回答先: とんでもない言い掛かり 「独裁」批判に首相 (産経新聞): (独裁者を)選んだのは国民よ、あんたたちのほうだ! 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 9 月 09 日 07:30:22)
たむたむのページ「今月の言葉」より
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/konngetu05.htm#konn
☆ 一億総懺悔=60年前の45年9月5日。焼け野原に取り残された国会議事堂で東久邇稔彦首相が「軍も官も民もすべて、国民ことごとく静かに反省」し、「今こそ総懺悔(ざんげ)」しようと訴えた。それに先立つ会見でも「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩」と語った。要は、指導層の責任を棚上げにし、敗戦を含む戦争責任は国民全体にあるとした(05年09月03日付『毎日新聞』−「 憂楽帳」)。
☆ 「民主主義は国民に押しつけられるものではない。それは精神の問題であって、長続きするためには社会の根底にまで染みこまねばならない」=マッカーサーの言葉。60年前の45年8月30日、マッカーサーを乗せた米軍輸送機「バターン」は午後2時、鎌倉の大仏と富士山を越えると方向を変えて厚木に着く。軍服にコーンパイプとサングラスというその姿は占領から民主化へ向かう戦後日本の象徴である。連合国最高司令官は翌年、幣原喜重郎首相の訪問を受けて「戦争放棄」を新しい憲法に盛るよう求められ「腰がぬけるほどおどろいた」と記している。「戦争を国際間の紛争解決の手段には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった」(『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫訳)。精神革命として民主化を経験した日本では敗戦から60年を経てきょう、「郵政改革」を争点にした衆院選が公示された(05年08月30日付『日本経済新聞』−「春秋」)。
(ピカドンの 地獄でもらう 民主主義 ---竹中)
ほか「新着ニュース」より
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/shinntyaku05.htm#shinn
☆ 05年9月5日は日露戦争の講和条約締結(1905年9月5日)から100年=交渉で日本が賠償金の放棄など譲歩を余儀なくされたことに対し、東京の日比谷公園(同公園がつくられたのは、その2年前。日本で初めての西洋風の公園である。松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲むのが、時代の最先端だった。そんな公園に、「条約反対」を掲げる人たちが集まった)で暴動が起き、新聞社や交番などが焼き打ちされた。これも同じ9月5日のできごとであり、戦争を終わらせることの難しさだった(05年09月04日付『産経新聞』−「産経抄」)。かろうじて勝った戦争だが、連戦連勝と思いこまされていた国民は、賠償金を取れないことに不満を爆発させた歓呼の渦から罵声(ばせい)の嵐へ日露講和にこぎ着けた日本全権小村寿太郎への国民の評価は、交渉の前後で残酷なほど急変した。勝ち戦なのに賠償金も取れない結果に暴徒の焼き打ちが相次ぎ、小村は「弱腰」の汚名を着せられる。05年はまた、その小村の生誕150年。近く出版される二男・捷治氏(故人)の追想記『骨肉』(鉱脈社)には、条約に最も反対なのは自分だと父が家族に打ち明ける場面がある。戦争継続論者の小村にとって世間の「売国奴」呼ばわりは不本意の極みだったが、黙って耐え続けた。軽々に言い訳をしないのが明治魂でもあったろうか(05年09月05日付『日本経済新聞』−「春秋」)。一方で、「都市の民衆が政治批判の直接行動に出た画期的なできごと」(『東京百年史』東京都発行)という面もあった。そのかたわらで、大正デモクラシーが花開いていく」(05年09月05日付『朝日新聞』-「天声人語」)。
また、戦勝に沸き立った日本はその後、帝政ロシアの轍(てつ)を踏み、韓国、中国への野望を露(あら)わにして第2次世界大戦に敗れる(05年09月05日付『東京新聞』−「筆洗」)。
なお、日露戦争の指導者たちは、早い段階からアメリカに講和の仲介を依頼し、同盟国のイギリスとも密に情報交換を行った。講和会議の最終局面で、ロシアが樺太の南半分を譲る方針に転じた、との極秘情報も、ロシアが提案する直前に、イギリスから日本政府にもたらされた。ドイツの勝利を漠然と期待して無謀な戦争を始め、ドイツが敗れると、場当たり的にソ連に講和の仲介を求めて断られた昭和の指導者とは、大きな違いだ(05年09月05日付『読売新聞』−「社説」)。
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