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小泉首相が絶叫する『郵政民営化は、“官から民へ”(大きな政府から小さな政府)へ転換する構造改革を実現するための本丸だ!』というワンフレーズ・ポリテクスは、耳障りがよく一見分かり易く聴こえます。しかし、政治・経済・社会にかかわる重要な「二つの経験則」(下記)に照らすと、このワンフレーズ・ポリテクスが如何に一般の善良な日本国民を「表切(おもてぎ)っている」かということが分かります。この二つの経験則が意味するのは『どのように科学的・合理的・論理的に分析できたとしても、人間社会の未来についての絶対的に正しいシナリオをつくることは不可能だ』ということを謙虚に受け止めるべきだということです。つまり、民主主義社会における政治最高権力者は、どのような事態に至ったとしても、敢えて自らの政策に対する客観的な批判を冷静に浮け止める度量の大きさと謙虚な姿勢が求められているはずです。別に言えば、一般国民は、ワグナーのオペラを聴きながら「小泉劇場」の演出に耽溺する最高政治権力者の「狂喜の美学」と心中する訳には行かないということです。
もし、この「小泉劇場」の核心が「狂喜の美学」などでないとするなら、もう一つ想定しておくべきことがあります。それは、この「小泉劇場」(「郵政民営化焦点=解散・総選挙」の演出)には、実は全く別のところに、小泉氏なりの深謀遠慮に基づく本物の狙いが隠れているのではないか、ということです。それは、小泉首相が息長く執拗にこだわってきた、そして今も異常なほどの執念でこだわっている「靖国神社参拝問題」にかかわることです。そして、更にその奥深くには、靖国神社を「メコネサンス象徴」(参照、Blog記事・『薔薇の名前』の時代、「1439年・東西統一公会議」の現代的意味(2)、http://blog.goo.ne.jp/remb/e/04500b9507ed01e54275cb5b588f6152)とする「軍事国体論の復活」(参照、Blog記事・「改憲論」に潜むナチズムの病巣(王権神授と民族精神の高揚)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519)というきわめてリアルな戦略が描かれていないとも限らないのです。こうなれば、これは“きわめて巧妙にスフマート的に合法を装った、きわめてクーデタに近い政治戦略”だということになります。また、このことはかつてヒトラーが、ヒンデンブルグ大統領の指名を得る形で、つまりワイマール憲法下の規定どおり“きわめて合法的に”「ヒトラー内閣」を組閣して政権の独裁化 に成功した歴史を連想させてくれます(参照、Blog記事・悲しい歌(ルサンチマン)はきらいですか?/『神聖ローマ帝国の滅亡からヒトラー、そして小泉現象時代の日本』までの概観、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050514/p1)。
それは考えすぎだゾと言われそうですが、そうとも言えないところがあります。この4年間の小泉氏の言動を時系列で観察すると、その特異な精神環境の作用が見えてきます。きわめて狭隘な個人的心情と全人類の主権にかかわるような問題(ヒューマニティの問題)とが、言い換えれば、個人的心情の問題と本来は先ず倫理的・人道的であるべき次元の問題とが恰も極点の天空に揺らめくオーロラ現象のような形で燃え上がり、いつの間にか見事に和合しているのです。これはレトリック(修辞法)で言うところの「濫湯(らんゆ)」(わざと一致しない言葉や内容を使う比喩の一種/盲目の口、多弁な目etc)に近い精神構造です。また、このような特異な精神構造(天才的で特異な才能?)が、小泉氏の『人生いろいろ・発言』など短い「ワンフレーズを巧みに操る見事な詭弁の数々」の源泉となっているようです。このような点まで思いを巡らせると、「小泉劇場」にひたすら迎合するばかりの主要なマスメディアの浅薄なジャーナリズム意識(ノーテンキでな危機意識が欠如した精神環境)が浮かび上がってきます。仮に、この推理が妥当だとすれば(無論、妥当であって欲しくないのですが・・・)、今回の「郵政民営化焦点=解散・総選挙」の眼眩ましによって、再び我われ日本人が、“大本営発表の時代”へ逆戻りする入り口に立つ可能性があるのです。
<注>“表切(おもてぎ)る”という表現はあまり一般的でありません。が、ここでは、“裏切る”が“表(オモテ)と裏(ウラ)を使い分け”て相手を欺くという意味があるのに対して、“表と裏の境目が分からぬようスフマート(sfumato/レオナルド・ダ・ヴィンチが完成したとされるモノとモノの境目が判然としないように柔らかくボカす描画技術)のような擬装で大衆や聴衆などを騙す”という意味で“表切(おもてぎ)る”を使っています。
経験則[1]=世の中にうまい話はない。(詠み人知らず)
経験則[2]=天体の運動を測定することはできるが、大衆の狂気は測定できない。(Sir. Isaac Newton/1643-1727)
ところで、何事につけ戦略的かつ合理的に思考・分析し、正しい方向へ向かうシナリオを描く努力を積み重ねることはとても重要です。しかし、殆んど完璧と思えるほどのシナリオ(マニフェスト)にも、必ず、その段階では未だ掴むことができないetwas(未知の何か)が残ります。そこで必要なことは、その未知の何かが占める部分を最小とするにはどうすればよいかを考えることです。そして、そのためにこそ我われ人間は、先ず自らが歩んできた歴史的経験を反省的に受け止め、そこから未来に役立つ生きた知恵を学ぶ必要があり、同時に、客観的な批判を冷静に浮け止めるだけの度量の大きさと謙虚な姿勢が求められているのです。そして、最も肝要なことは、その非常に長い歴史的経験の中から、我われ人類は、天文学的な数字に及ぶ多大な人的犠牲の礎の上で、やっとの思いで現代の民主主義社会の最もベーシックなルールである「普通選挙制度」、「国会を中心とする議会制民主主義の仕組み」及び授権規範性を帯びた国家の最高法規である「憲法」を手に入れた筈です。
特に注目すべきことはモボクラシー(mobocracy/大衆扇動型の政治)の罠を避けるための知恵を歴史から学ぶという観点です。社会変革の理想がモボクラシーの罠に嵌る可能性は、例えば「フランス革命」の勃発と、その後の一連の経緯(第一共和制〜ナポレオン帝政〜七月革命〜ルイ・ナポレオンの第二帝政〜第二共和制〜普仏戦争〜第三共和制)からも明らかです。このような歴史のプロセスで見逃すことができない要因が支配的な立場に立った「政治権力の暴力性」ということです。そして、王制であろうが民主共和制であろうが、ヴェネツィア大学教授・ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben/ 1942年 - )の『生政治』(バイオポリテクス/Biopolitics、
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9500ag.htm)を持ち出すまでもなく、政治権力の本源は“暴力性(絶対的に強制を迫るという意味での暴力性)を帯びたもの”であることを思い出すべきです。
つまり、突き詰めて見れば「支配的な政治権力」の根本は「武力(暴力、軍事力、警察力)」、「経済力」及び「権威(宗教、アカデミズムなど)」であるという現実を直視すべきなのです。しかも、この三者の中で究極的な支配力を持つのは残念ながら「武力(暴力、軍事力、警察力)」です。従って、「支配的な政治権力」を性善説の観点のみで定義することはできません。むしろ、「支配的な政治権力」の本源は「アナーキーな暴力性に満ちたもの」と見做すべきかも知れません。科学的、生物学的、深層心理学的あるいは大脳生理学的な観点からみても、支配権力の根源は暴力的なエネルギー(リビドー的な生エネルギー)に満ちたものと考えることができます。従って、このように「暴力的な政治権力」(リビドー・エネルギーの集合体)をコントロールする手法として「民主主義」というソフィストケイトした政治形態が工夫されたと考えられます。喩えてみれば、リビドー・エネルギーに満ちた大脳基底核(脳の中心部/古い動物的・爬虫類的な脳)が「支配的・暴力的な権力」に対応する一方で、その大脳基底核のほとんど無意識に近い「衝動的な暴走」の部分を抑制・制御するのが大脳皮質(新しい人間的な脳、歴史経験に学ぶ脳)に相当する「民主主義制度」(民主主義を機能させるための法律や手続き)だということになります。
<注>リビドー(libido)
・・・深層心理学・精神分析の用語。人間に生得的に備わっている衝動(意識的抑制が困難な欲望や生理的・心的欲求)の原動力となるエネルギー。フロイトはこれを性衝動と見做したが。ユングは、性衝動に限定せず、あらゆる人間の行動の根底にある原始的な心的・生理的エネルギーと定義した。いずれにせよ、人間の心的な活力の根底には原始的・動物的・爬虫類的な自分では制御が困難な得たいの知れぬエネルギーが渦巻いていることは比較的容易に理解できる筈。リビドーは、経済活動にせよ知的活動にせよ凡ゆる人間活動の心的・創造的エネルギー源となっており、そのエネルギーの大きさは、特に「暴力的・権力的・権威的・支配的」な分野の仕事と相関が強いと考えられている。
ところで、オランダ独立戦争(1568-1648)、三十年戦争(1618-1648)、ウエストファリア条約(1648)、英国の清教徒革命・名誉革命(1642-1649、1688)、アメリカ独立革命(1775-1783)、フランス革命(1789-1799)など、近代国民国家と市民社会が確立するまでの16〜18世紀に跨るジャーナリズム(主に新聞・雑誌など)の歴史を概観して分かることがあります。16世紀頃には、素朴な普通の意味での情報伝達を目的とする印刷された有料のビラやパンフレットの類(ドイツではFlugblat、イギリスなどではRelationと呼ばれた)が流通しており、その内容は、戦争・災害・外交・祝祭行事・殺人・魔女・ゴシップなど実に多用なものとなっていました。やがて、17世紀以降になると社会システムが充実するとともにヨーロッパ各国では定期的なニュースを伝える出版活動が盛んとなり、やがて18〜19世紀にかけて新聞や雑誌の形態が定着してきます。
これらの初期ジャーナリズムは比較的自由に情報提供活動が行われていましたが、チャールズ2世(Charles 2/在位1660-1685)の王政復古の時期に入ったイギリスやルイ14世の親政が始まったフランスでは、およそ17世紀半ば頃から旧体制の復古的な傾向が強まるとともにジャーナリズムに対する国家統制が強まって行きました。しかし、例えば17世紀末〜18世紀初め頃のロンドンでは、約2,000軒を超えるコーヒーハウス・ジャーナリズムが活況を呈す事態となっており、各コーヒーハウスには数百種類の新聞やパンフレットが配架されて、一般市民による活発な政治談義が行われていまして。やがて、このようなジャーナリズムの大衆化とともに、ジャーナリリズム本来の役割が認識されるようになってきたのです。
ところで、現代の民主主義社会においてジャーナリズム(マスメディア)が自覚すべき点を押さえておけば次のようなことになります。この中でも、特に三番目の「政治権力などに対する監視・評価の役割」が最も重要であり、それにもかかわらず、近年の日本のジャーナリズムは、この点が明らかに衰微し、弱体化しています。分かりやすく言えば、権力側に軸足を置きつつ本当は国民の全てが知るべき情報を意図的に知らせず、政治権力側が知らせて欲しいと望むことだけを報道するようになっているのです。そして、そのような傾向を促進する元凶が「記者クラブ」の存在です。端的に言ってしまえば、このような日本独特の「記者クラブ」のようなシステムは一種の“官製談合組織”に他なりません。ジャーナリズム自身が、“官製談合”の恩恵をタップリ蒙り情報提供者である与党政治家や官僚側と結託しておりながら、一方で民間レベルの“官製談合摘発のニュース”を嬉々として報道するのは正にブラック・ユーモアの世界です。なお、一連の「イラク戦争」関連の報道や今回の「小泉劇場」関連の報道の経緯を丹念に追いさえすれば、より具体的な「日本のジャーナリズムが弱体化した姿」が浮かび上がるはずです。
●ジャーナリズム自身が平和と人権の砦であること
●行過ぎた報道が人権侵害に結びつく恐れがあること
●政治権力などに対する監視・評価の役割
このようなジャーナリズム弱体化の先に予見されるのは、日清・日露戦争〜太平洋戦争期において、当時の全ジャーナリズムが各戦争の直前になると、それまでの政治批判の姿勢を覆し、挙って、一般国民を「大勢翼賛政治下の戦時体制」に向かって誘導することになったという愚かな過ちの繰り返しです。再び、日本のジャーナリズムは、このような自殺行為に等しい愚考の極みへ追い詰められているようです。直近の「NHKvs朝日新聞」の問題は、それを象徴する出来事ですが、周知のとおりその決着の行く先は、ますます混迷の度合いを深めるばかりとなっているようです。
ともかくも、人間の歴史的な経験からすれば、民主主義国家において、唯一、今まで見てきたような意味での「権力の暴走」(理不尽で狂気に満ちた悪魔的暴走)を厳しく批判し「対抗できる有力な在野の権力」がジャーナリズムであることも忘れてはならないと思います。それゆえにこそ、民主主義国家におけるジャーナリズムは、「政官の権力」、「経済的権力」に次ぐ「第三の権力」とされることがあるのです。それ故に、もしジャーナリズムがこれら二つの権力と結託するならば、国民一般に対して遥かに優位な位置に立ってしまうことが明らかだからです。ハッキリ言えば、この時、ジャーナリズムは対抗手段を持ち得ない一般国民に対して邪悪な牙を剥く「暴力装置」と化したことになります。そればかりか、それは「国民主権」を陵辱したことにさえなるのです。
ここに、ジャーナリズムの二律背反的できわめて困難な立場が見えてきます。つまり、ジャーナリズムは、このように薄氷を踏むかのような権力間の(国家権力等と国民主権の間に介在する)微妙なバランスの上に立ちながら、冷静に、かつ客観・公正に民主主義社会を監視・批判する存在なのです。そして、彼らが、ほんの少しでも権力側へ傾けば、ジャーナリズムの存在理由(ジャーナリズムが、民主主義社会における権力監視の役割を担うべきであることの意味)は根底から失われることになります。従って、問題はジャーナリストの目がどちら側の権力へ向いているのかという只その一点にかかることになるのです。
このように見てくると、今回の「小泉劇場」(郵政焦点・解散=総選挙)では、ジャーナリズムがあまりにも権力側に立ち過ぎていることが気がかりになってきます。特に、ほとんどの新聞・テレビが挙って「小泉劇場」の派手な演出に加担しているように見えています。これは、新聞・テレビなどのジャーナリズムが本来の使命を忘れて“売上げ至上主義”に堕してしまったからだと見做すことが可能でしょう。しかし、それだけではないようです。どうも、彼らは国民一般にあまり知られたくない(と政権側が望む)何らかの実態(政治の失敗)をカムフラージュすることに積極的に加担している節があります。それは“焦点ボカシ”あるいは、どぎつい表現をすれば「小泉政権の失政」を目立たぬようにするための「スフマートの演出」に協力・加担しているということかも知れません。しかし、この「小泉劇場の暗部」なるものは、普段にマスコミが具体的かつ継続的に報道さえしてくれれば、一般国民の誰でもが容易に理解できる簡単な事実ばかりなのです。この論の後半では、その「小泉劇場の暗部」なるものの(あまりにも当たり前の事実ばかりなので暗部などと大仰に言うほどのことでもないのですが・・・)実態の一部を具体的に検証してみることにします。
(参考URL)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/
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