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ナチスが侵略的な勢力拡大のために利用したという意味で“手垢がついた言葉”なのであまり多様したくないのですが、今の日本は未曾有の「地政学的な危機」に急接近しつつあるようです。被害者となった非常に多くのアメリカ国民には真に気の毒なことですが、巨大ハリケーンによる「カタリーナの惨事」が、そのことを強く暗示しているように思われます。つまり、日本の文化・経済・社会のすべてが、地政学的な意味で『海抜ゼロメートル地帯のトラップ』(市場原理主義の罠)に嵌ろうとしているのです。
“カイカク”なる表層的で冷徹なキャッチコピーの下で、「少数の強者」と「圧倒的多数の弱者」をつくりだすワンフレーズ・ポリテクスが、果たして健全な国家ガバナンスだと言えるのでしょうか? そして、このように最もベーシックな国家ガバナンスの視点について斟酌する意志を捨て去り、きわめて差別的・打算的な「B層プラン」なるマーケティング分析戦略に悪乗りしつつ政治状況の衆愚化を煽る、日本の主要マスコミ(テレビ・新聞等のジャーナリズム)と御用アカデミズム(御用学会、御用学者)の罪は非常に重いと思われます。
たまたま、このような杞憂を裏づけると思われる言説(小論)がネット上の交信の中から浮上してきたので、参考までということで、以下に纏めておきます。
[その一]
「無頓着で貧相な精神環境」
・・・現代日本のジャーナリズムとアカデミズムの特性
<注>これは、Blog記事間(pfaelzerwein & toxandoria)のコメントの遣り取りからクローズアップしてきた論点です。
(コメント)pfaelzerwein
「無頓着で貧相な精神環境」
ご無沙汰しております。「決定的に批判力を失ったジャーナリズム」は今更と云う感もありますが、「学会で利己的な心情から勝ち組を自覚する」という方が遥かに問題点かと思います。詳細については、是非ご見解を伺いたいと思います。
そして「無頓着で貧相な精神環境」が、アカデミズムや文化のなかで一体どのような様相を呈しているのだろうかと云うのが最も興味のある所です。根が深いと思うのです。
・・・・・・・・・・・
(Re.コメント)toxandoria
こちらこそ、ご無沙汰しております。日本のジャーナリズムの腰抜けぶりは、明治以降に連綿と引き継がれてきた“悪しき伝統”(または悪しき本性)のようなものではないでしょうか? ポストモダンの時代環境のなかで、彼らの厚化粧が溶け始めただけだと思います。この意味では、たしかに今更とは思うのですが・・・。ただ、次に見るように、日本のアカデミズムがポストモダンの環境の中で閉鎖的な傾向を強めつつあることを考えると、これは「太平洋戦争」直前の時代より、今の日本の状況の方が、かなり“ヤバイ”のではないかと思っています。
「利己的な心情から勝ち組を自覚する」というアカデミズムのイメージは、先ず、政府税制調査会などの各種諮問委員会・審議委員会等の“委員”を積極的に務める偉い先生方の周辺に纏わりついています。尤も、実際の調査・研究活動などは、自らが顧問を務める民間シンクタンク等への丸投げでしょうから、その実態はケチな日当稼ぎのようなものです。
従って、彼らの大半は人畜無害な日和見主義者であり(いや、だからこそ有害なのです)、その意味では単に無責任な輩なのだと思います。つまり、これが「無頓着で貧相な精神環境」の学者(御用学者)の一つのタイプです。しかし、このように身勝手なアカデミズムの培養池の中から政府の御達しどおりの「大増税案」(国民へ激痛を与えるプラン)などが“お気軽に”諮問されるのでは、日本国民はいいつらの皮だと思います。尤も、ジャーナリズムが、この種の問題は殆んど取り上げないので、このような実態を自分にかかわる問題として自覚できる国民は少ないと思いますが・・・。また、権力中枢に直接寄生して外国の傀儡的役割を担う御用学者などは、それにも増して悪質なタイプであると言えるでしょう。
もう一つの問題点は、例えば権力中枢の極右勢力(ドイツで言えばナチに相当する)などと最深層で繋がる“●▲■会”などの活動へ積極的に参画するタイプの中堅、あるいは若手の先生方が最近目立つことです。このような動きを後押しする(そして“フランス語は数を数えられない言葉だ”と差別的な発言をして顰蹙を買った)知事が管轄する東京都では、近年、複数の既存大学が一定のフィルターを通す形で「首都大学東京」として再編されています。
[そのニ]
米国の対日要求を日本の内政課題に偽装する小泉政権――関岡英之
<注>2005年「森田実政治日誌」[309]からコピペ/2005.9.1発売の雑誌「月刊テーミス」への寄稿文
・・・この寄稿文については、関岡氏自身が引用・転載を許可されています。
今回の衆議院総選挙は郵政民営化の賛否を国民に問うものとされている。関心が薄かった国民も、有無をいわさず渦中に引きずり込まれ、いまや最終審判の責を負わされることとなった。だが賛否を決める前にぜひとも考慮に入れて頂きたいことがある。郵政民営化には、おおやけにはほとんど語られていない側面がある。小泉総理の個人的執念とされているこの問題の背後には、米国からの執拗な圧力が存在しているのだ。
一九九三年、宮澤・クリントン日米首脳会談で合意されて以来、米国政府は日本政府に対し、毎年『年次改革要望書』という公式文書を提示し、日本の内政課題に干渉してきた。この文書は、在日米国大使館のウェブサイトで日本語版が公開されており、いつでも誰でも無料で閲覧することができる。そのなかに、現在焦点になっている郵政三事業のひとつ、簡易保険に関する部分がある。
いまから十年前、九五年十一月二十一日付の『要望書』の十五頁には、「郵政省のような政府機関が、民間保険会社と直接競合する保険業務に携わることを禁止する」と既に明記されている。以来、米国政府は簡保の廃止を日本に要求し続けてきた。九九年十月六日付の『要望書』では「米国は日本に対し、民間保険会社が提供している商品と競合する簡易保険(カンポ)を含む政府および準公共保険制度を拡大する考えをすべて中止し、現存の制度を削減または廃止すべきかどうか検討することを強く求める」とある。
これらはすべて、保険分野における要求事項として書かれている。米国が一貫して標的としてきたのは、郵政三事業のうちの簡易保険であり、郵便事業と郵便貯金にはほとんど関心を示してこなかった。なぜなら、米国政府の背後で圧力を加えてきたのが米国の保険業界だからである。これは秘密事項でもなんでもない。米国生保協会のキーティング会長は本年二月に来日し、自民党の与謝野馨政調会長と会談し、郵政民営化について陳情している。二月九日の朝日新聞のインタビューのなかで、郵政民営化についてキーティング会長は「米国の生保業界にとって最も重要な通商問題だ」と堂々と明言している。
郵政民営化問題には、日米保険摩擦という重要な側面がかねてから存在してきたのである。しかも米国は、日本に圧力を加えている事実をまったく隠しだてしてはいない。米国政府の公式文書である『年次改革要望書』に公然と記されている。にもかかわらず、どれほどの日本国民がこうした経緯を知らされているだろうか。官から民へ、民にできることは民にやらせろ、というのは『年次改革要望書』の要求そのものだ。日本の郵政事業の民営化、つまり官業としての簡易保険を廃止して民間保険会社にすることを、なぜ米国の保険会社が執拗に要求しているのか。米国の保険会社にとって郵政民営化はどんなメリットがあるのか。民営化されたあとの簡保とその資産一二〇兆円は結局どうなっていくのか。
最新版である昨年二〇〇四年十月十四日付の『年次改革要望書』には、郵政民営化に関して以下のような要求が列挙されている。
「米国政府は日本政府に以下の方策を取るよう求める。
・日本郵政公社の金融事業と非金融事業の間の相互補助の可能性を排除する。
・特に郵便保険と郵便貯金事業の政府保有株式の完全売却が完了するまでの間、新規の郵便保険と郵便貯金商品に暗黙の政府保証があるかのような認識が国民に生じないよう、十分な方策を取る。
・郵便保険と郵便貯金事業に、民間企業と同様の法律、規制、納税条件、責任準備金条件、基準および規制監督を適用すること。
・新規の郵便保険と郵便貯金が、その市場支配力を行使して競争を歪曲することが無いよう保証するため、独占禁止法の厳格な施行を含む適切な措置を実施する。」
これらの記述から、米国側の狙いがおぼろげながら透けて見える。郵政公社の三事業一体のユニバーサル・サービスを解体し、簡保・郵貯の金融事業を、非金融事業つまり郵便事業から完全に切り離す。そして金融事業については政府保証を撤廃させ、政府保有株をすべて市場で売却、完全民営化させる。民間会社となった簡保に対しては、外資系保険会社と対等の条件を要求。所管官庁も総務省から金融庁に移管させて立ち入り検査を受けさせる。さらに独禁法の適用対象とし、公正取引委員会にも調査させる。
金融庁が民間の会計事務所と連携しながら、検査や会計監査を通じて真綿で首を絞めるようにりそなを国有化へ、UFJを身売りへ追い込んでいった経緯は記憶に新しい。一方、公正取引委員会は、検察当局と連携しつつ、いままさに道路公団を追い詰めている(公取と米国との深いつながりについてはいずれ本欄でも採りあげたい)。米国の要求事項から、民営化後の簡保の苦難に満ちた行く末が見えてくる。これが日本の国益になるのか。
今回の郵政民営化をめぐる自民党内の攻防で、小泉総理が頑として譲らず、最後まで揉め続けた最大の争点が、郵貯・簡保(金融事業)の完全分離・完全民営化の一点だったことが改めて思い出される。それはまさに、『年次改革要望書』の対日要求事項の核心にかかわる部分だった。だが、真に国益を憂える反対派議員の声はかき消されてしまった。
日本の民間保険分野は、はるか以前から、米国の激烈な市場開放攻勢にさらされてきた。九〇年代の日米保険協議の結果、医療保険やガン保険などの第三分野は外資が優先され、米国系保険会社の独壇場となってきた。加えて二〇〇四年には、本丸というべき生命保険分野でも、業界最大手の日本生命が個人保険契約件数でアメリカンファミリー生命(アフラック)に、新規保険料収入でもAIGに抜かれ、戦後初めて首位の座から転落した。
一方、二〇〇〇年前後に経営破綻した東邦生命、協栄生命、千代田生命などの中小生保は軒並み米国系保険会社に買収されてしまった。これら生保の経営が悪化したのも、もとはといえば八〇年代に米国の財政赤字を支えるために大量購入させられた米国債が、九〇年代にクリントン政権の円高攻勢で減価して甚大な差損を被ったことが原因だった。
日本の民間保険市場は、過去二〇年以上にわたって米国にさんざん食い物にされてきた。そうした歴史を学んだうえで改めて考えれば、郵政民営化の本質は、いまだ米国の手垢がついていない、一二〇兆円にのぼる官製保険の市場開放問題だということがわかる。
「民にできることは民にやらせろ」、「官から民へ資金を流せ」というときの「民」は、日本国民の「民」でも民主主義の「民」でもない。要するに米国民間保険会社の「民」にほかならないのである。
こうした背景を、小泉総理は国民に一度でも説明したことがあっただろうか。解散を強行した直後のあの記者会見で、ひとことでも触れただろうか。郵政民営化の是非を国民に問うてみたいと主張するなら、対米交渉の経緯も含め、すべての背景について説明責任を果たしたうえで、国民の審判を求めるのが筋ではないか。それができないのなら、「郵政民営化は日本の構造改革の本丸だ」という常套句は、米国の対日要求事項を日本の内政課題に偽装して、国会を通すための方便に過ぎないと、判断されてもしかたあるまい。(了)》
(参考URL)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/
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