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丹波さんの文章は、文芸春秋9月号に載せられています。
なかなか楽しい文章です。内容は深刻ではありますが彼の人柄によるものか軽妙なタッチです。
私は、「明治憲法」も民衆から浮き上がっていた存在であったと考えております。
「床の間に置かれた置物」として、近代国家の体裁を整える積りの明治維新クーデター政権が造り上げたこの憲法は作用していたと考えています。
私が敬愛していた久保田正男さんの著書「フリーメーソン」(徳間書店)では次のように書かれています。
「当時の日本人の頭の中にあったのは、憲法よりもむしろ教育勅語のほうであったのである。
教育勅語のほうが日本民族の伝統的思考パターンにピッタリであり、明治憲法のほうは、とっつきにくいと考えられていたことは事実である。
ここにすでに、フリーメーソンのイデオロギーが日本人に根付かないことを感じる事ができるのである。」
関心のある方は教育勅語と明治憲法を調べてみられたら宜しかろう。
教育勅語は一つの文学として捉えても良いと思います。
表現が今では古めかしいものではありますが。
久保田さんは「憲法一般」を「イデオロギー」と考えられており、
しかもそれを「フリーメーソンによる他民族の国家支配の為の道具」と捉えておられたのです。
私も大筋で久保田さんの考えに賛成しております。
「本来は国家に憲法は不必要」なのです。
私はこの様に考えており、久保田さんも同じ考えであったでしょう。彼はもう故人です。
しかし、世界全体が平和的に安定する時が来るまでは、
「日本国憲法」を完全なままである様に、犯されぬように擁護します。
憲法の廃棄の課題が現実となるのは世界平和達成の後の事でしょう。
右派の人達には明治憲法を擁護する人が多いのですが、この憲法の不自然さを知る必要があり、一方で教育勅語に民衆が馴染んだのは何故かを考える必要があるでしょう。
教育勅語の内容に感激して語る年配の人達が今も多く居るにも拘らず、明治憲法を喜んで語る人は皆無であり、近代化の為の構築物として捉えている人が殆どである事を考える必要があるでしょう。
教育勅語には文学的価値もあるのでしょう。尤もそれは天皇の本質について触れたところがある意味が大きいのではありますが。
日本国民にとって明治憲法とは何であったのか、また明治近代国家とは何であったのか、
その意味を問う必要があるのです。
私は、幕末の藩政を引き継いで、政治改革を重ねて「政治権力の民衆への開放」の実現を図っていたならば、
日本近代国家の政治権力は「石垣を組んだように強固なもの」となり、対外的には徳川幕府の朝鮮政策のように柔軟で老練なものとなり、
欧米の対アジア帝国主義侵略政策をその本心から捉える事が可能となり、それを近隣のアジア諸国との対立を避けつつそれができたであろうと考えております。
明治国家は権力基盤が弱かったので、有能な政治家が育たず、政策が薄っぺらなものとなり、三代で消滅をしたと考えるべきでしょう。
戦後の昭和時代からは、天皇は同じでも明治近代国家の三代とは別の時代であると私は捉えています。天皇は押し付けられた絶対専制君主の服装を脱がれたからです。
私はイデオロギー的な論究を行なうものではないので、その事をご理解いただいて読んで頂きたいと考えております。
日本人の「法意識」を問う。 明治以後、国民は国法を自分のものとして見なかったのが実態だ。
http://www.asyura2.com/0505/senkyo12/msg/141.html
投稿者 新世紀人 日時 2005 年 8 月 21 日 17:35:33: uj2zhYZWUUp16
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