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(回答先: 近衛文麿 日本の自殺情報総合サイト 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 22 日 06:26:05)
> 近衛は第一次大戦後の米英を中心とした新しい世界秩序体制にたいし、極東の小国日本がどのように行動すべきかを述べた「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し注目を浴びた。近衛はパリ講和条約の際、元老・西園寺公望のブレーンとして渡欧、そして自らも若き俊才たちを集め「昭和研究会」というブレーン組織を作った。
> 満州事変の時、近衛は貴族院副議長だった。事態収拾を計る西園寺公望に対し近衛は軍部の指し示す方向は「運命の道」だと主張し、激しく対立した。当時の近衛は五摂政家筆頭の若き俊才として皇室のみならず大衆からも抜群の人気を得ていた。近衛は1937年、閣僚経験の無いまま46歳の若さで首相の座に登り詰めた。
> 首相就任直後、廬溝橋事件が発生した。近衛はドイツ駐華大使トラウトマンを通じて蒋介石と和平交渉を進めていた、蒋介石も和平の意向を示していたが、国民政府が南京を捨て重慶に移動したときに不用意に「国民政府を相手にせず」と発言。日中は全面戦争へと突入していった。近衛はその責により首相を辞職した。
> その後の政治的混乱の中、近衛は新体制運動という政界再編を企画した。後の大政翼賛会である。近衛は陸軍強行派にとって非常に都合の良い政治家だった。海軍派の米内内閣が倒れた後、近衛は陸軍と世間の圧倒的人気に支えられ再度首相の座に返り咲いた。そして日独伊三国同盟に調印し大政翼賛会を発足させ矢継ぎ早に新体制を作り上げていった。この年、昭和研究会は解散し西園寺公望は亡くなった。
> 近衛は泥沼に陥った日中戦争を解決する為に日米交渉を開始した。日米交渉に反対する松岡外相を切り捨て第3次内閣までつくり交渉に尽力した近衛だが、米国の態度は硬化。南インドシナへの日本軍進駐により米英蘭の資産凍結・石油禁輸を招き、遂に日米開戦に至ってしまった。
> 終戦後、近衛は自分がまさか戦犯とされるなど思ってもいなかった。
> 近衛の自殺を聞いたキーナン検事は「良心の呵責無きものは恐れない、近衛は自分に非があることを知っていたから自殺したのだ。」と強い口調で記者団に語った。
小泉君は近衛の生まれ変わりじゃあるまいね。小泉は絶対自分の非は認めないでしょう。自分は絶対的に正しいという思い込みは小泉も近衛に劣らず大きいと思います。
日本にはミリタリズムがあっても、ミリシアイズムはない。日本国家=自分というように簡単に国家に自己を同一化してしまう傾向があり、今や1930年代の思想に戻っている感じがある。
独立戦争や市民革命で自分の国を作った訳ではない。アメリカのようにまず住民があって、自治体があって、連邦政府があるのではなく、ピラミッド型に万世一系の天皇陛下の下に絶対的に正しい命令を下す政治家・官僚が命令を下すという図式。国民は「政府に文句をいうマスコミはアカン!久米・朝日はサヨクのアカーじゃ」と思っているかも知れないが、実際はマスコミの批判などというものは、たかが知れており、むしろ政府の政策の太鼓もちのことが多いのだ。国民からサヨクと思われている久米なども政治家に嫌味を言うのが関の山であって、本来左翼というほど根源的な批判はできてないはずだ。
日本は天皇陛下の国で、思想は1930年代からそんなに進歩してないから、小泉や石原のポピュリズムによる上からの一元的な国民統合は容易ではないか。無論、これと教育現場の「ひのきみ」強制は連動している。
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