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(回答先: 「わたしも死んでもいい」 綿貫氏、地元で決起集会 (共同通信) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 8 月 22 日 04:37:28)
歴史と伝説 富山県の沿革
http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/motto/05_kyouiku/07_rekishi/main/07.html
(写真:義仲、倶利伽羅合戦(倶利伽羅神社所蔵 石川県津幡町)
越中ふんどし、一向一揆のふるさと、米騒動発祥の地---越中富山の意気高し
小百合姫伝説さながらの現実・・・
以下、引用貼り付け
−−−−−−−−−−前略−−−−−−−−−−
◆戦国武将、佐々成政◆
天下統一をめざして上杉謙信、武田信玄、織田信長が対立していた時代、越中は本願寺を中心とする一向一揆衆が支配していました。本願寺は武田氏と結んで織田氏と対立したため、越中の国人(有力な地域の侍)も織田勢と戦いました。
信玄の死後、本願寺は上杉氏と結んで織田氏と対立し続けました。織田氏の武将佐々成政は、このような状況のなか、天正8年(1580)越中平定の命を受けて派遣されたのです。
成政は増山城、瑞泉寺、勝興寺、そしてついには富山城をも落とし、天正10年3月には、上杉方の拠点は魚津城と松倉城を残すのみとなりました。上杉方の重要拠点であった魚津城の攻防は2か月にも及ぶ激しいものでした。
越中を支配下においた成政は、富山城を本拠として治水にも力を注ぎ、常願寺川の馬瀬口(大山町)に石積みの堤防(現在の「佐々堤」と伝えられる)を築いて洪水から富山城下を守りました。
信長の死後、豊臣秀吉の天下が固まりつつあるなかで、成政は遠江(現静岡県西部)の徳川家康と組んでこれに対抗しようとし、天正12年、厳冬の立山のざら峠を越えて浜松城に向かいました。しかし、盟約はならず、翌年には秀吉の軍門に下り、越中のうち新川郡のみの領有を認められました。
その後、成政は肥後(現熊本県)一国を与えられ、越中を去りました。しかし肥後の統治は困難をきわめ、一揆が起こったため、成政は秀吉に切腹を命じられ、天正16年にその生涯を終えたのです。
〈早百合伝説〉
成政の寵愛をうけていた早百合姫は、他の側室のねたみをかい、家臣と密通したと告げ口をされます。成政は激怒してその家臣を斬殺しました。ついで、早百合姫を捕らえ、神通川の一本榎に吊るし、めった斬りの斬殺に処しました。また早百合姫の一族すべてを皆殺しにしたのです。
死ぬ間際に早百合姫は、「己成政此の身は此処に斬罪せらるるとも、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」と叫んだそうです。天正16年に成政が切腹に追い込まれたのも、この早百合姫の怨恨のためであると「絵本太閤記」では語られています。
−−−−−−−−−−−以下略−−−−−−−−−
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