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2005年森田実政治日誌[235] 2005.8.12(その3) に関岡英之さん(名著『拒否できない日本』の著者)からの小論文が掲載されていました。http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/
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[以下は関岡さんの小論文です。関岡さん、私のホームページに投稿してくださり、深く感謝します――森田]
ひとりの政治家の妄執が、ついに国家の一大事と化してしまいました。国会で衆参両院の議決が不一致となったときは、憲法第五十九条に従って、まず両院協議会を開催し、それでも一致しないときは衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したとき、法案は成立する。これは中学生でも公民で習って知っています。しかし憲法の定めは、行政府の都合によっていともあっさり踏みにじられてしまいました。
それだけではありません。郵政民営化法案を可決し、内閣不信任案を議決したわけでもない衆議院を、憲法第七条に定められた[天皇の国事行為]を行政府が僭上して解散するという理不尽がまかり通りました。辞表を懐中に忍ばせ必死に諫言する大臣を罷免し、そのあいだ一時間以上も陛下をお待たせして憚らないという、まさに驚天動地の暴挙でした。
内政外交ともに閉塞停滞するいま、郵政公社を株式会社化するなどという愚にもつかない瑣事以外は一顧だにせず、我執を充たすためには憲法を壟断し、三権分立も議院内閣制も、議会制民主主義の鉄則さえ歯牙にもかけない言語道断の独裁者。この期に及んでその支持率があがるとは。この国はいま、常軌を逸しつつある。思考を停止し、集団的ヒステリーに逃避しようとしている。テレビを見ていると、個人崇拝の臭気さえただよってくるように感じます。
そして自分に従わない者は抹殺し、ひれ伏す者たちへの見せしめにする。最近は五、六年生でも、しっかりした小学生はニュースをよく見ています。六年生ならすでに日本史の知識もあります。批判者を弾圧する恐怖政治をまのあたりにして、「治安維持法が復活したみたいだね」と、唖然としています。こどもたちが見ていることを知ってのうえでの狼藉でしょうか。
森田さんも指摘されていた通り、一国の国政がひとりの指導者のパラノイア的迷妄によって暴走するこのありさまは、中国を十年におよぶ混乱に陥れた毛沢東の文化大革命にいよいよ似てきました。「自民党をぶっ壊すと絶叫する小泉総理は勇ましくて素敵!」と陶酔している街の人々の顔が、「毛主席万歳!」と熱狂し、毛沢東の権勢欲の道具にされ、挙げ句の果てに切り捨てられて悲惨な末路をたどった紅衛兵たちのそれに重なって見えます。
文化大革命の惨禍を体験した劉岸麗氏は『風雲北京』(河出書房新社)のなかでこう記しています。
「破壊者を王者にまつりあげた結果、エネルギーの使い方は建設的ではなく破壊のほうに向けられた。毛沢東がつぎつぎへと破壊のヒントを国民に与え、そのエネルギーの威力と成果を楽しんでいた。…彼は破壊のプロセスに大きな喜びを感じたのにちがいない。…毛沢東は、数億人の破壊願望に火をつけた。」
小泉総理に熱狂している人々は、ぶっ壊されるのが自民党や郵政事業にとどまらず、自分たちもふくめた国民生活そのものであることを、遠からず思い知らされるでしょう。
時代も体制も違う彼此の径庭を同列に論じられないと反発する人もいるかもしれません。しかし一九七〇年代から、激動の現代中国政治史を、息を呑む思いで見つめ続け、九〇年代初めに北京で三年間生活した経験のある私には、昨今の日本の状況に、中国のそれに似た剣呑なものを感じます。
中国は共産党一党独裁による全体主義国家であり、言論の自由がほとんどないことは誰しも認めるところです。人民日報も中央電視台も、中国共産党のプロパガンダ機関です。文革以来辛酸をなめてきた中国人民も無論、そんなことは百も承知です。だからこそ中国人は、決してマスメディアを信用しません。新聞の字面を鵜呑みにせず、行間にひそむ裏事情を必死に読みとろうとします。皮肉なことに、言論統制の恐ろしさを知り尽くしているからこそ、中国人はしたたかなメディア・リテラシーを体得しているのです。政治都市北京で暮らすなかで、私もずいぶんと教えられました。
私はむしろ日本人の方が、自国のマスメディアに対してナイーブなのではないかと危惧しています。日本ではなまじ言論の自由という建前が浸透しているだけに、逆説的ですが報道機関に対する警戒心が無さ過ぎるように思います。中国や北朝鮮と違って日本には言論の自由があるのだから、日本の報道機関は客観中立の立場から、世の中で起きていることをすべて自由に報道しているはずだという世界認識を捨てきれない人がまだまだ少なくないような気がします。
もちろん、ホリエモンに指摘されるまでもなく、現在はマスメディアを凌駕するほどインターネットが拡大しています。そこでは確かにマスメディアには流れない情報も入手でき、マスメディアの情報を相対化することもやろうと思えば可能です。しかしインターネットをショッピングや娯楽よりも、報道内容の検証や情報分析のために日々活用している、という一般市民ははたしてネット人口の何%ぐらいいるのでしょうか。ホリエモン自身、ネットビジネスでは「ニュースは買えばいい」とのたまっていました。大多数の庶民にとって、ニュースや情報の入手はまだまだマスメディアに依存せざるをえないのが実情ではないでしょうか。メディアの信頼性は依然として大きな問題です。
しかし日本のマスメディアには厳しい競争原理が貫徹しており、もし読者や視聴者の信頼を失ったり、報道で他社に抜かれたりすれば、たちまち発行部数や視聴率で負けてしまうから、市場原理によって信頼性は担保されていると楽観視する人もいます。
私自身、日本には言論操作など存在しない、一切が野放図なまでに自由放任されていることこそがむしろ問題だなどと、天真爛漫に思い込んでいた時期がありました。
しかしそんな私が震撼させられたのが、江藤淳の『閉ざされた言語空間』(文春文庫)という書物でした。江藤は米国の国立公文書館などの資料を渉猟して、占領期間中にGHQが言論統制を敷き、新聞、雑誌、出版、映画などの内容につき、米国やGHQへの批判をタブーとして極秘に検閲していた事実を初めて立証しました。
しかし江藤の業績は、自由と民主主義を標榜しながら陰では一切の批判を封殺していた米国の欺瞞性を暴き立てたことにとどまりません。江藤の功績の真の要諦は、日本が主権を回復し、GHQによる占領が終了した後も、日本の新聞各社の内部では、米国批判をタブーとする自主検閲が、いまもなお続けられている、と喝破した点にあります。「占領軍の検閲と戦後日本」という副題は、占領時代と現在との、語られざる連続性を示唆しているのです。
平成五年九月二十五日付の「文庫版へのあとがき」のなかで江藤淳はこう記しています。
「米占領軍の検閲に端を発する日本のジャーナリズムの隠微な自己検閲システムは、不思議なことに平成改元以来再び勢いを得はじめ、次第にまた猛威を振るいつつあるように見える。」
江藤がこのあとがきを書いた一年後、米国政府から最初の『年次改革要望書』が日本政府に提出されました。
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