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9.11解散同時多発テロ」の標的は、議員内閣制ツインタワー(衆院と参院)
http://www.asyura2.com/0505/senkyo11/msg/225.html
投稿者 すみちゃん 日時 2005 年 8 月 09 日 14:26:33: xnvpUXgHxuDw6
 

昨日転載した
http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50019566.html
のブログから、興味深い記事を転載します。

3部に分かれていましたが、ここにまとめました。

以下、全文が転載です。

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http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50020759.html


寄稿1・郵政解散への強烈な違和感−権力分散を否定する「独裁」への分岐点に立つ
by 真名


  私のような一般人が何か言っても無駄だし、忙しいんで放置するつもりだったんですが、ついここに違和感をコメントをしてしまいましたところ、何だかいろいろと関連エントリーを入れて頂きました。
 お忙しいところありがとうございました。

 そこで、私なりにまとまった考えを述べる必要というか義理がでてきたと考え、投稿します。

以下 文責・真名

(注意・なお真名さんの原稿がながすぎて、一度では掲載できませんので、2つにわけて掲載します)


 月曜日が参議院での法案採決ですが、もし否決されたら小泉首相は衆議院解散するでしょう。私はこれを疑ったことはありません。「造反派」にも先がなさそうだなあと思ってます。ちなみに亀井もキライなので誤解はなさらないように。

 これまで政治にあまり興味を持ったことがなく、テレビも見ない私ですが、しかし、今回の「郵政解散」には強烈な違和感を感じました。

 なぜ参議院での法案否決を理由として直ちに衆議院を解散できることを「自明の前提」としてメディアは報道しているのか?

 これは憲法に関する議論でずが、憲法に「のみ」関する議論ではありません。

 人類がこれまで築いてきた政治の本質、つまり「権力の分散による独裁出現の阻止」に深くかかわるお話であり、後世に日本国座礁への分岐点として指定されるおそれすらあると感じました。 これを自明の前提−既成事実として放置することはできません。

 従って、私は、純粋な法律論議ではなく、「統治についての基本的な考え方」に土俵を設定します。

 法律論議はその中に包括します。

(メディア報道への違和感)

昨日新聞を読んでみましたところ、今回のケースでさえも、内閣総理大臣に正当な衆議院解散権があることは自明の前提になっているようです。

私はこの前提が自明であるという国民的了解(?)に、うすら寒さを感じてなりません。

 そのうすら寒さは、「郵政民営化法案が妥当かどうか」という問題とは無関係です。

(衆議院解散の運用)

 戦後は、ほとんどの場合、衆議院の内閣不信任決議案の可決、信任決議案の否決とは無関係に、内閣が衆議院を解散してきました。

 これは「7条解散」と呼ばれているそうです。

(私の立場)

 法律家の立場では発言できません(そもそも法律を良く知らんので)が、以下の昭和28年の判決における真野毅裁判官の意見は、ほぼ同意できるものです。

 なんだ、もう私の代わりに言ってくれてるじゃん。心なしか名前も似てるような(笑)。

 そういうわけで、真野裁判官のコメントを引用しながら進めるつもりです。

http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50019568.html

S28.04.15 大法廷・判決 昭和27(マ)148 衆議院解散無効確認請求


(天皇の国事行為)

第七条

 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと。


 国事行為のうち、「栄典授与」「大使及び公使の接受」「儀式」は憲法に書かれていませんが、これは儀礼的なものだから書く必要がないのです。

 その他の行為は極めて重大な統治関連行為であり、内閣が司法や立法へと強く干渉するような事項、三権分立を脅かしかねないような行為です。

 従って、すべて、憲法に、内閣がとるべき手続きの規程および権原の規程が明記されているのです。 これを拡大解釈することは危険です。

 第七条にある「内閣の助言と承認により」という規定は、天皇の国事行為は内閣の管理下で行われなければならないということを意味しているだけです。

 内閣が勝手に憲法に明確な権原や手続きの規程のない7条行為を判断し、決定し、天皇の国事行為としてそれを行えるとしたら、戦前の輔弼や上奏と変わりはしません。

 それでは憲法に国事行為の権原や手続きが明記されている意味がどこにあるのか?

 真野裁判官は、更に詳しく法文解釈を行っています。


▼ 憲法七条は、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」と定め、その三号に「三 衆議院を解散すること」と規定している。この規定を根拠として、多くの者は、内閣は広く一般に衆議院を解散する権限を有すると解釈しようとしている。すなわち、政治的な当・不当は別として法律的・憲法的には内閣は、いつ何時でも、自由に、勝手放題に、衆議院を解散することを得るのであり、それで 適法・適憲であると解釈するのである(以下七条論者と略称する)。

この七条論者のような考え方は、結局誤りであるとわたくしは思う。

憲法一条は、日本国の主権は、日本国民に存し、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である旨を定め、三条には、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と定め、四条一項には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定している。

それ故、天皇が国事行為を行うには「内閣の助言と承認を必要とし」ていることは、四条ですでに確立された要件である。だから、七条で「内閣の助言と承認により」といつているのは、言わずもがなのことを念のために繰返しただたけのものである。いわば全くの蛇足である。これがなくても、七条の定めるところの国事行為に「内閣の助言と承認」が必要であることは、憲法の解釈上毛頭疑いがない。七条 で「国民のために」といつているのも、すでに一条で宣明された主権在民の考えを念のために一層明らかならしめたに過ぎないものである。これも、いわば盲腸的存在である。七条にこれがなくとも、同条の意義には格別の差異が生ずることはない。

かようにあつてもなくてもよいものを、活け花の場合のように剪り除いてしまうと、七条の真の姿は「天皇は左の国事に関する行為を行う」という純化した形になつてしまうのである。四条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」といつているから七条ではこれを受けて、天皇の行うことを得る国事に関する行為を列挙したものである。すなわち、七条は天皇の行う国事行為の種類を限定 したのに過ぎない。

したがつて、この七条は、内閣が衆議院を解散し得るかどうかの権限を定めたものでないことは、法文上極めて明白であるといわねばならぬ。▼


真野裁判官のいうとおりではないか?

7条のどこに、内閣による衆議院解散の権原,つまりその権力の源泉があるというのか?


こんなものを認めたら、戦前といったい何が違うというのか?


真野裁判官の言葉をつづけます。

▼ 七条論者は、七条三号により、天皇は「内閣の助言と承認により」「衆議院を解散すること」を行うのであるから、天皇に助言と承認を与える内閣は、実質的に衆議院を解散する権限を有すると主張している。

しかし、これは七条法文の字句の末節に拘泥し、憲法の大きな原理や、憲法の他の規定を、考慮しない独断的な見解である。

大体、前にもいつたように七条における「内閣の助言と承認により」という句は、なくもがなの蛇足に過ぎないのである。七条論者はこの蛇足に取りすがつて、内閣の衆議院解散権を導き出そうとしているが、その態度・方法がすでに根本的に誤つていると思う。だが、三条によつて、天皇のすべての国事行為には、内閣の助言と承認を必要とすることは疑いないし、四条によつて、天皇は、国政に関する権能 を有せず、ただ憲法に定める国事に関する行為のみを行うことは明らかである。したがつて、国政すなわち国の統治行為に関する権能は、天皇以外の国家機関に属することも明らかである。

国政は、国の政治の実質的・実体的のものであつて、直接間接に国民の利害得失に関することが多大であるから、それが三権分立と抑制均衡の憲法上の二大原則によつて、天皇以外のそれぞれの責任ある国家機関に分配されているのである。

これに反し、国事行為は、形式的・儀式的のものであつて、国民の利害に実質的な影響を及ぼすものでないから、日本国の象徴である天皇をして行わしめるとしたのが、四条の精神である。七条三号によつて天皇は、衆議院解散という実体的な国政を行うのではなく、ただ解散に関する形式的な儀式的な手続を行うだけのものである。しかも、天皇がこの国事行為を行うについても、「内閣の助言と承認を必要 とし」たのが三条の趣旨である。内閣の助言と承認は、天皇の行う国事行為に対するものであり、天皇の権能に属しない国政に対するものでないことは明らかである。また、三条によつて内閣が負う責任とは、天皇の行う国事行為に対する内閣の助言と承認に対して負うべき責任をいうのである。国事行為の実体である国政そのものに対する責任は、三権分立と抑制均衡の原則により、国政を行うそれぞれの国家機関が負うべきものである。それ故、内閣が天皇の行う国事行為に対し助言と承認を与えること又はこれについて責任を負うことを理由として、 衆議院の解散という実体的な国政について天皇ないし内閣に権限があると論ずる七条論者の主張は、全く根拠のない本末をわきまえざる議論である。もし、七条論者のように、七条で内閣が助言と承認を与えるから、国事行為の実体である国政の決定も内閣の権限に属するというならば、七条一号に定める憲法改正・法律の公布の実体たる憲法の改正や法律の制定も内閣の権限に属すると解釈できる不都合な結果を生ずるわけである。この一点からいつても七条論者の誤つていることは明らかであるということができる。

しからば、実体的な国政について、いかなる国家機関が権限を有するかは憲法全体の総考慮から判断すべき事柄である。▼

私が権原と書くところを、真野氏は「権限」と言っています。

しかし、私は、まさに権力の源泉の問題であると考えます。

「天皇の国事行為」条項に実体的な統治権力の源泉を求めることは根本的な誤りであると思う。

このへんは、昭和35年の最高裁判決も読んでも、どの裁判官も回答できていません。

もし可能なら答えなさい。 

なぜ天皇の国事行為条項に統治権力の源泉があるというのか? 

ふざけてはいけない。 


(憲法69条が衆議院解散の権原を示す条文)

7条3項の「衆議院解散」の権源は、69条に明記されています。

他の国事行為も同じです。

 国会は国権の最高機関(41条)であり、衆議院解散は、主権者である国民の代表の行政による解任です。

 こんな重大なことの権源を憲法に明記しないわけがありません。


(衆議院の内閣不信任)

 69条

▼内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。▼

第7条3項は、69条に基づき、内閣が衆議院の解散を選択したことを前提とする国事行為です。

その権力の源泉は、69条にあることは明白です。

69条から離れて7条3項に権力の源泉があるなどという主張は、デタラメとしか言えません。 天皇は実質的な反対はできないでしょうから、内閣が勝手に衆議院をいつでも解散できることになってしまいます。

今回はまさにそのような事態を招くものです。

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http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50021044.html

寄稿2
 本原稿は、

 寄稿1・郵政解散への強烈な違和感−権力分散を否定する「独裁」への分岐点に立つ by 真名

 の続きである。


(三権分立)

憲法の基本は、国会を国権の最高機関とし、議院内閣制、衆議院優位を基本とします。

もう一つ、立法・行政・司法の三権分立を基本とします。

そのために、チェックアンドバランス装置が張りめぐらされているのです。

国会は国民の選挙で選出された代表者の集まりです。

立法権をもち、内閣総理大臣を国会議員から選出し、予算を承認する権限を有しています。 さらに最高裁判事の任命権を通じて司法権にも影響力を行使します。


憲法第69条の手続きの起動は、「衆議院で不信任の決議案を可決」又は「信任の決議案否決」です。

これに対する「リアクション」として、内閣が衆議院解散と内閣総辞職との一方を選択するのです。

この条文の主題はあくまで「内閣の不信任」です。

内閣の不信任は、衆議院が選出した内閣総理大臣に対し、指名後に任にふさわしくないと判断したときや、政党の離合集散があったときに行われます。

議会が内閣を氏名するんですから、不信任後の手続きは総辞職だけというのが本来の姿です。

しかし、ここで、自分を指名した衆議院が辞任を求めた場合衆議院の勢力構成を変えて行政を継続できる可能性を内閣に与えたのが、69条の衆議院解散です。

この結果、衆議院は安易に内閣を不信任できなくなるわけで、チョックアンドバランス機構が働くのです。


(41条)

 よく読んでください。

▼国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。▼

国民主権を基礎に、国会議員が主権者である国民から直接選出される存在だから最高機関であわけです。

総理大臣は、国民から直接選出された存在では断じてありません。

 だから「最高機関」ではないのです。

これを内閣が、不信任なしに勝手に解散できるというのでは、「国会は国権の最高機関」とは言えません。三権分立原則を踏み外し、行政側へと大きくバランスを崩し,議院内閣制と三権分立制度の基礎を崩壊させかねない危険があります。

(解散権についての真野氏の叙述)

▼三権分立の原則から当然に、内閣にこの解散権が認められるというわけのものではない。なぜならば、解散権は、もとより三権分立の意義における行政権に属すべき性質のものではないからである。かように解散権は三権分立の原則には反するが、後に述べる国権の抑制均衡の原則から認められたものであることを先ず銘記べきである。そして、この場合の解散についても、憲法上解散し得るという法律問題と、政治的に見て現実の事態 が解散を適当とするか否かの政治問題は、厳格に区別して考察しなければならぬ。法律的に適法な解散であれば、裁判所における問題とはならないが、それがもし政治的に妥当でない場合には、国民に対し政治的責任を負うことは言うを待たない。すなわち、解散後の総選挙において主権者である国民が、十分批判し、自主的な投票を投ずることによつて正しい審判を下すわけである。▼

 衆議院の解散権は、本質的、理論的に、内閣にはありえないのです。

 これは上述の基本から当然、当たり前のことなんです。

 これを69条で認めているのは、三権分立原則によって議会の恣意や暴走を掣肘するための智恵であり、議会にも解任のリスクを追わせることによって行政への影響力が過大にならないようにするためのバランサーであったわけです。

 チェックアンドバランスについて真野氏の論述。

▼わが憲法は、三権分立と抑制均衡の二大原則の基盤の上に立つている。およそ立憲国における憲法は、一人又は一群の少数者が国家権力を掌握する独裁ないし専制政治を排除し、権力の不当独占ないし集中を阻止し、もつて国民の自由と基本的人権を擁護するために、統治権力を分割すると共に、この分割された権力をそれぞれ各独立の国家機関をして行使せしめる機構を定めているのである。

そして、通常統治権力を、統治作用の本質により、立法・司法・行政の三作用に分ち、立法権は立法府に、司法権は裁判所に、行政権は行政府に属するものとして、権力の分配を行つている。

わが国では一般にこれを三権分立と呼んでいる。

これと同時に、この統治作用の本質による三権の分立だけでは、とかく独立割拠の弊に陥り、国政の円満な運営は期待し難いという考慮の下に、各国家機関をして相互に他を抑制せしめ、各機関の間に権力の均衡を保たしめることを目的とする調整作用として抑制均衡(チェック・エンド・バランス)の制度を採り入れている。

例えば、本質的には立法権に属すべき法律制定及び本質的には行政権に属すべき行政処分について、違憲審査権が裁判所の権限に分配され、また逆に本質的には司法権に属すべき裁判官に対する弾劾裁判が国会の権限に分配され、一般に裁判官の任命が内閣の権限に分配されているがごときものである。

かくて憲法は、三権分立と抑制均衡の二大原則の交錯と調整の基礎の上に成立つている。

そして、三権分立によると抑制均衡によるとを問わず、憲法上一つの国家機関に分配賦与された権限は、その機関の活動し得る領域の範囲を画するものであつて、従つてこれはその機関の活動し得る積極的限界である。

この一つの国家機関の活動の積極的限界は、とりもなおさず同時に、他の国家機関の活動することを得ない消極的限界であつて、他の機関は恣にこの限界を超えて他の領域を侵犯することは許されない。かくて、憲法上分配された各国家機関の権限は、互に独立であつて、互に相侵すことのできないのが憲法の根本原理である。もし、一つの国家機関に分配された統治権力が、他の機関によつて随意に侵され得 るものとすれば、異る二つ以上の権力が同一機関の下に不当にかつ過度に集中することとなり、三権分立と抑制均衡によつて独裁ないし専制政治を排撃し、国民の自由と人権を擁護せんとする憲法の最大目的は、跡方もなく踏みにじられてしまうに至るであろう。▼


 従って、内閣による衆議院の解散権の規程は、「積極的限界」です。

ゆえに、69条の規程は、制限列挙であって、例示列挙ではありません。

百歩譲って拡大解釈するとしても、それは上述の原則に基づいて極めて慎重に行うべきなんです。


(69条との7条との関係)

少し重複になりますが、真野氏の論述をみてみましょう。

▼ 次に、抑制均衡の原則から眺めてみよう。

この見地からいつて、内閣は衆議院を解散する権限を有すると見得る憲法上の根拠があるであろうか。

この点が本問題の一番の急所であり、最も大事なキー・ポイントである。

憲法上行政権は内閣に属する(六五条)。言いかえれば、三権分立の原則により、内閣は行政権を行う権限を分配されている。この本質上の行政権のほかに、抑制均衡の原則により、内閣に賦与されている権限は、六条二項・六九条・七九条・八〇条等において特に定めるものを除き、概括的に七三条において規定されている。すなわち、七三条は、「内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ」と定め 、一号ないし五号の中には、別段この規定がなくとも行政権に属するものであるが、旧憲法において天皇の大権とされていた事項もあるから、念のため内閣の権限に属することを明確ならしめたのである。そして、六号には「政令を制定すること」、七号には「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること」を挙げている。政令を制定することは、本質上立法権に属し、大赦、特赦等の恩赦は本質上司法権に属すると見ることができるが、抑制均衡の原則によりこれを特に内閣の権限に属せしめたのである。

しかるに、重大な政治的・社会的意義を有する「衆議院を解散すること」については、七三条においては内閣の権限に属せしめられてはいない。

ただ僅かに六九条において内閣が衆議院を解散し得る場合のあることを定めているのみである。

それ故、抑制均衡の原則から言えば、衆議院を解散することは、六九条の場合を除き、内閣の権限に賦与されていないと論結しなければならぬ。

もし、七条論者のように天皇の国事に関する行為を列挙した七条三号に「衆議院を解散すること」とあるだけで、それが内閣の権限に属すると解すべきものだとするならば、七条六号に「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること」とあるだけで、同様にそれが内閣の権限に属すると解さるべき道理であり、果してしからば、七三条七号において「大赦、特赦、減刑、刑の執行免除及び復権を 決定すること」をわざわざ内閣の権限に属せしめる必要はないではないか。却つて逆に、内閣の権限とするためには七条六号だけでは事足りないから、七三条七号を設けたにかかわらず、七条三号だけで七三条中に何等の規定を設けていないのは、衆議院の解散は内閣の権限に属せしめられていない証拠となるのだ。この点からいつても、七条三号から内閣の権限を導き出すことはできないと言わねばならぬ。旧憲法時代には完全な三権の分立も認められておらず、天皇はいつでも議会を解散することを得たのだが(七条)、この惰勢から来る内閣は衆議院 を解散し得るという考え方は、新憲法の下では断然払拭しなければならない。▼

もう一度聞きたい。

7条のどこに「権源(権原)」があるというのでしょうか?


(独裁)

 チョックアンドバランスがなぜこうも強調されるのか?

それは法律論を超えて、独裁者の出現と災厄に悩んだ人類政治史の智恵に由来しています

現在の小泉首相がそうだと言いたいわけではありません。

しかし、今回の解散を強行するなら、独裁者候補と呼ばれてしかるべきです。

これも真野氏が書いてくれていました(笑)。

▼ わが国においても、また然りであつて、日常国民の直接に接触する統治権力の大部分は殆んど行政権である。

この行政権こそは、現代国家機構における巨大なレバィァザン的存在である。

わが憲法の行政権の実質的内容は、それ自体広汎強大なものである。この内閣の首班である内閣総理大臣は、国務大臣を任命し、また任意にこれを罷免することができる(六八条)。それ故、内閣は合議体ではあるが、実際においては閣僚に対し生殺与奪の権を握つている内閣総理大臣の独裁下にある。少くとも容易に独裁下におかれ得る。また最高裁判所裁判官及び下級裁判所裁判官の指名又は任命は、内閣 の権限に属する(六条、七九条、八〇)条)。その任命等につき国会・衆議院・参議院その他の同意を必要としない。(米国では連邦裁判官は大統領によつて任命されるが、上院の同意を要する。)

その上、七条論者のように内閣が任意に衆議院を解散する権限を有することを認めるならば、内閣の首班である内閣総理大臣は、衆議院に対しこの解散権をひらめかすことによつて、立法府に対しても非常に強大な支配力を及ぼし得る地位に立つことになるわけである。▼

小泉首相は、これをなんと参議院(笑)での議決に対して利用しているわけです。

これは非常にマズイ。 現行憲法の枠を超えて、人類の長年の智恵を踏みにじるような恐ろしい行為です。

▼元来国会は、主権者である国民の代表者の集合体であつて、当然国権の最高機関である(四一条)。これに反し、内閣総理大臣は、国会の議決で指名されるものであり(六七条)、内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負うべきものである(六六条)。そして、ここにいう「行政権の行使」とは、三権分立の原則によつて、本質上行政権に属するものの行使のみではなく、抑制均衡の原 則によつて、行政府に賦与された権限の行使をも含むことは言うを待たない。すなわち、内閣は、憲法上分配されたすべての権限の行使について、国会に対し責任を負うべきものであると言わねばならね。いわば国会ほ監督者であり、内閣は被監督者である。

この関係においては明らかに、国会は主であり、内閣は従である。国会は優位にあり、内閣は下位にある。

しかるに、七条論者のように、内閣は、法律上全く自由に、何時でも衆議院を解散することを得るものとするならば、責任を問われる地位にある内閣が、自己に対し責任を追及する立場にある衆議院を解散し、これを抹殺することによつて、法律上責任の追及を不当に免れ得る結果となる。これでは主従の地位の顛倒も甚だしいといわねばならぬ。それは、恰も債務者が、債権者の首をはねる権利をもつことを 、認めるに類する滑稽さがあるように思われる。非か。

わが憲法のごとく代表制民主制度の下において、主権者たる国民の代表の集合体である国会は、憲法の明文においても国権の最高機関であると謡われているにかかわらず、そして内閣の監督者としてその責任を追及することを得る地位にあるにかかわらず、国会の主要構成部分である衆議院が、被監督者である内閣の欲するがままに、法律上は、全く任意に、勝手気儘に、何時でも、拔打的・闇討的に解散され るというのでは、代表制民主政治は常に基盤がグラグラし、衆議院の生命は二六時中風前の燈火のごとく揺らゆらしている。こんな有様で内閣が活殺自在の劒を握つているようでは、どこに国会の独立と権威があるであろうか。

これでは、三権分立も、抑制均衡も、民主政治も、憲法の根柢も、皆共に支離滅裂し、瓦解してしまうではないか。▼


真野氏はもう存命ではないかもしれません。

私に向かって答えなさい。

これに答えることなく舞台の上で踊るものたちを、私は蔑すむ。

▼ 殷鑑遠からず、十数年前にある。

あえて、ヒトラーの国会解散の暴政の数々の例を引いて、論証する煩を重ねることを要しないであろう。

国会の弱体であるところに、独裁政治は常に頭をもたげて来る。独裁政治の行われるところ、国会はますます弱体化する。国会の強力なところに、民主政治は発達する。国会の強力こそは、独裁政治の出現を阻止する城壁である。

しかのみならず、民主政治における選挙は、機会均等を前提とする。すなわち、同等の立場に立つてフエア・プレイによつて投票の獲得を争うことを本義とする。しかるに、抜打解散では、政府与党は野党に比し、不当に有利な立場に立つことは明白である。かようなハンディキャップのついた条件の下に行われる選挙は、公正なものということができないばかりでなく、民意が真に正しく反映して表明される ことは不可能となるであろう。民意の真正に表明されない選挙によつては、ほんとうの民主政治は発達せず、美果を結ぶことはできない筈である。
 
さらに、七条論者の結論を採れば、前にいつたごとく憲法上内閣総理大臣は、行政府に対するばかりでなく、司法府に対しても、立法府に対しても、甚だしく強大な権力と影響力を及ぼし得ることとなるは必然である。かくては、内閣総理大臣という一人の具体的人格に過度の諸権力が、容易に集中し、その結果独裁ないし専制政治に陥り易きに至ることは、火を見るよりも明らかである。思つてもみるがいい 。冷静に、かつ虚心に。彼の太平洋戦争の苛烈な戦火の洗礼を受け、廃嘘のどん底に沈んだわが国民は、何物よりも独裁ないし専制政治の再現を、恐れかつ憎んでいるではないか。こういつた体験と環境と条件の下に出来た憲法を、前述のごとく成法上何ら確たる根拠もないのに、独裁ないし専制政治の再現を容易に招来することを許すような風に解釈せんとすることは、民主憲法制定の根本義を真に理解せざる近眼者流の論であると断言して憚らない。豊かな経験と高い識見を有する尾崎行雄氏は、憲法七条を解散の根拠とするようなことが行われるなら 、「すこし気の利いたものが出れば、たちまち北条・足利の時代が再現する」と卒直にキツパリ言い放つている(昭和二四年一月三日読売)。この言やよし。まことに事物の真を洞察した識者の至言である、とわたくしは思う。▼


最近、小泉首相が戦国時代への憧れを口にし、殺されて本望と叫ぶのは、非常に危険を感じます。 まさにこれではないでしょうか?


▼ なお、七条論者の中には、衆議院の多数派の支持を得ている内閣が、やつて行けなくなる場合もあるから、内閣は七条によつて衆議院を解散することができると主張する者もあるが、わたくしをして言わしむれば、その場合には、後に述べるように、国会で衆議院解散の決議をすればよいのである。

これから、逆に内閣による衆議院の解散権を認めようとするのは、論理の倒錯に陥つたとものというべきである。

また、七条論者の中には、衆議院が正しく国民の世論を代表することを総選挙によつて確認する必要の起きる場合には、内閣は衆議院を解散することができると主張する者があるが、これは全く解散の妥当性に関する政治論であつて、法律論としては、一顧の価値もないものである。▼


特に付け加えることはありません。


(参議院での議決)

上記したようなおかしな衆議院解散は、戦後、例外ではなく,通例でした。

これは掲示の二つの最高裁判決も影響しているのでしょう(苫米地訴訟)。

判決自体は「門前払い」なのでコメントする必要を認めません。

さっさと憲法裁判所を作れよ。

しかし、総理大臣は、本来、このようなカタチの解散は自重すべきであった,自明の前提として振りかざすべきではなかった、と私は思います。

しかし、今回のケースは、更に一層、根本的に道を踏み外しています。

参議院での法案否決を理由として衆議院を直ちに解散するということは、そしてその解散を衆議院議員、参議院議員への威迫として使用することは、上記した誤った権力の悪用であり、暴走です。

首相は、参議院での否決を「内閣への不信任とみなす」と述べているそうですが、参議院と衆議院とは性格の違うもので、参議院も衆議院に対するチェックアンドバランスとして設計されたものです。

参議院での法案否決は、衆議院での内閣への不信任(69条)であるわけがありません。

かりに不信任だと勝手に思うなら、総辞職すればよいことです。

もし衆議院をどうしても解散したいんなら、百歩譲って、参議院での否決後に衆議院に差し戻せばよい。

そうしたら法案否決になるから、そこで衆議院を解散すればよい。

ここが憲法を踏みにじらない最低限のラインです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50022144.html


寄稿3・「9.11解散同時多発テロ」の標的は、議員内閣制ツインタワー(衆院と参院) by 真名
  「郵政解散への強烈な違和感−権力分散を否定する「独裁」への分岐点に立つ」(寄稿1、2)の補足です。

文責・真名


ちなみに真名さんのブログは、

http://blog.livedoor.jp/manasan/

http://blog.livedoor.jp/manasan1/


(9.11)
日曜日の東京新聞1面で「総選挙9.11」という見出しをみまして、
ああ、やっぱり「ツインタワー 同時多発テロ」だったんだなあ、と感慨を新たにしました(笑)。

いや、半分本気です。
この種のシンボリズムは歴史の至るところに見いだすことができます。

寄稿1、2では、
7条(天皇の国事行為)条項を根拠として、主権者の代表である衆議院の解散権が69条とは独立して与えられているというのは根本的におかしいこと(国民主権および国権の最高機関規定の侵犯)

69条の趣旨は行政−立法権力相互間のチェックアンドバランスにあるが、それは例外を規定するものであって、69条以外に恣意的に衆議院解散権を認めるとすれば行政権力の肥大を招くこと(三権分立規範の侵犯)

について述べました。

7条解散が憲法学の通説らしいことは一応お断りしておきます。

しかし、7条解散論は論理的なものではなく、現状追認の臭いの強いものだと言っておきましょう。
法学では現状は大事なので、いちがいに否定できないことは了解していますが、その理論軽視、体系軽視のあいまいな姿勢が、今回のような破壊的事態を招いたことは指摘されなければなりません。
だから憲法には「歯止め」を明記してあったんだよ。

「現状」というのは、
戦後何回も7条解散が行われていることです。
吉田茂などは本会議を開かずに解散しちゃっています(笑)。


以上が本論です。
今回の郵政解散について検討するときにも、上の本論がまずあり、その上で今回の特異な問題点を洗い出すべきなのです。
従って、今回は補足的論議ということになります。 補足の方が長くなるかもしれません(笑)
補足ですので、論点をランダムに列挙する方式に変更します。


(天皇の国事行為の性格について)

「寄稿1」に明記してありますが、これらは天皇が内閣の管理下で国事行為を行うことを規定しており、天皇が勝手に国事行為をしてはいかんよ、という意味であり、だから「内閣の助言と承認により」と書かれているのです。
戦前と違い、国民主権になったからなんです。
そんなこと、常識だろ?

ところがこの文言から、なぜか3号の衆議院解散だけ、内閣の助言と承認により天皇が国事行為として行えるというように読んでいるわけです。
そんなの、屁理屈だろ?

そんなことを認めたら、天皇の国事行為の名の下に、内閣が立法権にどんどん介入できるだろ?

それを認めているのが7条解散なんです。

こんな規定が、内閣による立法府=国権の最高機関の解散、国民の代表の解任の根拠になるわけありません。
憲法の理念と全体構造を見れば明らかではないか?

それを法文上の根拠のない、理論的な根拠もない、あやふやな理屈で正当化(追認だね)しているのが現状です。
そういう危ないことをやっていたから、今回の事態を招いたんです。

それなら、7条の他の条項はどうなんでしょうか?
儀礼的なものを取除きましょう。


▼天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。▼


内閣が天皇に助言と承認とを与えて法律を公布したらどうするんだい(笑)。
国事行為だからオーケーなんだろ?
裁判所は統治行為は裁かないんだろ?

なぜダメなんですか? 行政による立法権の行使で、三権分立に反するからだろ?
憲法に立法府の権限について規定があるからだろ?

こういうと物凄く突飛でしょう?

じゃあなんで衆議院解散だけは、憲法に内閣への権原付与の規定がなくとも、やっていいんだい?
もっとも激しい立法権への介入じゃないのかな?
なにしろ法案に賛成しないとクビになるんだからね。

単に「慣れてしまった」ので正常に見えているだけなんですよ。
何せこれを始めたのが保守本流?の吉田茂だから、一見正常に見えるんです。
それはただの錯覚なんです。


▼八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。▼

天皇への助言と承認を通じて、内閣が外交文書をどんどん認証したらどうなる?
(以下略)


6号は恩赦の規定です。 司法権への介入です。
だから天皇が勝手にやってはいかんという意味で、7条に規定されているんですよ。

冗談に聞こえるでしょうが、七条の規定は、それだけ重みのあるものです。
これらは勝手にやってはいけないよ、という意味で7条に集められているわけです。

憲法において、議会(衆議院と参議院の関係を含む)、内閣についての規定は具体的、特にその権原についての規定は具体的であり、その相互交渉(チェックアンドバランス)についての規定も具体的です。
憲法にはあいまい規定も多いのですが、議会や内閣といった基本装置の規定は具体的に行われている。
日付や割合(分数)の数字がきちんと入っているでしょう?
それは権力の分散がいかに歴史的に困難であったかという苦い歴史から得られた知恵なのです。

それじゃこちらも参考に。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ginnnaikakusei.htm
▼ 明治憲法下の内閣は天皇を輔弼(ほひつ=天皇の政治〔統治権の行使〕をたすける〔助言する〕こと)するものであり,天皇に対して責任を取る制度であったため,軍部との衝突等で政治に行き詰まると首相から総辞職する例が多く見られた。
 しかし,現行憲法下の総理大臣は内閣の首長として幅広い権限,特に国務大臣の任免権は,閣議にかける必要がないことから,形の上での首相は,ワンマン的性格をもっている。▼

7条にいう「内閣の助言」は輔弼(ほひつ)に似てるでしょう?
実際問題として、これを「裏口」から忍び込ませたものが7条解散です。

こんなの「天皇の政治利用」だろ? 世が世なら不敬罪だろ(笑)。
天皇陛下に失礼だとは思わないのか?って、半分本気でそう思ってます。


(7条解散説の問題点の簡単なまとめ)
 根本的に、天皇の行為権限、それに関する内閣との関係を定めた7条から内閣の権原を導出する根拠がない、というのが正解です。
 その他は枝葉末節的なお話です。

 内閣不信任決議可決、信任決議否決以外の場合には、内閣は衆議院を解散できないことが不当である、あるいは民主的ではない、あるいは国民の意思を反映しないといった種類の議論はかなり問題のあるものです。
 上への回答がないからです。

 また、議会と内閣との関係について内閣に有利なように明文のない状況まで解散権を広げて解釈していくとき、歯止めは必ず失われます。
 なぜなら、憲法学者は客観的な歯止めを明確に、事前に指定することができないからです。 それはあやふやな「条理解釈的制約」でしかありません。 
 それを悪用されたのが今回の事態です。

 7条解散説に依拠していた学者は、小泉首相の解散も正当なものとして憲法体系の中に論理的に位置づける責任があります。
もし可能ならやってみなさい。 無理だと思いますが。


(過去の7条解散と運用)
世の中には7条解散という妖怪が、正当なものとして跋扈しているわけですから、百歩譲って検討してあげましょう。

戦後から今日まで21回の総選挙が行われてきましたが、「衆院可決法案の参院否決による衆院解散事例」はなどありません。
いくら何でもそんなデタラメな運用はされていません。

7条解散正当化説ですらも、解散には合理的な理由を必要とします。

普通は、衆議院で重要法案が否決され、実質的に不信任決議案が可決されたと同様であると考えられる場合です。
また、バカヤロー解散とか、神の国解散とかのように、首相の失言などで国会が機能麻痺に陥った場合が考えられます。
更に、政権与党の構成ががらっと変わってしまったとか、野党がくっついて突然与党より大きくなっちゃったとかの場合も、衆議院の構成と内閣の構成とを合わせる意味で解散は考えられるかもしれません。
この場合も本当は不信任決議を出すべきなんですが。

いずれの場合も、不信任案可決に近い状況であり、かつ衆議院であることが要件です。

当たり前でしょう?
議院内閣制なんですよ。

議院内閣制は,内閣の存立が下院=衆議院の信任を必須要件としている制度です。
衆議院における多数党によって内閣を組織し,内閣は議会に対し連帯して責任を負う制度です。

日本では「国権の最高機関」である国会により指名された内閣総理大臣(首相)をトップに,内閣総理大臣に任命された国務大臣で組織される内閣が,連帯して国会に青任を負うことになっています。

この議会における多数は当然衆議院多数勢力の首班です。
議院内閣制は、衆議院の優位、そして内閣と衆議院との間のチェックアンドバランスを基本としています。

だから、内閣と衆議院との間で上記のような不均衡が発生することが、7条解散という妖怪(笑)の要件として必要です。


(参議院での否決を原因とする衆議院の解散)

もはや結論は明らかです。
戦後、「参院否決即衆院解散なる59条2項解散」はありません。
吉田茂ですらも驚いて墓から起き上がってくることでしょう。

関連条文はこれです。


第59条2項
▼衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる▼


これは、「衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案」で、衆議院に戻しても可決見込みのない場合には廃案になるということです。

「衆議院で可決し、参議院で否決された場合、首相は衆院解散を行うことができる」とは書かれていません。


そこで、妖怪(私もしつこいね)である7条解散に該当するかどうかを考えてみましょう。

まずそんな重要法案なのか?
国民の関心は薄いです。
当面の国民の関心は、景気、国債問題、中国、北朝鮮などのアジア政治問題でしょう。
小泉政権はこれらをすべて大きく悪化させました。
国民は郵便事業の民営化などに大きな関心を持ってはいません。
重要だと力んでいるのは首相だけです。

次に、この否決が内閣不信任に当たるような問題なのかも疑問です。
小泉首相は郵政民営化の公約を評価されて当選したとはとても思えません。
改革を行うという一般的スローガンをもって当選したわけです。

最後に、最も決定的な参議院での否決即解散という問題があります。

参院で否決の場合には、衆院に差し戻し、そこで69条あるいは7条で解散ということにするべきでしょう。
それしか方法はないはずです。

衆院解散は、本来、内閣が受けて立つもので、内閣から仕掛けるのは間違いです。
これは69条の規程ぶりから明らかです(寄稿2参照)。

更に根本的な問題点があります。

衆議院で法案が可決されていますから、内閣と衆議院との間に対立がない、ということです。
意思が一致しているのです。
こんなの当たり前です。 議院内閣制の説明をお読み下さい。
これで衆議院を解散できるワケがない。

解散の意義は、民意を問うことです。
衆議院を解散して総選挙をしたら、衆議院の勢力分布が変わります。
しかし、法案を否決した参議院議員の勢力分布は変わりません。
この条件で、際議員での否決を根拠として、衆議院を解散し、その勢力分布を変えようとすることは、とんでもない違法行為です。

参議院で否決した場合には、衆議院で再議決(3分の2以上多数が必要)を行うべきなんです(59条2項)。
この条文を無視していることは深刻な間違いです。 違憲です。

衆議院に戻しても2/3はとれないから廃案イコール衆議院否決と同じだろうという議論はあり得ます。

チェックアンドバランスとは,手続きの規程です。
手続きとは政治的意思決定を産出する政治プロセスです。
今回の場合、59条2項の手続きを無視することは違憲です。

また、衆議院への差し戻し後に衆議院解散−これは大変でしょう?無駄でしょう?
だから内閣が安易に衆議院議員を解職して攻撃できないようにチェックアンドバランスが働き、もともと妖怪であって乱用されやすい7条解散に歯止めがかかるのです。

確かに現在の情勢では衆議院で2/3をとることは難しいかもしれません。
しかしそれは「政治的情勢分析」です。 憲法の本質と論理体系を見過ごしています。

理論的にはですが、参議院で大きく修正して衆議院で可決という可能性もあるわけです。
上記した59(2)の手続きは、このような方向へと法案のカタチを変更する(妥協を促す)駆動因子ともなるように、設計されているわけです。

このあたりの憲法の慎重なチェックアンドバランスを無視して、現在の情勢では衆議院に差し戻しても可決されない、などと言うのは、とてもついていけません。


(専権的解散権)
小泉首相は、「専権的解散権」なんて言ってるそうなんです。
これには心底驚きました。

これを認めたら、審議結果が気に入るまで乱用されるようになります。
首相が気に入る結論しか出せなくなりそうです。
審議が尽くされなくなります。
良心に従った投票ができなくなります。

憲法の規程はまさにこの事態をおそれているがために、慎重に設計されているのです。

これは「狂人に刃物」であると断定します。


(無法)
 憲法第99条
 
 ▲天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ▲

 首相自ら、国会議員自ら、憲法を守らないでどうするんだい?
 百歩譲っても「裏口」から泥棒のように入ってきてどうするんだい?
 首相に憲法を擁護する姿勢がどこにあるというのか?
 それでどうやって国民に遵法を説けるんだい?
 誰も聞くヤツはいなくなるぞ。
 無法時代の幕を開きますよ。


(自民党総裁による公認権)

選挙での公認。 これほど大きな縛りはありません。
小泉首相は、選挙での公認権による脅しも、活発な審議を封ずる目的で活用しました。

公認権と専権的解散権−こんなものの乱用を認めたら最後、議会は死んでしまいます。
まだこの程度のことがわからない人が多いことにも、驚きを禁じ得ません。

これは、汚職とも、国費乱費とも、郵便事業の処置とも、まったく次元の違う根本的な誤りです。

それは、近未来に、国を、国民を滅ぼすような馬鹿げた政策決定に対する議会の麻痺的是認や白痴的追認として、我々を襲撃する可能性があります。

クオ・ヴァディス


(独裁)

真野裁判官の言葉をもう一度聞きましょう。

▼わが憲法のごとく代表制民主制度の下において、主権者たる国民の代表の集合体である国会は、憲法の明文においても国権の最高機関であると謡われているにかかわらず、そして内閣の監督者としてその責任を追及することを得る地位にあるにかかわらず、国会の主要構成部分である衆議院が、被監督者である内閣の欲するがままに、法律上は、全く任意に、勝手気儘に、何時でも、拔打的・闇討的に解散されるというのでは、代表制民主政治は常に基盤がグラグラし、衆議院の生命は二六時中風前の燈火のごとく揺らゆらしている。

こんな有様で内閣が活殺自在の劒を握つているようでは、どこに国会の独立と権威があるであろうか。


これでは、三権分立も、抑制均衡も、民主政治も、憲法の根柢も、皆共に支離滅裂し、瓦解してしまうではないか。

殷鑑遠からず、十数年前にある。

あえて、ヒトラーの国会解散の暴政の数々の例を引いて、論証する煩を重ねることを要しないであろう。

国会の弱体であるところに、独裁政治は常に頭をもたげて来る。独裁政治の行われるところ、国会はますます弱体化する。

国会の強力なところに、民主政治は発達する。国会の強力こそは、独裁政治の出現を阻止する城壁である。

しかのみならず、民主政治における選挙は、機会均等を前提とする。すなわち、同等の立場に立つてフエア・プレイによつて投票の獲得を争うことを本義とする。

しかるに、抜打解散では、政府与党は野党に比し、不当に有利な立場に立つことは明白である。かようなハンディキャップのついた条件の下に行われる選挙は、公正なものということができないばかりでなく、民意が真に正しく反映して表明されることは不可能となるであろう。民意の真正に表明されない選挙によつては、ほんとうの民主政治は発達せず、美果を結ぶことはできない筈である。

 さらに、七条論者の結論を採れば、前にいつたごとく憲法上内閣総理大臣は、行政府に対するばかりでなく、司法府に対しても、立法府に対しても、甚だしく強大な権力と影響力を及ぼし得ることとなるは必然である。
かくては、内閣総理大臣という一人の具体的人格に過度の諸権力が、容易に集中し、その結果独裁ないし専制政治に陥り易きに至ることは、火を見るよりも明らかである。

思つてもみるがいい。
冷静に、かつ虚心に。

彼の太平洋戦争の苛烈な戦火の洗礼を受け、廃嘘のどん底に沈んだわが国民は、何物よりも独裁ないし専制政治の再現を、恐れかつ憎んでいるではないか。こういつた体験と環境と条件の下に出来た憲法を、前述のごとく成法上何ら確たる根拠もないのに、独裁ないし専制政治の再現を容易に招来することを許すような風に解釈せんとすることは、民主憲法制定の根本義を真に理解せざる近眼者流の論であると断言して憚らない。

豊かな経験と高い識見を有する尾崎行雄氏は、憲法七条を解散の根拠とするようなことが行われるなら、「すこし気の利いたものが出れば、たちまち北条・足利の時代が再現する」と卒直にキツパリ言い放つている(昭和二四年一月三日読売)。この言やよし。まことに事物の真を洞察した識者の至言である、とわたくしは思う。▼


真野判事。
参議院での1法案否決を理由とする衆議院の解散
それとリンクした公認権の乱用

日本の議会は9.11テロリストの破壊行為によって、形骸化し、いままさに終焉を迎えつつあります。
国民は近未来にその結末を見るでしょう。

終わり

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