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『月刊現代』2005年3月号
「無断録音テープ流出問題」の元朝日記者が沈黙を破る
事実か倫理か NHK vs. 朝日 取材をめぐる「不毛な論議」
辰濃 哲郎(ジャーナリスト)
昨年8月、私が朝日新聞社を退社させられた「あの問題」が、こんな余波を生んでいるのだとしたら、何ともやりきれない。
従軍慰安婦問題を取り上げたNHKの番組が安倍晋三・現自民党幹事長代理(当時官房副長官)ら政治家の圧力を受けて改変された、と報ずる朝日新聞の記事が掲載されたのは1月12日付の朝刊。これをきっかけに始まった「NHK vs. 朝日」の対立は、抗議、抗議の応酬で、どうも論議が本質からずれていっているような気がしてならない。お互い手の内を探り合いながら、組織を守ることに腐心するあまり、事実の重みが置き去りにされている。
朝日新聞は、「政治家の圧力によって番組が改変された」との告発者の話をきっかけに取材をスタートさせたと思われる。だが、この告発だけで記事が書けるわけではない。この情報をどう裏付けるかが勝負になる。今回のケースでは、証拠(ブツ)で裏付けるのは不可能に近い。NHK内部で「政治家の圧力」を文書で残すとは思えないからだ。あったとしても、ごく限られた幹部しか知らないはずだ。だとすると、当事者の証言に頼らざるを得なくなる。
朝日新聞は定石通りに、事実を直接に知る当事者たちに取材をかけた。しかも、当事者同士の証言のすり合わせができないように、時間をおかずに当たっているはずだ。こういった重大局面で相手を追及する取材の場合、録音テープが不可欠だと私は考える。
その理由はこうだ。[1]当事者が、証言内容を覆すことを、私自身が何度となく経験していること、[2]「言った」「言わない」の水掛け論になる可能性があること、[3]相手を追及する取材の場合、相手の出方を見極めながら次の質問を考えるなどの余裕がないため、ノートに一言一句記すことは困難だということ、[4]なにより、訴えられたとき、記者が自分を守る最後の手段になること。
今回の番組改変問題の取材で、録音がなされていたのかどうかは定かではない。だが、このテープの存在が、ねじれた形で駆け引きに使われている。
「あの問題」がNHK、朝日の双方に尾を引いているのだ。
私の「無断録音」問題
昨年8月5日。私は、朝日新聞社から退社処分を受けた。その理由は、私立医科大学の補助金不正流用問題をめぐる元教授への取材で、拒否されたにもかかわらず録音し、そのテープを裏付けをとるために第三者に渡したが、そのテープが後に怪文書となって関係者にまかれたことに対する責任をとる、というものだ。朝日新聞は、私を退社処分としたが、詳しい経過については公表しなかった。
事の真相はこうだ。
昨年4月30日、私は同僚記者とともに、その元教授に会った。場所はホテルの喫茶室。私たちは、冒頭、会話を録音することを提案した。しかし、弁護士が同席していないとの理由で、やんわりと拒否された。しかし、私はかばんの中でテープを回し続けていた。
元教授への取材は、このときで4回目だった。別の補助金の不正流用疑惑の内部告発の情報をもとに、当事者であるこの元教授に初めて会ったのは、その年の3月24日だった。弁護士が同席のもと、双方で録音することに合意して取材は始まった。1回目の取材だけで7時間以上に及んだ。
その半ばでの出来事だ。元教授が、分厚い資料を机の上に置いた。文部科学省からもらっていた補助金の一部を、元教授が知らないうちに大学事務当局が不正にプールしていた証拠の資料という。
厚さ10cmあろうかというその資料に、思わず手を伸ばしかけた。一緒に取材をしていた同僚も身を乗り出す。一人の元教授の不正よりも、大学組織ぐるみの不正のほうがニュースの価値として高いことは明らかだ。のどから手が出るほど欲しい資料だった。だが、私は、資料を閲覧することさえ拒否した。とっさの感覚的な判断だった。
この判断が正しかったかどうかはわからない。だが、事前の取材で、この元教授が、不正プールにもかかわっている可能性があったのだ。自分が文科省からもらっている補助金のうち数千万円が、知らないうちに大学当局によって不正にプールされたとは、考えにくかった。
この資料を受け取ってしまえば、私たちが当初から追及してきた別の補助金不正流用疑惑とのバーターと受け取られかねない。さらには、元教授の好意に甘えて資料を受け取ったとしても、手のひらを返したように「あなたが関与していたはずだ」と追及しなければならなくなる可能性が十分に予想された。ある意味でだまし討ちと受け取られかねない取材は避けたかったというのが本音だった。
2回目、3回目の取材でも、不正プールを示す資料の話題が出たが、最終的には資料はもらわなかった。
結果的には、このことが仇になた。その後、資料は読売新聞に流れたのだ。そのことを知った私たちは、ただ指をくわえて見ているしかなかった。
大型連休前の4月30日、読売新聞は朝刊1面と社会面で「補助金不正プール 1950万円返還せず 余った研究費、使用装う」「組織ぐるみの疑い」と報じた。完全な「抜かれ」である。取材記者としての建前を通したうえでの敗北なら仕方がない。そう自分を納得させざるを得なかった。すぐに元教授に電話で会う約束を取り付けた。
その日の午後、約束場所であるホテルのロビーに入る前、私はいつもの通りにかばんの中にある録音機をセットした。喫茶室で元教授と向かい合った私たちは、読売新聞に掲載された記事の事実を一つひとつ確認しながら説明を受けた。3月の取材では、疑惑を追及する相手だったのが、今度は協力を仰ぐ形になっていた。
しかし、私の取材目的は、あくまで、その元教授が、読売新聞が報じた不正プールにかかわっていたかどうかを追及することにあった。録音機をそのまま回し続けたのは、彼はあくまで追及すべき取材対象者で、取材源とは考えていなかったからだ。
なぜ録音するのか
取材は長時間に及んだため、途中で私のかばんの中のテープが切れそうになっていることに気づいた。隣に座る同僚に、携帯でメールを送った。
「録音は大丈夫か?」
机の下でメールをみた同僚が、黙って首を縦に振った。
そこまで念を入れたのには理由がある。苦い経験があったからだ。
だいぶ以前のことなのだが、ある病院の不正疑惑を追及しているときだ。病院の当事者からの取材は数時間に及び、医師は「申し訳なかった」と頭を下げた。完全に疑惑を認めた。しかし数日後、その医師は証言を完全に覆したうえ、朝日新聞に対して文書で抗議をしてきたのだ。もちろんテープはセットしていた。だが、マイクを挿入するジャックを間違えたため、一言も録音できていなかった。
抗議に対する対応策を検討するために開かれた朝日社内の会議で、社の顧問弁護士に「テープは?」と問われた。
「すみません、録れていませんでした」
と頭を下げる私。もちろんノートには取材内容が記されていたが、事実をありのまま記録したテープに勝る証拠はない。会議の席上、上司に「初歩的なミスだな」と叱責を受けたのを覚えている。
元教授との取材に話を戻そう。私の最大のミスは、そのテープを、第三者に渡してしまったことだろう。その理由については関係者に迷惑がかかるため別の機会に譲るが、いま言えるのは、裏付け取材として、テープがどうしても必要だったということだけだ。しかし、結果として、このテープが数ヵ月後、怪文書になって流れてしまった。元教授や、取材に同席していた元教授の元部下を誹謗中傷する内容で、二人には多大なる迷惑をおかけした。
抗議を受けた朝日は、早々に私を退職処分にする方向を打ち出した。私には処分に抗議する気持ちはまったくなかった。これまでの人生の中で、こんなに辛かった出来事はないだろう。だが、私が渡した録音テープが、他人を傷つけてしまう結果となったのは紛れもない事実なのだ。結果責任として処分を受け入れるのは当然だと考えた。それが、元教授たちに対する責任の取り方だと思ったからだ。だから、いまでも朝日新聞に敵対する感情は持っていない。
無断録音の是非
私がこだわったのは、取材手法の問題だ。とくに無断録音の是非だった。私は、無断録音を処分理由に入れた場合、調査報道が事実上できなくなることを懸念した。調査報道に携わったことのある記者であれば、これがどれだけ深い意味を持つかがわかるはずだ。
処分当初、私の上司から無断録音は処分理由に入っていないと告げられていた。だが、その後の朝日新聞の報道によると、「改めて記者倫理を徹底します」と題して「録音流出の経緯と本社の対応」を説明した記事では、「録音は相手の了解を得るのが原則であり、取材相手との信頼関係を損なうことがあってはならない」(04年8月7日付)と断じている。社説でも「信義に反する」と切り捨てている。私の処分を報じた他紙やNHKを含む各局も無断録音を批判的に取り上げていた。
第三者に渡したテープが怪文書になって流れた結果、人を傷つけたことは処分に値するという点では私も異論はない。だが、無断録音については「だめだ」と言い切ってしまってよいのだろうか。
繰り返しになるが、疑惑の当事者への取材は、証言を覆すことがあることを前提に考えたほうがよい。完全に認めていた疑惑を、記事掲載後に覆されたとき、私たち取材者はどうしたらよいのか。ノートに頼るしかない。しかし、追及取材の場で、めまぐるしく変わる状況に対応していくので精一杯で、一字一句間違いのない記述を残すことは困難だ。
証言のニュアンスが重要な意味を持つことも多い。「だったかもなあ」「そう言ったようた気がする」と、曖昧なニュアンスをノートに書き込む場合、余裕のない取材現場では、「だった」「そう言った」と断定的に記す場合が少なくない。語尾まではっきりと再現できるのは録音しかないのだ。
相手がのらりくらりとはぐらかし、話が微妙に食い違っていくことも少なくない。テープを聞き直してみて、「ああ、こんなことを言っていたんだ」と新たな発見をすることもある。なによりも、相手が訴えてきたとき、記者を守る最大の武器がテープなのである。「食うか食われるか」の勝負をしている記者にとって、事実が記録されたテープは、いわば命綱なのだ。
私の処分後、録音についての是非は私の所属していた社会部内でも、他の部でも議論されたらしい。だが、その場でも、社の幹部は「無断録音は個人の責任」であることを繰り返したという。
昨年12月、私の処分を受けて、朝日新聞労組が主催する非公式の勉強会が開かれた。約40分にわたって私の口から経過を説明した。
多くの仲間が、調査報道には録音が必要だと感じ、無断録音について、「ノー」とする社の方針に疑問を持っていることがわかった。「無断」がだめなら、私のように断って拒否されたらどうするか。「だったら初めから無断で録音するしかない」という矛盾に満ちた取材を強いられることに、多くが危機感を抱いた。
取材倫理を逆手に取られた朝日
私はこれまで、自分の問題について、外部に向かって発言したことはない。どう書いても話しても、言い訳にしかならないことを知っていたからだ。だが、今回のNHK番組改変問題で、杞憂が現実のものとなってしまったのをみて、初めてペンをとった。
朝日新聞記者が、番組改変当時のNHK放送総局長だった松尾武・現NHK出版社長の自宅を訪ねたとき、松尾氏はノートをとることを拒否したという。このとき朝日記者が録音をしていたかどうかはわからない。だが、もし録音していたとしたら、私は拍手を送りたい。無断録音は「個人の責任」とされながら、あえて録音した勇気に対してだ。
朝日新聞は、社としてテープがあるかないかについて、厳重な口令を敷いているらしい。これは、私の問題があったからなのか、それとも手の内を見せたくなかったからなのかはわからない。
だが、「無断録音はだめ」と言い切ってしまった朝日は、事実を証明できる最も大切な命綱をあのとき、手放してしまっていたのだ。
一方のNHKは、21日付で朝日新聞に対して、18項目からなる公開質問状を送付した。そこに私の問題が取り上げられている。
「松尾元放送総局長への取材を録音したテープはあるのですか」という第15項目の質問に続いて、こんなくだりがある。
「去年8月に明らかになった、御社記者が起こした『無断録音テープ流出問題』についての御社見解によれば、『取材内容の録音は相手の了解を得るのが原則であり、取材相手との信頼関係を損なうことがあってはならない』としています。御社記者は、松尾元放送総局長に取材した際に録音する許可を得ていませんでしたので、仮に録音テープがあるのであれば、御社見解に照らした場合、取材倫理に反する行為にあたると考えますがいかがでしょうか」
朝日新聞が「無断録音はだめ」としたことを逆手に取って、テープを録っていても出せないよう、先手を打っているようにも読める。
報道の根幹にかかわる問題
事実の重みこそが問われるべき今回の問題で、テープがあるとしたら、これ以上に事実を確認できる材料はないはずだ。「テープを公開してください」ならまだわかる。しかし、その倫理性を問うのは、事実を追及する同じマスコミとは思えない。NHKは、テープが公表されたら困ることでもあるのだろうか。
NHKにいる友人たちの顔が浮かぶ。彼らが取材に当たるとき、無断録音は当然していた。事実に迫ろうと、もがきながらいくつもの壁を乗り越えていく。事実を証明できる録音を取り上げられたとき、苦しむのはNHKの幹部ではない。一線でがんばっている記者たちであることを忘れないでほしい。
マスコミにとって無断録音を「だめ」と決めつけてしまうことは、記者の手足を縛って調査報道に駆り立てるようなものだ。自殺行為に等しい。
もちろんテープ取材には欠点もある。相手にテープを録っていることがわかると、良好な関係を保っている場合でも、信頼関係を損なう恐れがある。テープで録音していることを知るや否や、証言をやめてしまう取材対象者さえいる。
なにも、すべての取材で無断録音が許されるとは私も考えていない。ただ、敵対する、追及すべき相手と向かい合うとき、録音は必要だと考える。
いまからでも遅くはない。朝日新聞は、もし録音していたのであれば、紙面でテープの内容を公表すべきだし、事実を突きつけていく必要がある。
国民が一番知りたいのは、当事者たちが取材に対して何を証言したか、の詳細な事実だ。NHKも、無断録音の倫理を問うのではなく、事実を見極めるためにも、テープの提出を受けて確認するくらいの度量が必要だ。
調査報道が停滞することで失われる国民の権利は計り知れない。決着は法廷に持ち込まれる公算が大きい。報道の根幹にかかわる問題を自分たちで解決できないのは情けない。
「抗議」の応酬の陰で笑っている政治家がいるはずだ。
「不正追及のためには、配慮しながら、無断録音をすることもあります」
朝日もNHKも、こう宣言すべき時期が来ている。報道としての使命を果たすためであれば、国民の理解を得られると、私は思う。
たつの・てつろう
1957年生まれ。慶応義塾大学卒業後、朝日新聞に入社。旧厚生省汚職や医療取材でスクープをものにした。退社後フリーに。
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