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東條英機がA級戦犯に値するのか?
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東條英機(1884年12月30日〜1948年12月23日)。日本帝国陸軍軍人、政治家。陸軍中将東條英教の長男として東京に生まれる。学習院、府立4中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校17期、陸軍大学校を卒業。統制派。メモ魔で、「努力即権威」が座右の銘。軍人というより役人と言った方が本質に近い。
1928年陸軍省にはいり、永田鉄山の陸軍統制強化論に影響をうけ、統制派の一員となる。満州事変(1931年)時は、皇道派全盛時代で、統制派永田鉄山の配下であった東条は軍中枢から遠ざけられていたため、満州事変には関与できなかった。この時期こそ、満州国の成立(1932年)、国連脱退(1933年)が行われた時期で、政治の主導権を軍が握り、大東亜戦争への道を進み始めた時である。
二・二六事件(1936年)で陸軍の皇道派は勢力を落とし、統制派の政治的発言権が増すようになり、東条英機も表舞台へと出てくる。1935年関東軍憲兵司令官。1937年関東軍参謀長。1938年陸軍次官。第2次・第3次近衛文麿内閣の陸相時代には、日独伊三国同盟の締結や武力南進政策を決定するなど、日米開戦をさけようとする近衛首相に反対して内閣を総辞職においこんだ。
天皇の側近であった木戸幸一らは、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向にそうには、対米強硬派であると共に天皇に対する忠誠心の厚い東條英機本人を首相にすえるしかないと考え、1941年10月16日に近衛内閣が総辞職すると東條英機は皇族内閣を主張した。しかし、木戸内大臣は、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向にそうには、対米強硬派であると共に天皇に対する忠誠心の厚い東條英機本人を首相にすえるしかないと考え、陸軍強硬派を抑えられる人物として東條英機自身を首相に推挙したため、第40代内閣総理大臣に起用され、陸軍大臣を兼任、のち参謀総長も兼務した。
東條英機は、天皇の意向を踏まえ、対米戦を回避するために奔走する。しかし、アメリカからハル・ノートをつきつけられて、ハル・ノートは日本に対し全面的屈服を迫るものと解釈された。従って、我が国政府軍部首脳は自衛上戦争する外ないとの意見に一致した。日米開戦日の深夜、和平を熱望していた昭和天皇の期待に答えることができなく、懺悔の念に耐え切れなく東條英機が号泣した逸話は有名である。
その後、東條英機は強権をふるった。自分に批判的な記事を書いた毎日新聞の新名丈夫記者を37歳で二等兵召集。新名記者が海軍従軍記者だったため海軍が抗議したところ、新名と同じく大正生まれの兵役免除者250人を召集し辻褄を合わまで行う。新名記者は海軍によって3ヶ月で除隊となり再度の召集を防ぐため海軍の従軍記者となり難を逃れたが、新名の巻き添えで召集された中年二等兵たち250人は硫黄島に送られ全員玉砕する。逓信省工務局長松前重義は東条反対派の東久邇宮に接近したという理由で、43歳で召集され南方に送られる。特高警察と東京憲兵隊も重用し、自分に批判的な人物を次々に排除した。このように憲兵を恣意的に使った恐怖政治を行った。
政治家および軍人としても東條英機の評価は低い。ガダルカナル島戦について、高松宮海軍大佐から意見を求められた石原莞爾などは、「戦争の勝敗は初めからわかっております。わが方の作戦はすべてに攻勢の終末点を越えています。戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例するのが原則です。日本本土では百の力が、ガ島まで行けば十から五の力しかない、ところが敵は根拠地に近いから我が軍より力の大きいのは当然です。持久戦争においては、攻勢の終末点をどこにするかが、最初から確立されていなければなりません。しかるに支那事変も今次戦争も、全くこれを考えていない。東條のやっている戦争は何をやっているのかデタラメで、まるで決戦戦争のやり方であります。攻勢の終末線を越えれば叩かれるのは当然であり、負けることが判っている所へ兵を送る馬鹿はありません。」と奉答した。
1941年、陸軍大臣東条英機の名で出された「戦陣訓」こそ東条英機の人としての器がどのようなものだのか如実に示している。第8の『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』は、全将兵に死を強制する役割を果した。これにより日本軍は無益な玉砕戦を繰り返す事になる。勝手に敵軍が自滅してくれるのだから米軍は有利に戦いを進めることが出来た。日本軍は徹底的に抵抗するのでなく、負けそうになると、自ら大声を上げ自分の位置を敵軍に教えながら機関銃座の前に突撃した。米軍は声がする方に銃弾をばら撒くだけで日本軍を全滅できたのである。軍人なら可能性が少しでも残っている限りゲリラにでもなって戦い抜くのが本分である。止むを得ず捕虜になった場合には、味方の情報を漏らすことはなく、出来る限り脱出の方策の練るのが軍人としての国家に対する義務である。「戦陣訓」に対しても石原莞爾は徹底的にこきおろし、それが遠因となり罷免されて予備役にさせられてしまう。
石原莞爾は、極東軍事裁判で日本側証人と出廷した。米国の検事が「証人は当時の東條首相と意見が対立していたと言われているがどうなのか?」と質問したときに、石原は胸を張って「私は意見を持っていたが、東條には思想や意見などなかった。意見のない者と私の見解が対立することはありえない。」と答えたそうである。
戦争指導の稚拙さと憲兵を使った恐怖政治に対し、反東條の動きが皇族、貴族、海軍、民間で強まり、1944年7月サイパン失陥、マリアナ敗戦の責任論が噴出、、総辞職に至る。戦後の1945年9月11日A級戦犯指定を受ける。逮捕直前自殺を図るが失敗。極東国際軍事裁判で死刑判決を受け、1948年12月23日処刑。
東條英機は極東国際軍事裁判でA級戦犯として裁かれ死刑判決を受けたが、彼にその資格があったのだろうか。東京裁判がいう平和に対する罪と言うなら満州事変から国連脱退の時期に帝国の実質的政治権力を握っていた皇道派にあるだろう。1941年の時点で東條英機以外の誰が総理大臣であったなら戦争を防ぐことができたのだろうか?国内では、朝日新聞を「国民の覚悟は出来ている。ひじきの塩漬で国難に処せんとする決意はすでに立っている。待つところは『進め』の大号令のみ。」と国民はおろか政府に対しても日米開戦を煽動しており、朝日新聞社に洗脳された大衆が日米和平に反発して暴動を起こすことさえ予想される時代であった。対するUSAは、当時のUSA大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、イギリスのウィンストン・チャーチル首相による第二次世界大戦への参戦や、中国人に対する親愛感(ルーズベルトの父親は中国との貿易を手広く行っていた)から第二次世界大戦へ参戦を望んでいた。しかし、国内の嫌戦感情(彼は戦争に参加しないことを公約として当選している)をどう変えるかに苦慮しており、日本が到底受け入れそうもないハル・ノートを示すことにより日本から戦争を始めてくれる事を期待していたのである。
東條英機は、我が国の国家・国民に与える必要のなかった以上の大きな負担を与え、壊滅的な事態にまで至らしめたという責任はあるだろうが、それは無能という責任であり、連合国でなく我が国自身が裁くべき責任である。「日米開戦となれば、日本は必然的に南方に進出して、南方資源に頼らねばならぬが、このように長い補給線を、長期にわたって維持することは困難であり、輸送船舶は逐次撃沈されて、日本の資源は枯渇する。従って勝敗のおもむく所は、おのずから明らかである。」と結論づけ、我が国の南進戦略には勝算がないことを説明し、たとえ屈辱的であっても一切戦争は不可であると主張した石原莞爾こそA級戦犯にふさわしい頭脳と能力を持っていたと考える。
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