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国家権力は高利貸しだった  27年間で4384万円が1億300万円に  【SENKI】
http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/761.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 11 月 09 日 01:43:09: ogcGl0q1DMbpk
 

管制塔占拠民事損害賠償請求 カンパ達成 

国家権力は高利貸しだった

27年間で4384万円が1億300万円に


http://www.bund.org/news/20051115-2.htm

 78年3・26成田空港管制塔占拠闘争に対し、運輸省航空局、空港公団、気象庁が行った民事損害賠償請求は元金4384万円だった。それが2005年3月年利5%で1億300万円までふくれ上がっていた。3者は7月の時効を前に(最高裁確定は95年7月)、管制塔元被告の給与の4分の1差し押さえ、33万円以上の給与分の押収という強制執行に打って出た。それに対し元被告に連帯する全国の仲間のカンパ活動(管制塔被告連帯基金)が開始された。管制塔被告連帯基金には、約2000名から総額1億401万9993円(10月31日現在)のカンパが集まり、損害賠償金の総額1億300万円をクリアした。11月11日には現国交省・空港会社・気象庁に対し支払いが行われる。  

 ブントは元管制塔被告山下和生氏、佐藤一郎氏の呼びかけ(本紙1185号)に応え、関係者で取り決められた分担金に応じるためBUND管制塔損害賠償対策基金カンパ運動を開始した。その結果、10月19日、1030万2000円也を管制塔被告連帯基金に振り込み、さらに、10月28日、その後のカンパ分の28万1000円也を振り込んだ。

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妻が耐えられるかが心配だった

山下和生

 4月より続いた、国による1億300万円の損害賠償攻撃=管制塔闘争への報復を、10月末に目標を達成することで、跳ね返すことが出来ました。ここに、全国カンパ運動にご協力いただいたすべての皆様に、紙面をお借りしてお礼を申し上げます。ありがとうございました。  

 『差押命令』が来た4月頃には、この先どうなるのか?≠ニいう不安を持ちながら、元被告と連絡を取り合っておりました。7月に入り、全国的なカンパ運動を立ち上げ『基金』を開設することで、国への反撃の体制を整えることが出来ました。「11月には全額一括納付」「悪くても今年中には終わらせる」という方針が打ち出されましたが、1億円という金額は、大変遠くに感じられました。  

 半分か、せいぜい7割が限界だろう≠ニいうのが正直な感想で、残りは我々自身が耐えていくしかないだろう≠ニいうのが当初の私の覚悟でした。  

 私事ですが、出獄以来細々とですがフォンドを貯え備えてきたため、2〜3年は現状を維持出来る準備はしてありました。しかし最大のネックが妻がそれに耐えられるかが心配でした。幸いにこの半年間何事も無く過ごす事が出来ました。彼女にすれば言いたいこともあろう中で、当初話し合った「今までと同様変わらない生活」という言葉を信じて、この半年を過ごしてくれたことに感謝しています。  

 「戦後処理」とも言えるような、悔しい闘いではありましたが、皆様の御支援により打ち克つことが出来ました。感謝に耐えません。  

 最後に『管制塔闘争』を全く知らないか、その後に結集された方々が大半である今のブントにあって、カンパ運動への御支援下さった若い世代の方々のご厚意に改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

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すべての人々の勝利だと言えます

佐藤一郎

 既にご存知のことと思いますが、ついに管制塔損害賠償対策カンパが1億300万円を超え、当初の目標を達成したことを報告します。このカンパに心を寄せてくださったすべての皆さんに感謝するとともに、ともに喜びを持って確認したいと思います。  

 このことは、政府・公団の突然の卑劣な損害賠償請求の攻撃に対する被告・弁護団、そして何よりも3・26管制塔闘争を自らの闘いとして熱い共感と連帯の意志を表明してくれた、全ての人々の勝利だといえます。27年前の闘いが、今も記憶だけではなく人々の思いと生き方、そして現在もいたるところで繰り広げられている権力の不当な攻撃の前に立ちはだかる民衆の闘いを勇気付けるものとして存在していることを、あらためて示しました。

 このことを訴え、何度も何度も全ての心を寄せてくれた人々に感謝の気持ちと、新しい闘いの地平をともに作り出していくことを確認しましょう。


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仲間たちを権力のくびきから解放できた

早見 章

 1億円のカンパが達成されて、喜んでいます。管制塔の戦いを闘った仲間たちを権力のくびきから解放でき、新しい人生の出発を実現できたことを本当にうれしく思っています。

 ブントの基金カンパに大勢の皆さんの協力があったことを深く感謝しています。カンパをよせられた皆さんの顔を思い浮かべ、込められた想いに胸の奥から熱いものが湧き出てきます。私が知らない人も大勢いました。多くは3・26なんて知らないというような若い人たちでしょうか。共感をよせていただいたことに感動しています。

 私が皆さんにカンパの呼びかけとお願いをするにいたった、簡単な経緯と想いを述べさせてもらい、お礼の言葉に代えていきたいと思います。3月下旬、山下君から差押さえが通告されたと電話がありました。最初は大変なことがおきたと、なかば茫然としてしまいました。4月の給料から差押さえがはじまり、山下君が第一号でした。  

 とにかく何かしなければという切羽詰った気持ちで、渡辺文博さんに相談しました。連名でカンパを呼びかけることにして、渡辺さんが準備作業にはいりました。

 7月に入り、全額納入の最終通告に、被告団は苦渋の決断として全額支払を決めました。旧戦旗派関係として1000万集めてほしいという要請がありました。いわゆる党派分担金です。

 これをうけて、渡辺さんと私のお願い、佐藤、山下君のアピールが本紙1185号に掲載され、カンパ運動が開始されました。

 私は、当時志をひとつにした仲間たちの手で支えあいたいと思っていました。30年近い年月のなかで、大半はそれぞれの人生の選択をしています。私もその一人です。そのなかでは現在のブントに対して、様々な想いを抱いているのは当然だとも思います。そうであっても、もう一度当時の戦旗派として、心をひとつにして受けて起つ以外ないと考えました。それが管制塔の仲間たちを支えることだと思いますし、この闘いを継承し、多くの被逮捕者を生み、心身ともに傷つきながらも闘い続けた、仲間たちに対する責任でもあると思います。

 私たちは誰に頼まれたわけでもない。強制されたわけでもない。一人一人が三里塚農民の訴えを心に刻み、国家権力の理不尽、非道な暴虐に立ち向かっていったのです。責任があるとすれば、私たち一人一人に責任があります。連帯サイトでの表現をかりれば、あの日三里塚で開港阻止を闘った私たちすべてが管制塔の共同共謀正犯です。私も、第二、第三の3・26を先頭にたって主張し、80年代を闘ってきたということからいっても、自分が真っ先に手を上げる責務があると思います。渡辺さんは、最初に「この問題から目をそむけることは、自分の人生を否定することになる」と言いました。本当にそのとおりです。責任とか責務といっても外的強制や義務感という意識はありません。ともに受けて起つのが当然という気持ち以外なにもありません。

 その意味では、ブント基金にはわだかまりをもっていても、連帯基金へ直接カンパした人の名前を見たときにはうれしくなりました。感謝しています。

 そして多くの皆さんが応えてくれたし、直接3・26を知らない世代の人たちも多くの共感をよせてくれました。どんな困難でも一緒に闘った仲間を支えよう、守りたいという私たちの願いと訴え、理不尽な攻撃でも受けてたとうという元被告のあり方に共鳴したものだと思います。

 「山下さんと早見さんへカンパする」といってくれた人もいました。訴えに応えてくれたことに本当にうれしく思いました。組織的な活動から離れても、グランワークショップにバスを運転して参加してきた山下君へは、多くの地区の仲間がカンパを寄せてくれました。三里塚闘争のもっている大義と正義性と、78年3・26管制占拠闘争の歴史的意味を培ってきた仲間たちとの絆が多くの皆さんの協力を引き出した原動力でした。

 78年3月26日、空港を目指して進んでいたとき、目の前の管制塔に翻った赤旗を30年近く経っても鮮明に覚えています。戦旗をかかげたのが山下君です。空港へ一緒に突入したのが佐藤さんです。

 国家権力が総力あげたことでも、理不尽なもの、大義がないものは実現できない。私たちがそれに屈しない、抗しようという意思をもったとき、それを打ち破ることができるということを、この闘いで学びました。  

 あの赤旗のもとに、戦旗のもとに行こう。あの仲間と合流しよう。自分も人民の戦旗を掲げたいというのが、私の人生の目標になりました。願いです。何度、言っても言い尽くせません。皆さんのご協力に心の底から感謝しています。ありがとうございました。


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ブントとして言うべきこと

山根克也

 4月当初、責任党派・被告団割りの「カンパ目標」を設定して始まったカンパ運動だったが、結局「管制塔被告連帯基金ウエブサイト」に寄せられたカンパが群を抜いていた。連帯基金の会計監査の重責を果たした柘植洋三氏(元三里塚闘争に連帯する会事務局長・元廃港要求宣言の会の事務局長)は、「電車男」にヒントをえてウエブサイトを立ち上げたそうだが、インターネットを駆使したカンパ運動の進め方は、21世紀の新しい運動の可能性を切り開いた。柘植さんの奮闘なくしてはカンパの達成はとてもできなかっただろう。

 27年間ですべてが変わっていた  1978年3月26日の管制塔占拠闘争から27年。元管制塔被告もみな党派活動から離れ、それぞれの市民生活を営んでいる。管制塔占拠闘争の主体となった3党派も、当時とはそのあり方を大きく変えている。当初の「責任党派割り」でカンパを集めるという古い左翼の発想自体に、そもそも無理があったのだ。管制塔占拠闘争を主導した第四インターナショナル日本支部は、ABCD問題(現闘小屋での集団強姦事件)の総括をめぐって4つに分裂。プロ青同も「自治・連帯・エコロジーをめざす政治グループ蒼生」へと転換した。当時、共産主義者同盟(戦旗派)を名乗っていたのちの戦旗・共産主義者同盟も、共産主義者同盟、ブント(BUND)と組織名称を変更するなかで、1990年代半ばには共産主義と決別し、まったく別個のNGOへと変遷した。27年のあいだに、世の中も闘争主体も変わっていたのである。  

 どの党派でも、3・26闘争を担った世代の多くは党派運動から離れ、あるものは市民活動家や労組活動家になり、あるものは活動から身を引いていた。そうした点からも、3・26世代の中には、党派に直接カンパを送るのを躊躇する人もいた。当然、元戦旗派活動家の中にも、BUND管制塔損害賠償対策基金にではなく、全体の連帯基金にカンパした人々が少なからず存在した。事情は第四インターもプロ青同も、似たり寄ったりだったろう。  

 結局柘植氏が主張していた通り、早い段階で「党派割り」なんてやめ、カンパの窓口を管制塔被告連帯基金に一本化したほうがよかったのだ。そうすれば日々のカンパ総額の集計作業もずっと楽になり、集計をめぐる「ずれ」や「ミス」(柘植氏)が生じる余地もなかった。  

 しかるに、ウエブサイト上では党派がカンパ運動も担うべしという前衛主義的な発想が、そこかしこでみられた。「ブントは大党派なんだからもっとカンパを出して当然だ」などと、臆面もなく言ってのける輩もいた。今やブントは環境と人権をテーマに行動するNGOと自らを位置づけている。「大党派」云々の前衛主義丸出しの発想が、ブントにとりいかに違和感のあるものかが、ネット上にしか存在しないバーチャル左翼にはわからないようだ。

 話し合い路線のツケを払うのか  そもそも、戦旗・共産同時代の89年に「話し合い」路線に反対して「熱田派」反対同盟を除名されて以来、私たちブントは90年代における「成田シンポ」や管制塔民事訴訟に関しては、一貫して「蚊帳の外」に置かれてきた。情報さえもが入ってこない十数年の空白期間があったのだ。それがいきなり「管制塔賠償金の一部を党派分担金として出せ」となったのである。当然、「なぜ被告団は判決が確定しているのに、もっと早く強制徴収されないような手を打たなかったのか」とか、「『成田シンポで国は謝罪したのに、いまさら賠償金を出せなんて理不尽だ』と言ってる人達が、成田シンポ―話し合い路線に一貫して反対し、その結果蚊帳の外に置かれてきたブントに、そのツケを払えというのか」といった意見が百出した。「元被告団を守るために致し方なかったこととは言え、おめおめと国家権力に賠償金4000万+年利5%の1億300万円も払わざるを得なくなったのに、とても勝利なんて言えない」という声もあった。そうした声の中で78年3・26の時にはまだ生まれてもいない若手に、カンパを要請するなどというのは至難のことだった。  

 それでも私たちは、「元被告団の人達の生活と人生を防衛する」の一点で、「責任党派」として分担された1000万円のカンパを達成した。道のりが決して平坦なものではなかったのは、以上のことからもわかるだろう。  

 3・26闘争当時の指導的活動家の多くは、先日亡くなられた笠置華一郎さんをはじめ、多くがブントから離れ独自の人生を歩んでいる。「彼等こそがカンパを担うべき」との声が若手からでるのは当然だ。元管制塔戦士の中には、ブントの「左翼思想からのパラダイム・チェンジ」に反対して、組織活動から離れていった人もいる。被告の中には3・26逮捕直後に転向し、当局に協力、他の被告の足を引っ張った人もいるのだ。  

 それに対してブントの現役活動家は、80年代90年代に結集した20代30代の若きアクティビストである。彼らは3・26さえ知らない。彼らは現在のイラク反戦運動や各地の環境保護運動に献身的に取り組んでいるが、管制塔被告団の元活動家は見も知らぬ人達なのだ。  

 そうした危機的状況のなかで、BUND管制塔損害賠償対策基金は、78年当時三里塚現闘団長だった渡辺文博さんと、現闘団員の早見章さんの呼びかけで始まった。彼等が率先してカンパを開始してくれた。彼等の責任の取り方にこそ感謝の意を表したい。それがなければ、ブントの活動家全体がカンパ運動に取り組むことは非常に難しかっただろう。  

 前衛主義丸出しで時間の止まった元活動家を自称する人達は、管制塔闘争が闘われた1978年の、27年前を考えてみてほしい。それは1951年、当時の日本共産党が所感派と国際派に分裂し、「山村工作隊」「中核自衛隊」などの非公然組織が「農村部でのゲリラ戦」を展開していた時代にあたる。1978年の現役活動家が、火炎瓶闘争で逮捕された「山村工作隊」の元日共活動家の救援カンパを出せと言われて、ハイそうですかとはならないだろう。ブントはその「無理」を実現したのだから、ブントの若きアクティビストたちの善意と献身に感謝したい。  

 かつて何がしかのことをした活動家は、自分がことをすすめるべしと思っている人達だ。彼等は自分の息子のような世代にせびったりはしない。柘植さんのような対処や、100万をカンパした渡辺文博さん、荒岱介さん、Tさんのような対処をしてくれる。問題は匿名で「元戦旗派だ」などと自分をブントとリンクしたがり、自分の子供のような世代にまでルサンチマンをふりまく、実際には権力の手先に成り下がっているような自称元戦旗の人達だ。彼等はいつまでたってもパラダイムチェンジできず、まるで子供のように振舞いつづけている。そうやって運動の足を引っ張っているのである。  

 しかし何はともあれ、ブントは責任党派分担分として割り振りられたカンパ分を上回るカンパを、責任をもって集めきった。「やんねえのかよ」と糾弾していたネット左翼の人達は、それでは実際どれくらいカンパ運動に協力したのか。柘植さんや渡辺さん、Tさん、早見さん、荒さんなどの関わり方を見習うべきではないか。それが3・26精神の継承だと私達は思っている。

 


http://www.bund.org/news/20051115-2.htm

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