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(回答先: 『横浜事件』再審始まる 弁護側は無罪主張(東京新聞) 投稿者 gataro 日時 2005 年 10 月 17 日 23:10:00)
【平和新聞連載 第52回 2005年4月 石川達三 風にそよぐ葦】
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/hs@52.htm
漱石研究家・伊豆利彦さんが平和新聞(日本平和委員会機関誌)に連載した作品解説の1つである。
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「よし、白状するまで五日でも十日でもやってやるからな。覚えてろ!」そして.更に両手を縛り上げ、木剣をもって背を叩く。叩かれてももはや知覚はなかった。私が失神して倒れると、裸にして風呂場へ引きずりこみ、ホースでもって頭から水をぶっかけられた。氷るような冷たい水が全身の傷に沁みた。」
岡部熊雄の手記である。岡部は『新評論』の編集長で、芦沢悠平社長の娘婿だった。いわゆる横浜事件に連座して、一九四四年一月十九日に横浜の磯子署に連行され、激しい拷問を受けた。
日本共産党の再建運動に参加して、『新評論』『改造』『日本評論』等の編集記者と連絡を取って再建準備会をつくっていたということを認めよというのである。まったく身に覚えのないことだったが、虚偽の自白をするまでひどい拷問をつづけたのである。
「小林多喜二は何で死んだか知っとるか。貴様にもあの二の舞をやらせてやろう」「俺たちはもう何人も殺しているんだ。貴様のようなやつは殺した方が国の為になる」と叫び、頭髪をつかんで頭をコンクリートの壁に叩きつけ、倒れると泥靴のままで顔面を踏み頭を蹴って失神させた等々という犠牲者の手記が採録され、四人も死亡者を出した凄惨な弾圧の実態がなまなしく伝えられている。
新評論社長の芦沢悠平は病床から呼び出され、共産主義運動と関係づけようとするきびしい訊問を受けた。「貴様のようだ国賊は、叩き殺したってかまわねえんだ。」「共産党の第五列だろう。」と悪罵され、顔面に痰を吐きかけられた。
共産主義云々は術策に過ぎなかった。戦局の悪化とともに、国民のあいだに軍部官僚政府に対する批判がつよまることをおそれ、知識人を憎悪し、敵視したのだった。
主要な編集記者を警察に奪って発行を困難にしたた政府は、やがて『新評論』『改造』に対して自発的な廃刊を命じた。
芦沢の長男は兵隊に取られ、学生時代に運動に参加したことを理由に、その根性を叩き直してやると言って殴る、蹴るの暴行を受け、それが原因で死んだ。娘の夫は警察で苛酷な拷問を受け、妻の兄、戦争に反対する自由主義評論家の清原節雄は執筆を禁じられ、わけのわからぬ理由で拘留され、取調べを受けていた。
清原が釈放されたのは、東条内閣が倒れて一ヶ月目だった。拘留された理由が告げられなかったように、釈放の理由も知らされなかった。
「これはもはや法治国というよりも、暴力政治の国であった。」と作者は書いている。
「内閣は変ったが、落日を招きかえすほどの力が有ろう筈もなかった。一つの国家が崩れるときには、国家の全体が一斉に崩れて行くのだ。軍部、官僚の秩序風紀は紊乱し、財界は軍需に名をかりて私利をはかり、民衆は犠牲を拒んで政治の手から逃れることに専心していた。強権と貧困、怨蹉と頽廃。流言は巷にみち、人心は右往左往して拠るべきところを持たなかった。」
サイパンは落ち、硫黄島も奪われて、B29による本土爆撃の日は迫っていた。戦場はフィリピンから沖縄に移り、激しい戦闘がおこなわれていた。国民はなすすべもなく、戦争の嵐に吹きまくられて、破滅へと押し流されて行った。
「風にそよぐ葦」は前編が1949年、後編が1950年に『毎日新聞』に連載された。朝鮮戦争勃発前後、下山事件、三鷹事件、松川事件と怪事件が連続しておこり、レッドパージの大風が吹き荒れて、日本が戦争へと動員されていった時代である。