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78年管制塔占拠 民事損害賠償請求で給与差し押さえ
1978年3月の成田空港管制塔占拠をめぐり、国と新東京国際空港公団(現成田国際空港会社)が求めた損害賠償請求で、現在管制塔戦士一人一人に給与の差し押さえがはじまっています。山下和夫さんからの投稿を紹介します。
(編集部)
http://www.bund.org/opinion/20050725-2.htm
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4月から給料の25%が供託されています
管制塔戦士 山下和夫
今から二七年前の一九七八年三月二六日、成田空港が管制塔占拠により開港不可能となりました。当時学生であった私も四七才となり、今の会社に二十年近く在職するに至っております。いつか来るとは思ってはいましたが、直面すると唐突に感じられました。しかし一方で「決着をつける時が来た」と覚悟を固めてもおります。
二〇〇五年三月三十日、東京航空局、気象庁の申立てで、四月六日には空港会社の申立てで、地方裁判所より「債権差押命令」が送付されて来ました。「総額一億三千六十万円に満るまで」給与の二五%がカットされるというものです。私の場合、四月分より給料から天引きされています。カットされた給与は法務局に「供託」されるとのことです。
一九八一年三月二四日(時効の二日前)、国(航空局、気象庁)と空港公団の三者より、四千四百万円の賠償が請求されました。八九年三月には地裁で、約半額の賠償の判決が、九二年六月高裁では請求全額の賠償判決が下りました。九五年七月に最高裁が被告側の上告を棄却。その年十二月に三者からの納付請求がありました。しかしこれ以降取立行為は一切なされず、今年に入って七月で時効となる直前、今回の処置となったわけです。
被告十六名に対して約一億円の連帯請求がなされています。私の職場につきましては幸い会社側との話し合いで、「過去の古傷」ということで早急に解決するよう言われるにとどまっています。法的には「差押」を理由に解雇するのは不可能のようです。しかし社会通念的には辞めざるをえないところ。「古傷」として一定の理解を得られた状況には感謝しています。
成田空港の闘いは、政府自身も認めているように、当初より「ボタンの掛け違い」によって、現地の声、存在を無視し、建設が押しすすめられてきたことへの反対の闘いでした。政府・公団は反対する声に対しては、農民の生活=農地を強権=「土地収用法」で奪い、支援者には機動隊による暴力と逮捕でのぞみました。自民党政府の農民を見下した政策によって、双方に多数の死傷者を生み出した失政に対し、管制塔占拠は最大の闘いになったと思っています。
最近新聞紙上で明らかにされたように、並行滑走路が「短い」ことを理由に空港会社社長が国交省に「行政指導」を受けるなど、成田空港は当初からの失政のツケを未だ引きずっている現状にあります。この記事を見た時、自分史的には二十才の学生が管制塔に突入し、その後の人生の半分以上関わりを持ち続けたことは、「意味」のあったことだったのだと、自己確認している次第です。
そして最後の闘いとして、今回の国からの賠償請求に、佐藤氏、水野氏、石山氏の三氏とともに対峙していこうと思っております。
どうか、一人でも多くの方にご理解いただき、御支援くださるようお願い申し上げます。
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突然の差し押さえに生活上の危機
管制塔戦士 佐藤一郎
三月二十八日帰宅するや、郵便受けに裁判所からの特別送達の不在票がはいっていました。裁判所からの特別送達に心当たりもなく、日常的には珍しいものなので、様々に思いをめぐらして郵便局に連絡を行い翌日受け取りました。推測通り管制塔民事裁判の判決に基づく差し押さえ命令でした。
内容は、債権者国土交通省及び気象庁は損害額何がしかの金額を、私の月々の賃金及び一時金、更には退職金が発生するならばそれからも、各々四分の一を差し押さえるというものでした。同時に我が職場宛にも同様の命令が送付され、もしこの命令に会社が服さないならば、会社も連帯債務者となるとの趣旨が、極めて事務的に書かれてました。
書式も通常の横書きA4ワープロ文書で、過去に目にした旧来見慣れた裁判所の書式とは異なり、実に簡素なものでした。被告の住所欄を見ると、現住所以前の住所として横浜市港南区港南何々番地横浜刑務所内と、まったく何の配慮もないまま記載されており、それが直接会社にも送付されていました。まさに「四分の一の差し押さえ」以上の生活破壊攻撃としか言いようがありません。
権力のお前の自業自得だろうと言わんばかりの扱いに怒りがこみ上げてきました。幸い会社は何か「若気の至り」的な解釈で、今回のことは過去のことなので問題にしないが、ただ裁判所の御命令とあればそれに従うしかありませんといった態度で臨んできました。私自身が微妙な立場に置かれたことは事実であり、権力とはこんなものなのだろうと思いました。なお、後に聞いたところでは会社に送付された文書には、加えて貴社としてこの命令に応じますか応じませんか、どちらかに○を付けろとのアンケート形式の裁判所宛の回答書が付いていたとのことです。更にそれから時日を経ずして、空港公団の事業・債権を継承した空港会社名で同じ文面の差し押さえ命令が届きました。
一九九五年七月最高裁での確定判決以降、記憶をたどっても一度たりとも催促なり督促状らしきものを受け取ったことはありません。民法上の消滅時効が二十年であり、それがこの七月であることも全く意識せずに日々を送っていた身にとっては、青天の霹靂といった事態です。他の多くの被告たちも同じ実感を抱いたのではないかと思います。
それぞれさまざまな思いを抱いて、市井の中にささやかな生活を営んでいた被告も多く(かく言う私もその一人ですが)、突然二十七年前の一九七八年三月二六日の管制塔占拠闘争と、その後の裁判闘争・長期の下獄の鮮明な記憶がよみがえってきました。権力の報復攻撃が全身を押しつぶすように立ちはだかってきた感じです。
民事裁判が裁判闘争・長期の下獄に対して傍流の権力の攻撃と捉えていたことと、財産も持たず失うものはないとあまり危機感を持たずにいたため、薄給からの差し押さえはいざ現実のものとなると、生活上の危機と今後の生活設計の大幅な変更を強いるものとなりつつあります。
この差し押さえ攻撃の意味は、現在の三里塚の情勢と、更には社会情勢を十分反映したものであると思います。それを踏まえて真正面から受け止め、めげずに跳ね返して生きたいと考えています。被告団も再び、今回の事態を跳ね返すとの固い決意を求心力として団結を強めています。今回の事態に至りその報告に接するや、直ちに激励や支援の気持ちを寄せてくださった皆様に、この場を借りて感謝の念を表します。と同時に二十七年前の闘いが、まだまだこのような形で続いているわけです。今後の厳しい闘いへの支援を心から訴えます。
二〇〇五年七月十二日 佐藤一郎
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元管制塔被告に対する財産差し押さえが開始されました!
当時、共に闘った仲間で、支えるために協力してください
元管制塔被告に対する民事訴訟は89年3月に東京地裁で被告側が敗訴し、高裁で全額賠償の判決のあと、95年7月には最高裁で確定しました。
当時、被告団は、賠償請求に対して、一切応じない(インター・プロ青)という方針で臨み、従って、差し押さえの対象となる財産は、(家族名義へ変更しても)持たない、というのが被告側の対応となったと聞いています。
原告側は、今頃何故と、誰もが思うような今年3月(時効直前)になって、賠償金(延滞利息を含めて)約1億円を支払うようにと請求書を送りつけてきました。かつ元被告人等が勤務する会社に対し、就業確認の手続きを進め、その上で地裁は、手取り給与の25%を差し押さえる原告側の請求を認める決定を下しました。4月からは山下和夫氏の給料からの天引きがはじまっています。
私たちが負う責任が如何なるものか検討を要しますが、他方で、山下和夫氏の呼びかけにあるように、経済的圧迫が加えられ続ける現実に、私達は目をつぶることをしたくはありません。それは、若き情熱を傾けた自らの所業に対する冒涜ともいいうることだからです。
但し、管制塔の件は29年前のことです。28歳以下の人には生まれる前のできごとになりますので、そんな方々に運動をお願いするのは、無理のあることかと思います。従って、当時を共有するものが痛みを分け合うこと、これが基本になります。原告側と交渉中と聞きますが、どうであれ相応のまとまった金額が必要となります。交渉がまとまらない場合は、被告を支援する毎月一定の金額を要します。
どちらの場合にも対応できる、管制塔損害賠償対策基金の設立が望まれるところです。 SENKI読者のみなさん、何とぞご協力をお願いします。
78年当時三里塚現闘団長 渡辺文博
同現闘員 早見 亨
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声明
2005年7月9日 元(成田空港)管制塔被告団一同
@私たち元管制塔被告団は、政府及び成田国際空港会社(元新東京国際空港公団)の損害賠償の時効差し止めを意図した賠償強制執行の着手に対して満身の怒りをもって抗議する。
2005年(今年)7月7日、1978年3月26日管制塔占拠にともなう器物の破損にかかる損害賠償請求訴訟判決の時効の日に当たる。最高裁判決から10年もたつ今年3月、法務局は突然元被告たちに対し、給与の差し押さえを始めとする賠償の強制執行に乗り出した。賠償請求に理があるならば当然被告団はそれに応じたろうし、政府も素早く賠償執行に取り掛かったはずである。
なぜ政府は賠償請求の執行にすぐに取り掛からなかったのか? 答えは明白である。全く請求に理がなかったからであり、いわゆる管制塔占拠後に国と空港反対同盟の間で展開された「成田空港問題シンポジュウム」においても、非は歴代政府にこそあることを当時の運輸省課長さえも認めていたからである。
A2005年(今年)7月5日の新聞各紙に取り上げられた「元活動家の給与差し押さえ」の記事は、政府と成田国際空港会社による新たな「成田空港反対運動」に対する攻撃であると私たちは理解している。
手狭であり、不便であり、使用料がどこよりも高く、ソウルの仁川空港を始めとするアジア各国の空港に利用者を奪われている「成田空港」は競争力を上げるべく、滑走路の延長・新たな滑走路の取り付けを迫られている。
私たちへの損害賠償強制執行着手は反対闘争に対する圧力であり、今後ますます反対同盟やそれを支援する人々に対して強まるだろう政府の攻勢であると捉える。そうであるならば私たちは少々老いてはいるが、再再度政府に対する闘いを宣言せざるをえない。あらゆる方法で反対運動に対する弾圧・圧迫を打ち砕くために立ち上がるだろう。
B元管制塔被告は最高10年(未決通算加えると12年)、短期の者でも(未決通算を加えて)6年の刑期をまっとうして来た。皆が社会に出て新たに社会と家族と職場の関係を築いてきた。この過程の労苦は計り知れないものがあった。一人の仲間が自死で尊い命を奪われてさえいる。
今回の政府の賠償強制執行の着手は、私たちが出獄後築いてきた社会・家族・職場関係を引き裂くことになった。1978年の不当な空港強行開港宣言を管制塔占拠によって粉砕してから27年、「成田空港問題シンポジュウム」で政府が反省の弁をたれてから13年、私たちの闘志はあの時以上に大きくなっている。不当な「成田空港」の建設に反対するばかりか今度は家族と職を守る事もふくめて私たちは闘いに立ち上がる。
C今から政府はますます強固になる空港反対闘争に遭遇することになるだろうし、政府・新国際空港会社は意図とは逆に大きな困難に直面することになるだろう。
正義は管制塔占拠の瞬間も現在も私たちにある。
私たちは絶対に負けない。
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(2005年7月25日発行 『SENKI』 1185号4面から)
http://www.bund.org/opinion/20050725-2.htm