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10/08 19:23 戸籍求め比残留7人訪日へ 兄と59年ぶり再会女性も
太平洋戦争前や戦中にフィリピンに渡った日本人男性と現地女性
の間に生まれ、父親が戦後日本に強制送還されるなどしたため、母
親とフィリピンに残った日系人七人が十一日、自分の戸籍作成を求
めて日本を訪れる。七人とは別に送還された兄と五十九年ぶりの五
十九年ぶりに再会する女性も同行する計画だ。
残留日系人の身元調査に参加してきた民間非営利団体(NPO)
フィリピン日系人リーガルサポートセンター(東京)が支援。一行
は十二日、東京家裁に戸籍を作成する「就籍」を申し立てる。フィ
リピン残留日系人の就籍申し立て訴訟は昨年八月の井手端和子(い
でばた・かずこ)さん、早苗(さなえ)さん姉妹に続いて二件目と
なる。
▽わたしは「スミコ」
日系人七人は強制送還の記録や両親の結婚証明書、本人の記憶な
どから「日本人」とみられるが、日本で父親の戸籍が確認できない
などの事情から、これまで国籍を得られなかった。就籍が認められ
れば、子供や孫は将来、日本での就労が可能になる。
マニラ首都圏カロオカン市に住むエステリタさん(74)は自分
は父「アリチ・コヤ」と、フィリピン人母の娘の「アリチ・スミコ
」と主張。父親は一九三七年ごろ、フィリピンの鉱山で働いていて
事故死した。終戦間際にバコロド(ネグロス島)の山中で米軍機の
空襲を必死で逃れた記憶を持つ。父親の出身地は広島だという。
片言の日本語をわずかに話す。「家庭でも学校でもスミコと呼ば
れていた。名前を平仮名で書ける。近所に住んでいたタナカ・ミヤ
コちゃんやモロナガ・アツコちゃんと仲良しだった」と記憶をたど
った。
▽形見の十字架手に
既に鹿児島県姶良郡隼人町出身の赤塚吉之助(あかつか・きちの
すけ)さん(故人)の娘と確認されているミンダナオ島在住の赤塚
民子(あかつか・たみこ)さん(67)も七人と一緒に訪日する予
定。四六年に父親と一緒に日本に送還された兄俊夫(としお)さん
(70)=神奈川県相模原市=と、滞在中に再会する。
日本語はできない。娘を通じて「生活が厳しくてお土産が買えな
い」と語る。死んだ母からもらった木製の十字架や十代の自分の写
真を兄に見せたいという。
「私たちの暮らしがどんなだったか話したい。兄が私の顔を分か
ってくれるか心配」と民子さん。俊夫さんも相模原の自宅で「顔分
かるかな」と話し「インガオという名前だった母親のことを聞きた
い」と再会を心待ちにしている。(マニラ共同=蒔田隆佳)
20051008 1941
[2005-10-08-19:23]
10/08 19:29 フィリピンの日系人社会
フィリピンの日系人社会 フィリピンへの日本人移住の本格化は
1903(明治36)年、道路建設を目的にしたルソン島への労働
者派遣がきっかけ。ミンダナオ島ダバオで麻栽培が盛んだったこと
から移住が加速、最盛期には在留邦人が2万4000人に上った。
太平洋戦争後、成人は日本に強制送還されたが、フィリピン人妻や
子供は残された。両親とも戦争で死亡、孤児となって残った子供も
いた。戦争に伴う反日感情の高まりで日系人であることを隠そうと
身元を示す書類を焼くなどしたため、戦後の身元確認が困難になっ
た。フィリピンには現在、1万人以上の日系人がいると推定されて
いる。(マニラ共同)
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[2005-10-08-19:29]