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09/29 18:36 日本兵の思い出、鮮明 タイ北西部、国境の町
第二次大戦中は日本軍のビルマ(現ミャンマー)侵攻の拠点とな
り、戦後はビルマで負傷した五千人もの日本兵が命を落としたとさ
れるタイ北西部のクンユアム。山あいにある国境の町の住民には、
六十年たった今も、日本兵の懐かしい思い出が鮮明に残っている。
日本軍は大戦中、タイ北部チェンマイからクンユアムを経て、ビ
ルマに侵攻。同時に地元住民を動員して道路を整備した。戦後、日
本兵は同じ道を通って帰還したが、道中、病気やけがにより多くの
兵士が亡くなったため「白骨街道」とも呼ばれた。
ミャンマー国境までわずか四十キロのクンユアムには、敗戦後ビ
ルマから引き揚げた数万人の日本兵が集結。長い人で数年間、住民
と生活を共にした。「ここはまるで日本の領土のようだった」と、
パッケーオ・チャンターシーマーさん(82)は振り返る。
パッケーオさんは戦争中、「フクダ」と名乗る日本兵と恋に落ち
た。フクダは戦後、帰国を拒み、地元警察の目を逃れるため近くの
集落に身を隠した。「八年間一緒に暮らしたが、フクダは警察に捕
まった。その時、わたしのおなかには彼の子がいた」
連行される前、フクダは「日本に送還されるくらいならハラキリ
(切腹)して死ぬ」とパッケーオさんに言った。日本に向かう途中
バンコクで病死したという。
「お手手つないで…」。兵士から教えてもらったという童謡「靴
が鳴る」を日本語で歌ってくれたのはパーン・タヌーさん(78)
。
パーンさんは「ビルマから引き揚げた日本人はほとんどが重傷者
。手や足を失っていた者もいた」と言う。「日本人はとても親切。
彼らが町を離れた時、多くの住民は悲しんだ」
一九九五年にクンユアムの警察署長に就いたチョーチャイ・チョ
ンタワットさん(63)は、住民の多くが日本兵の銃、刀や身の回
り品などを保管していることに興味を持ち、私費で日本兵の関連資
料を収集。九六年には資料展示のための博物館を開設した。現在、
日本人を含め年間約三千人が訪れるという。
警察を引退した現在も、資料収集の仕事を続けるチョーチャイさ
んは最近、日本からの寄付金を基にクンユアムの子どもたちに奨学
金を交付する計画にも乗り出した。「わたしの活動が日本とタイの
より良い交流につながれば」と話している。(クンユアム共同=大
熊慶洋)
20050929 1836
[2005-09-29-18:36]