★阿修羅♪ > 地域9 > 310.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 645年の蘇我氏の滅亡ってほんとかよ? 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 12 月 07 日 02:15:37)
蘇我氏の系譜に連なる生き残った連中も、政争のなかで滅亡に追い込まれていく。
蘇我倉山田石川麻呂(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%BA%BB%E5%91%82
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ、? - 649年5月15日(大化5年3月25日))は飛鳥時代の豪族。蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。一般には蘇我石川麻呂ともいわれている。
645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった際に、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。
その後、改新政府において右大臣に任命される。649年(大化5年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告されて孝徳天皇により兵が派遣されたため、妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。
中大兄皇子の妃となった娘遠智娘は、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)を、またもう一人の娘姪娘は御名部皇女(高市皇子妃)と阿閇皇女(後の元明天皇)を産んでいる。
余談だが、日本史の人物の中でとびぬけて名前が長い。
………………………………………………………………………………………………………………
蘇我赤兄 そがのあかえ (?〜?)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/mretu/mretu00030.htm
【寸評】
古代豪族、中央官人。
左大臣。大錦上。
蘇我倉山田石川麻呂の弟。
『有間皇子の変』に深く関与したとされる。
この一連の動きについては、
政権側の謀略に加担したものであるとか、
兄・倉山田石川麻呂の改新政権での出世に焦り、
功名を挙げようとしたものである等、諸説ありはっきりしない。
ただ中大兄皇子とは密接な関係を持っていたようである。
想像を逞しくすれば、中大兄皇子の親衛隊のような立場にいたのかも知れない。
天智天皇の政権では、左大臣に就任し、
後継者たる大友皇子の後見ともいうべき立場になる。
(注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたします
だが『壬申の乱』により子らともに流罪に処される。
(C)よろパラ 〜文学歴史の10〜
娘の常陸娘は中大兄皇子の妃となり、山辺皇女が誕生している。
また大ヌ娘は天武天皇の夫人となり、穂積皇子・紀皇女・田形皇女が誕生している。