投稿者 gataro 日時 2005 年 12 月 02 日 15:28:16: KbIx4LOvH6Ccw
11月25日、姫路文学館で特別展「はりまシネマの夢 銀幕を彩る映画人たち」を観た。なお作品の撮影は禁止されていた。写真類は他の資料からの転載。
播磨は、日本映画界に異彩を放つ多くの映画人たちを生み出しています。
本展では、主なゆかりの監督や脚本家6人を取り上げ、彼らが映画に託した〈夢〉や、その表現の源にある〈記憶〉を映し出しながらそれぞれの活躍の軌跡を追う一方、各作品の魅力や映画界に果たした役割を紹介いたします。
また、播磨出身作家の小説の映画化作品や、映画の舞台(あるいはロケ地)としての播磨にも着目。姫路フィルムコミッションとの共催により、市民の映画文化への関心を喚起するとともに、「映画のまち〈播磨〉」を発信します。
※出品資料 スチール写真、ロケ地写真、ポスター、台本、原稿、原作本、映画人たちの愛用品など 約200点 (姫路文学館ホームページから)
(左上から右へ)浦山桐郎、前田陽一、橋本忍、(下)瀬尾光世、鄭義信、和田夏十
浦山桐郎(うらやま・きりお) 映画監督 1930〜1985 相生市生まれ 寡作ながら、自己を投影しつつ戦後日本の歪みを浮き彫りにした問題作に挑み続けた。作品に、「キューポラのある街」「非行少女」「青春の門」「夢千代日記」など。
前田陽一(まえだ・よういち) 映画監督 1934〜1998・龍野市生まれ 荒唐無稽な笑いに痛烈な批評精神としがない人々への共感をこめ、独自の〈喜劇〉を確立した。作品に、「にっぽんぱらだいす」「喜劇・あゝ軍歌」「虹をわたって」「神様のくれた赤ん坊」など。
橋本忍(はしもと・しのぶ) 脚本家 1918〜 神崎郡市川町生まれ 「羅生門」をはじめ黒澤明監督作品で知られる。計算しつくされた構成とダイナミックな筆致で数々の傑作を生んだ。作品に、「羅生門」「七人の侍」「白い巨塔」「砂の器」「八甲田山」など。
瀬尾光世(せお・みつよ) アニメーション作家 1911〜 姫路市生まれ 日本アニメーションの先駆者のひとりとして戦前・戦中に活躍。その作品は、手塚治虫にも影響を与えた。作品に、「〈お猿の三吉〉シリーズ」、海軍省の要請で真珠湾攻撃や落下傘部隊の活躍などをアニメ化した「桃太郎の海鷲」「桃太郎 海の神兵」など。
鄭義信(ちょん・うぃしん) 脚本家 1957〜 姫路市生まれ 劇作家で、映画界でも話題作を手がけ次々とヒットを飛ばし注目を集める。「月はどっちに出ている」「愛を乞うひと」「お父さんのバックドロップ」「血と骨」など。
和田夏十(わだ・なっと) 脚本家 1920〜1983・姫路市生まれ 夫・市川崑監督の作品の脚本を一貫して手がけ、常に時代に先んじた眼差しで市川映画の魅力をなした。作品に、「ビルマの竪琴」「鍵」「黒い十人の女」「太平洋ひとりぼっち」など。
◇ 展示の一部
前田陽一愛用の帽子 「土佐の一本釣り」出演の田中好子、樹木希林らの寄せ書きがある。
瀬尾光世がアニメにとりくむきっかけとなった玩具映写機
鄭義信
和田夏十脚本・市川崑監督「黒い十人の女」 角川映画
姫路文学館は姫路城すぐ西の高台の下にある。高台には文学館隣の八幡神社から登る。高台からの姫路城遠望(左)。堀の土手上の紅葉(右)
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◇ 橋本忍記念館へ
橋本忍は兵庫県神崎郡市川町のJR播但線・鶴居駅前で生まれた。駅前にある薬屋さんで生家はどこか尋ねてみる。薬屋のおばさん(小生と同年ぐらい)が、「橋本忍は私の叔父よ。隣の家で生まれたのよ」と教えてくれた。確かに左隣の家には「橋本」の表札がある。(写真は駅前から東向きに撮ったもの)
薬屋で教えられたとおり、姫路側(つまり南)へ少し戻ると、「橋本忍記念館」のある「市川町文化センター」に着いた。
文化センターにあったパンフレット。橋本忍の手がけた作品はあえて列挙するまい。有名な映画作品の多くが彼の脚本になる。おそらく日本映画史上で最も偉大な脚本家の1人であろう。
「記念館」というより「記念コーナー」のおもむき。年表などで彼の脚本すべてが分かるようになっている。
パンフレットにある現在の橋本忍さんの写真(左)。「人とシナリオ」復刻本(右)
キネマ旬報脚本賞など、トロフィーや盾がならんでいる(左)。壁に展示してある上映当時のポスター。「七人の侍」、「生きる」、「どですかでん」、「生きものの記録」、「八甲田」、「砂の器」、「隠し砦の三悪人」、「悪い奴ほどよく眠る」(右)
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◇ 浦山桐郎残念ながら浦山桐郎監督には記念館的なものは何もない。
有名な監督だが寡作でも有名である。
知人に高校の家庭科の先生がいた。浦山監督と小学校(国民学校といったかもしれない)の同級生とかで、よく「浦山君、賢こかってんよ。でも同窓会に一回も来はらへん。やっぱりこちらにいたときのこと忘れたいんかな」と仰っていた。幼くして母を亡くし父親が旧制の姫路高校時代に自殺したことを指してのことらしいが、彼が播磨路を避けているふうだったのを、いつも残念がっておられたのを思い出す。
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