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それは40年以上も前のことだった。当時学生だった小生は、友人たちと屋久島に行くことにした。屋久島に縄文杉などという巨木が存在することすら、まだ世間に知られていない頃のことだった。大王杉という樹齢何千年かの巨木とウィルソン株という巨大な切り株があることは知られていたが。
林芙美子の「浮き雲」を映画化した成瀬巳喜男監督の作品があって、やたら雨のよく降る島だということは知っていた。鹿児島港からの定期船・屋久島丸に乗船して、安房という港に着いた。そこには夜店のパチンコ屋のような店と、いかにも場末の、といった感じのスナックが一軒あった。
上陸するとすぐに宮之浦岳(九州の最高峰)をめざして、安房川に沿って登っていった。当時屋久杉伐採の全盛時代で、山道は森林軌道と平行して続いていた。ほどなく営林署職員たちの集落、小杉谷に出た。NHKの「プロジェクトX」でも、今は廃村と化した小杉谷を取り上げていた。
屋久杉の保存などという観念などいっさいなかった時代のことだ。どれほど多くの屋久杉が切り出されたか、今では想像もつかないほどだろう。
途中、ウイルソン株などを見物しながら、登高を続けること数時間、突然屋久島名物の豪雨に襲われた。あっという間にあちこちの沢に滝がかかり、世界有数の豪雨地帯のすごさを思い知った。
小生らが辿った山道は今は廃道になっているとみえ、地図では見あたらない。黒味岳の肩に出る道が当時あって、そこをたどって稜線に出たはずなのだ。その日は稜線に出られずどこか谷筋の小高いところで野営したようだ。
翌朝、昨日とうってかわり天気は良好。黒味岳への稜線をめざす。黒味岳付近に岩室があったのと、ふんわりとした足裏の感触を愉しむことのできる「花之江河」という湿原があったのを覚えている。湿原といえば木道を歩くというのが通例だが、小生らは直に湿原の感触を愉しんだわけである。尾根を辿るといよいよ宮之浦岳が眼前に迫る。山頂付近は屋久笹におおわれていた。
宮之浦岳の次は永田岳だ。山頂からは遠く北の方、開聞岳がぼんやりと見える。
永田岳から永田川を下り、永田の集落に着いた。ここで2泊したように思う。子どもたちが小生らのまわりに集まって、いつまでも他愛のないことを話している。小学校の先生が芋焼酎の祝宴に招待してくださる。漁師さんはとれたてのカツオをもってけ、とばかりにふるまってくれる。いくつになっても忘れることの出来ない一コマだ。
こうした地方の世情を少し前に「この投稿を読んで治安上は『無防備』そのものだった『古き良き時代』を思い出す」と題して投稿した。
http://www.asyura2.com/0502/social1/msg/696.html
永田では黒潮洗う浜で短時間、海水浴を楽しんだ。
当時はまだ島を一周する環状道路がなく、島の南部に行くのに東回りのバスを利用した。
安房でバスを降り、徒歩で尾之間に出る。途中サトウキビの収穫時であったので、伐採中のおばさんが「お食べ」といってキビをくれたので、かじりかじり海岸縁を歩いていった。あまりに汚い姿なので写真は省略。
尾之間では公民館に泊めていただいた。付近にはガジュマルの木がうっそうと茂っていた。
近くの海岸にある温泉にも入浴した。ここは今も屋久島観光のウリの1つになっている。知っている方も多いだろう。小生らが入浴中、30前後の「お母さん」が子どもを2人連れて、すっぽんぽんのまま、歩いてやってきた。小生らは意気地なく「きゃー」といって退散。すたこらさっさ、であった。しかし残念。
尾之間では永田と同じく沢山の子どもに囲まれた。
10年ほど前、この写真をネットで知り合った石田尾トオルさんに送ったところ、尾之間の郵便局でパソコン画像として展示してくださった。半分ほどの子どもが島に残っていて、健在だという知らせを受けた。「おれだ。おれだ」「私よ」といった調子でしばらくは写真を囲んでにぎやかだったらしい。
阿修羅の投稿にしてはちょっと長すぎるかな?これで終わりとします。