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元伊勢を睨む「鬼」
http://www.ley-line.net/motoise/motoise_06.html
酒呑童子といえば、大江山を本拠にして、都に繰り出しては人をさらい、また通りかかる旅人を襲って殺し、金品を奪うといった狼藉を働き、都人を震え上がらせた「鬼」だった。この元伊勢がある現在の大江のほかに、京都市街の西、旧山陰街道沿いの大江集落が酒呑童子の本拠地だったともされている。ちなみに、大江集落のほうには、酒呑童子の首を収めたとされる首塚大明神もある。実際の本拠地がどちらの大江だったかという点も興味深いが、ここでは、それを連勝するのは目的ではない。とりあえず、大江山を舞台にして、話を進めていこう。
大江山の酒呑童子は、なんといっても、源頼光による鬼退治の相手として有名だ。ちょうど、都の鬼門に当たる一条戻橋のたもと、陰陽師安倍晴明と端を挟んで居を構えていた源頼光は、安倍晴明が彼岸の魔物を相手にすれば、源頼光はうつせみの魔物から都を守ることを使命としていた。その頼光が、「足柄山の金太郎」坂田金時や渡辺綱、碓井貞光、卜部季武らの「四天王」と呼ばれる猛者を引き連れ、酒呑童子を退治するために大江山へと向かう。
蓬髪で大酒呑みなところから「酒呑童子」と呼ばれたというが、それならば個人ではなく、同じような風体の集団だったとも考えられる。
山伏に姿を変え、酒呑童子にうまくとりいった一行は、これを酒に酔わせた上で、一太刀に、「鬼切丸」という名刀をもって、その首を刎ねたという。その「鬼切丸」は、今の川西市多田神社に伝わっている。
能に描かれた酒呑童子は、源頼光との酒盛りの最中に、自らの出自を語る。自分たちは比叡山に住む先住民だったが、桓武天皇の平安遷都とそれにともなう最澄の比叡山創建により、比叡山を追われ、各地を転々とするうちに、大枝山に落ち着いたのだと。源頼光の鬼退治の話は平安遷都後100年以上後のことであり、酒呑童子が個人であるより、比叡山を追われた先住民の子孫たちであると考えたほうが理にかなっている。
時の権力により比叡山を追われた先住民たちは、落ちのびて、大江山に本拠を置いた。だが、朝廷は、これをも追討する。そこには、「鬼」とされたまつろわぬ者の姿が垣間見える。桓武天皇の時代は、坂上田村麻呂が率いる東国遠征軍がまつろわぬ者たちに総攻撃を加え、時代が下り、今度はやはり勇名を馳せた武将源頼光が残党狩りを行う....。それは現代の戦争でも良く見られる長期戦の戦略だ。
比叡山といえば、御所と貴船、比叡山を結ぶ二等辺三角形の貴船−比叡山ライン上に「八瀬」がある。現代に至るまで、天皇崩御の際には、この八瀬の住人たちが、その棺を背負う慣例が続いている。彼らを「八瀬童子」というが、この「童子」も、蓬髪のままの風体が子供のようで、そう呼ばれたのだという。しかも、この八瀬の人々は、自ら「鬼の子孫である」と公言してきた。この八瀬童子と後に酒呑童子と呼ばれる人間たちが、先祖は同じ比叡山の先住民だとしたらどうだろう。
朝廷に帰順した「童子」は八瀬に住む場所と朝廷の庇護を与えられ、あくまで抵抗した「童子」は、100年後に殲滅されてしまう。そんな構図が見えてはこないだろうか。
話は大江山に戻る。大江山は、元々修験の山で単に『御獄』とも呼ばれていた。源頼光一行が山伏に姿を変えていたのは、この大江山に頻繁に出入りする山伏姿なら酒呑童子の警戒心を緩めることができたからだ。あるいは、酒呑童子そのものが山伏もしくはそれに類する修験者集団で、源頼光一行をすんなり受け入れたと考えることもできる。とすれば、そもそも都を恐怖に陥れた酒呑童子の逸話自体が、体制側に与しない修験集団を陥れるための、朝廷側のプロパガンダだったとも考えられる。
大江山には、その7合目付近に「鬼嶽稲荷」がある。それが、元伊勢内宮のご神体である日室岳を眼下に見下ろしている。ご神体が「鬼」に見下ろされているというのは、いかにも奇妙な構図だ。この稲荷は鳥居の形や配置など大江集落の首塚大明神によく似ている。だが、鬼嶽稲荷は酒呑童子を祭っているわけではない。
鬼嶽稲荷から見た元伊勢内宮のご神体「日室岳」
鬼嶽稲荷の歴史は、元伊勢内宮が創建された頃にまで遡る。ここで登場するのは、酒呑童子同様のまつろわぬ民「土蜘蛛」と、それを討ち果たした「日子坐王」という人物だ。日子坐王は、開化天皇の子で崇神天皇の弟、四道将軍「丹波道主命」の父とされ、その実在も定かではない。この丹波の地に土蜘蛛を討った日子坐王の事跡を記念して建立されたのが鬼嶽稲荷であるという。「鬼」を祭る神社ではないが、それが元伊勢のご神体を見下ろす位置にあるのは、どうも腑に落ちない。さらに奇妙なのは、後に同じ地で酒呑童子を倒した源頼光は、これまた「土蜘蛛」退治でも有名なことだ。またしても、源頼光は「残党狩り」に登場するわけだ。
大和朝廷に対抗する勢力であった酒呑童子や土蜘蛛、「鬼」と呼ばれた彼らは、いったい、何者だったのか。そして、由来も祭神も定かでない「鬼嶽稲荷」が、どうしてご神体を見下ろしているのか....。
記紀神話にある国譲り神話は、土着の神であった国津神が外来の天津神に帰順した物語ととらえられている。天津神に下った国津神は、権力を失い、その存在も次第に薄くなっていく。権力闘争に破れたわけだから勢力が衰えていくのは当然のはずなのだが、そうはならなかった。明治に至るまで、天皇家は自らの祖神である天照大神よりも、大国主命をより尊崇していた証拠がある。大和最大の聖地奈良三輪山の祭神は大物主命=大国主命であり、天照大御神を祭る檜原神社がその摂社とされているところなど、「鬼」が御神体を見下ろす構造に極似している。
そもそも、朝廷の中に祭られていた天照大神が外に出され、伊勢に落ち着くまで流浪することになったのは、崇神天皇の時代に疫病が流行り、これを収めるのに神託を得ようとした天皇のもとに大国主命が現われ、自分を祭ることを命令したためだという説がある。そこには、大和朝廷という表の権力の裏に潜む影の権力の存在が見え隠れする。
一説には、大物主命はまつろわぬ民の代表ともいえる蝦夷の神「アラハバキ」が変容したものであるという。この大物主命を祖神としたのが、6世紀に蘇我氏との権力闘争に破れ、権力中枢から姿を消した物部氏であることはよく知られている。
前にも書いたが、丹後にあるもうひとつの元伊勢、「籠神社」には、今でも物部氏の末裔が定期的にお参りに訪れるとという。
元伊勢と鬼にまつわる話から、ずいぶん深いところにまで、話が及んでしまった。大和朝廷の影に見え隠れする「モノ」についての探求は別の機会に進めるとして、ここでは、本題である桓武天皇平安京に施した風水=レイラインへと話を戻すことにしよう
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