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エミシと巣伏(すぶせ)古戦場
北上川
エミシ 古代この地に住む人びとに対し、侮蔑(ぶべつ)ともいうべき「エミシ」の呼称や、さまざまな表記がなされてきた。世に言われる漢民族の中華意識で、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と呼んだ思想が移入され、埓外(らちがい)の異民族であるかの如くに見られてきた。
「……5世紀後半、倭王武(雄略天皇−479年没)が中国に上表文を送って自らの版図を記述したくだりがある。ここに「東は毛人を征すること五十五国、西は……」(『宋書』夷蛮伝・倭国の条)とあり……」
どうやら大和の支配者たちも、初めからエミシとは呼んではいなかったようである。それが国史などが編まれるようになると、毛人から蛮夷(ばんい)、毛狄(もうてき)、夷俘(いふ)、蝦夷(えみし)などと表記されるようになり、「蝦夷は海島中の小国なり。其の使、鬚の長さ4尺、尤も弓矢を善くす」などとも書かれる。いかに中国の表現が「白髪三千丈」とはいえ、ヒゲが1m20pもあったとは思われない。
『日本書記』には、伝説的な人物とされる武内宿祢(たけのうちすくね)が、東方諸国を見てまわって、その帰朝報告の中で、
「東の夷(ひな)の中に日高見国あり、その国の人、男女共に堆結(かみをわ)け身を文(もとろ)けて、為人(ひととなり)勇み悍(こわ)し、これを総べて蝦夷と曰ふ……」
とあったり、木の上や土の中に住んでいて、だらしのない野蛮な異人種がエミシであると見ていたようである。
反面、この地域は「水陸万頃(すいりくばんけい)」の地であり、「亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し、撃ちて取りつべし」と、大和の支配圏が拡大されてくるにつけ、エミシの住んでいる場所は実に豊かで、馬や金も産する垂涎(すいぜん)の的(まと)となったのである。
度重なる朝廷軍のエミシ征伐の中でも、北上川中流域、この地域で戦われたエミシ軍との合戦は、朝廷軍の大敗北という史上に残る汚点となったのである。
巣伏古戦場 延暦7年(788)12月7日征東大將軍紀古佐美が、節刀(せっとう)を賜わり天皇の檄(げき)を背に、53,000人に近い軍勢を多賀城に集結させたのは、翌年3月のことであった。
合戦の実況は、『続日本記』の中に記されている。延暦8年(789)3月28日、「官軍渡河置営三處」とあって、軍を3つに分けて衣川に陣を張ったものの、征東軍はいつまでも衣川にとどまっていた。
「但久留一處積日費粮」と、兵粮ばかり費してもたもたしていることを天皇に一喝され、6月3日になって、やっと「中後軍各2,000人」が北上川を渡って、河東から「賊帥阿弖流為(あてるい)之居」に攻めのぼった。すると300人ばかりのエミシ軍が襲ってきたが、「官軍勢強」エミシ軍は遁走してしまった。官軍は戦いながら、エミシの村を焼き討ち「巣伏村」に至った。ここで前軍と合流しようとしたが、エミシ軍の抵抗に会って果せず、そうしているうちに800人ほどの強力なエミシ軍が襲いかかってきて、後退を余儀無くされたところ、今度は400人ばかりのエミシ軍が現われて挟み撃ちにあい、河東の中・後軍の別将、進士ら名のある指揮官が5人、外に25人が戦死、矢に当たる者245人、河で溺死(できし)した者1,036人、武具をも捨てて命からがら裸で泳ぎ帰ってきた者1,257人、と朝廷軍は惨敗に終わったのである。
エミシの村の損害についても、14の村、800戸ばかりを焼いたとある。さらに「斬獲賊首八十九級」とまで戦果報告を天皇にしたものの、「官軍之損亡及三千。以此言之。何足慶快」何をか言わんやとの叱責(しっせき)である。
蝦夷征伐の歴史の中でも、これ程までの官軍の敗北はなかったのであろう。歴代天皇の治績を柱に誇らしく記録されてきた国史の中に、屈辱の戦果を詳細に書き残すという結果になった。
「巣伏村」が北上川の左岸にあったと記録されているが、現在、明確なその地域を限定することはできない。北上川の河道も幾度となく変遷している。遺跡の存在分布などから、巣伏の村落をおおよそ見当をつけることはできそうだが、「巣伏」(すぶせ・すふせ・すふし)の転訛と思われる「四丑(しうし)橋」の下を、国内有数の大河である北上川が流れていて、1,200年の時を経ても、当時の古戦場を偲ぶに、満足な風景が今も残されているのである。(秀)
http://www.city.mizusawa.iwate.jp/htm/roman/fr_rekishi.htm