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坂東千年王国論
坂東は「出雲国」だった?
第一章
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/band/ban-101.htm
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東の国
□ 坂東は「東(あずま)の国」という。それは「西国」という場合のように漠然とした東方の国々という意味ではなく、政治的・社会的な一まとまりの世界であった。例えば壬伸の乱後の『日本書紀』天武四年(675)正月十七日条に「是の日、大倭国瑞鶏を貢ぎ、東国白鷹を貢ぎ、近江国白鵄を貢ぐ」とあり、東の国は大倭国や近江国と並び称される一つの国としてとらえられている。
□ 東征した景行記のヤマトタケルは相模国の足柄の坂下で「吾嬬(あずま)はや」といってアズマの国と名づけたとある。『常陸国風土記』にも、古は足柄の岳坂より東の諸県のすべてを「我姫(あずま) の国」 といったとある。景行紀のヤマトタケルは場所を上野国の西の碓日坂とし、山の東の諸国をアズマの国と号したとある。
□ この坂東の東の国は、もしかして「出雲国」だったのではないか、という妄想をぬぐいきれない。それはあの卑弥呼の邪馬台国を、何が何でも自分の生まれ故郷に引っ張り込む主知的な発想と異なり、いささか証拠がないわけでもない。
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聖地二荒山
□ 坂東太郎−−利根川の東側の聖地、二荒山には古来から出雲神の大己貴命・妃神の田心姫命・御子神の味鋤高彦根神の三神を祭る。二荒山の二荒山神社とどちらが古来からの本社かと議論のある宇都宮市内の二荒山神社の祭神も、大物主命・事代主命を相殿に豊城入彦命を主神とする。
□ 宇都宮の二荒山神社の主神を豊城入彦命とするように、利根川の東側は豊城入彦命を祖とする毛野族、後の上野毛・下毛野氏の一大勢力が繁栄した地域である。
□ また利根川の西側は、出雲臣を先祖とする系譜をもつ武蔵国造が連綿と武蔵国を支配していた。これをもってすれば東の国は「出雲国」に染めあげられていると見るのも、あながち妄想とはいえないであろう。
□ 利根川の東側の毛野族は何故に出雲神を祭ったのか。
□ 『常陸国風土記』の筑波の郡の条に「筑波の県は、古、紀の国といひき」とある。筑波の県は茨城県の筑波山の西麓にあたる。風土記はこの筑波の県の西側に「毛の河」が流れているとを再三にわたって記しているが、それは現在の鬼怒川のことである。紀の国が毛野国となり、鬼怒川が「毛の河」すなわち「紀の河」なら、それは紀伊半島を流れる紀ノ川と同じで河名であり、紀伊国がそっくり東の国へ移ったかの様である。毛野族の移住がなければ有り得なかったことである。
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紀伊国造荒河刀辧と名草戸畔
□ 紀伊半島にいた毛野族とは紀ノ川の河口から二十キロほど溯った、那賀郡桃山町案落川のあたりにいたと思われる荒河刀辧から系譜する。『古事記』崇神段に「木国造、荒河刀辧」とあり、『日本書紀』の崇神紀には荒川戸畔とある。娘の遠津年魚目目徴比売に崇神が娶いて豊木入日子命と豊鋤入日売が生まれた。この豊木入日子命が上毛野・下毛野君等の祖と『古事記』は記し、『日本書紀』には豊城入日子命の子孫の系譜もある。
□ では、どうした理由から荒川戸畔・豊木入日子命の一族が東の国へ移ったかであるが、その前に一族の紀伊国における位地づけをみておかなければならない。
□ 『古事記』の荒河刀辧は木国造、紀国の国造とあるから、紀国にあって相当な実力者であったことがうかがえる。ところが「紀伊国造系図」には、荒河刀辧の名は片鱗も載せられていないのである。
□ 紀国には別に紀ノ川の河口に名草戸畔なる者がいて、神武東征の折りに殺されたと記紀にある。「紀伊国造系図」には大名草比古命の名があるから、名草戸畔の系譜を引くものと解することができる。そしてこの系が紀伊国造となるのは大名草比古命の曾孫の紀豊布流の代で、このとき初めて紀直という姓と氏族名がついた。つまりそれ以前、紀氏は国造ではなかった。国造荒河刀辧は種々の系譜や系図を照合してみると大名草比古命とほぼ同世代にあたるから、国造の地位は荒河刀辧の系から大名草比古命の系の子孫に移ったと見なすことができる。
□ あるいはまた、荒河刀辧と名草戸畔―大名草比古命の系は同族で、単に国造の地位が同族内で移ったのではないか、と解した方が合理的である。
□ というのも、荒河刀辧の孫の豊城入日子命は、崇神の皇子として皇位を継いだかもしれない地位にあったから、紀伊国造の地位は別な系統が継いだととらえることができる。しかし豊城入日子命は皇位継承権を得ることができなかった。
●紀伊氏系図
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御諸山の夢占
□ 『日本書紀』によると、豊城入彦命と異母弟の活目入彦命尊の二人は父崇神の命で夢占をした。その結果、豊城命は御諸山に登って東に向かって槍を突き出し、刀を振るった夢をみた。活目入彦命尊は御諸山に登ると四方に縄を張りめぐらせて粟を食う雀を追う夢をみたという。そこで崇神は活目尊を跡継ぎとし、豊城入彦命に東の国を治めさせることにしたという。
□ ここから豊木入日子命は崇神の子だから、東の国は後の大和の中央政権に支配させた、とする説が大勢としてある。一方で、東の国の上毛野・下毛野君等の子孫が皇統譜につなげて、その先祖を飾ったとする説もある。
□ 前者の中央政権による支配説は奈良盆地にはじまる前方後円墳体制の東の国への浸透、と同時に、邪馬台国の卑弥呼以来の三角縁神獣鏡の配布をもって、その証拠とするようである。しかし、もしもそうだとすると、東の国の毛野族はその聖地に伊勢神宮の天照大神ではなく、出雲神を祭らねばならなかったのか、説明できないであろう。
□ 後者の説は、東の国に限らず、先祖を皇統譜につないだ氏族の系譜は信用できない、仮冒だとする系図一般に対する不信感に根差しているように思える。まして上毛野・下毛野君の場合は、その系譜を載せた『日本書紀』の編纂に自ら携わっていたのだから、なおさら怪しいと断じられなくもない。
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紀伊国の出雲神
□ 紀伊国造が斎祭ったのは、その祖天道根命以来、天照大神であると『国造旧記』はいう。それも神武東征のときからというから、名草戸畔の殺されたときにあたる。式内社の日前・国懸二社である。一社の祭神が天照大神でもう一社は国造家の祖神を祭るとされるが、文献によって異なるため、どちらの社が天照大神を祭るか分からない。一方、紀伊国には元来から名草郡に式内社伊太祁曾神社があり、名草戸畔の一族がこれを祭るものとみなせる。
□ 伊太祁曾神社の祭神は『日本書紀』神代紀に次のようにいう。
初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種をもちて下る。然れども韓地に植えずして、ことごとくに持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八州国の内に、まきおうして青山になさずということなし。このゆえに五十猛神を称づけて、有功の神とす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり。
□ また同書に次の様にもある。
素戔嗚尊の子を号して五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に柧津姫命。凡て此の三神、また能く木種を分布す。即ち紀伊国へ渡し奉る。
□ 『先代旧事記』地神本紀には国造が祭ったとする。
五十猛神亦云大屋彦神、大屋津姫神、柧津姫神、巳の上の三柱并せて紀伊国に坐す。即ち紀伊 国造斎祠る神也
□ 出雲神を祭る名草戸畔の一族は、天照大神を祭る天道根命の一族によって、暫時、紀伊国における主導権を奪われた。それは名草戸畔が殺されたときに始まり、国造の地位は荒河刀辧の系から大名草比古命の系の子孫に帰したときが決定的だったのではないか。その結果、荒河刀辧の子孫、豊城入彦命たちは出雲神を担いで紀伊国から東の国へ移住せねばならなかった。そして聖地二荒山に出雲神が祭られたのである。
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倭国の出雲神
□ しかし、そうであったとして、それでは豊城入彦命が皇位継承に敗れたという御諸山の夢占とは一体何だったのか。
□ 御諸山とは倭国の三輪山のこととされる。そこに大物主神が祭られていた。大物主神は出雲神大己貴=大国主神のまたの名である。「汝は誰ぞ」という大己貴神の問いに答えて「吾は是、汝が幸魂奇魂なり」という。これが大三輪の神であり、三輪山に限っての祭神名である。
□ 大物主神は三輪の磯城族が代々祭ってきた。大物主神の神妻になった箸墓伝説の倭迹迹日百襲姫命とは、孝霊の皇女であるが、磯城族の出身であった。神妻になるということは、その神を祭祀する巫女に他ならない。皇統譜において欠史八代といわれるそれは、何らかの形で磯城氏と関わる。
□ 言い換えれば、三輪山の出雲神大物主神はこの欠史八代の祭神ではなかったのか。天照大神が祭られたのは崇神朝になってからである。
□ ところが、崇神朝にいたって大物主神は崇り神となり、国内に疫病多く、民は亡んだ。占ってみると百襲姫命に憑いた大物主神は「よく我を敬い祭らば必ず平む」というので、百襲姫命は祭るが験が現われない。そこで他の三人と崇神が夢占をすると同じ夢をみて、大物主神は大田田根子をもって吾を祭れば必ず平むという。茅渟懸の陶邑から大田田根子を呼び出して祭らせると、さしもの大物主神の崇りも祭り鎮められたという。
□ その後、大田田根子は大物主神の祭主となり、三輪氏等の祖となったという。それは磯城族から三輪氏への三輪山の祭主の交替に他ならなかった。そしてこれ以降、記紀の記事から磯城氏の名は一再表われない。
□ この三輪山の出雲神大物主神の祭主交替と、御諸山=三輪山における豊城入彦命たちの夢占は無関係なのか。共に出雲神を祭る者の敗北が語られているのではないか。因みに、大物主神の祭主から降ろされた磯城族出身の百襲姫命の父、孝霊は紀伊国造族の女が母であった。豊城入彦命と同様に紀伊族の中で生れ育ったのである。
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「出雲」の国譲り
□ 紀ノ川の上流吉野川を溯ると、そこは三輪山の南麓に出ることができる。その途中、紀ノ川の北側に葛城山があり、葛城族と賀茂族がいた。そしてここにも出雲神大国主神の子、阿治須岐託彦根神を祭る高鴨社、鴨都味波八重事代命神を祭る下鴨社がある。
□ 葛城山の高尾張には神武東征以前から葛城土神の剣根という先住の一族がいた。この葛城族もまた皇統譜欠史八代と関わり深かった。
□ 葛城国造族の味師内宿禰は異父兄弟で紀伊国造族の武内宿禰と争って敗れてしまい、その結果、同族の大海姫命亦名葛城高名姫命は八坂入彦とともに東国尾張国へ移住せざるを得なくなる。この一族が尾張氏の祖である。
□ その後の武内宿禰は葛城族へ入り婿して、葛城族を支配したのは当然の成り行きであった。八坂入彦の父も豊城入彦の父と同じ崇神である。その妹の渟名城入姫は倭国魂神を祭るが、髪落ちて痩せ細り、祭ることができなかった。替わって倭国魂神を祭ったのは倭直の祖長尾市であったが、これが後の倭国造である。それまで倭国を支配していたのが三輪山を祭る磯城族であったとすれば、その消滅とともに倭国造が現れたことになる。
□ 御諸山における豊城入彦命の夢占による敗北と紀伊族の東の国への移住、葛城山から尾張族の東国移住、さらには三輪山の磯城族の消滅など、全ては倭国で出雲神を祭ってきた者達の敗北の姿であった。とすれば、崇神以前の皇統譜欠史八代、元倭国とは「出雲国」意外ではない。そして彼等の敗北とはこの「出雲国の国譲り」だったのではないか。
□ そして、だからこそ坂東の毛野国の聖地、二荒山に出雲神が祭られねばならなかった。 (この章つづく)
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毛野族の系譜
□ 記紀の皇統譜欠史八代の倭国とは、元出雲国だった。だから「出雲の国譲り」とは、山陰出雲のそれではなく、倭国内の出来事であり、それまでの倭国、元出雲国を構成した成員たちは何処かへ退去、移住する他なかったのである。東の国の毛野族が紀伊国から移住し、それまで祭っていた出雲神を聖地ニ荒山に遷したのもその結果であった。
□ とはいえ、元出雲国の成員の全てが倭国から退去したわけでもない。
□ 例えば、毛野族が東の国へ移った後の紀伊国には、後の紀伊国造族がいた。葛城高尾張から尾張族が退去しても葛城族は残り、後の蘇我氏となった。彼等は倭国の新たな倭王権の元でそこに居着いたのである。同じことは毛野族の内部でもおきたようで、撤退組と居残り組に分れた。
□ 東の国へ移った毛野族、荒河刀辧―豊木入日子命の『日本書紀』に出てくる 系譜をあげると次のようになる。
豊城入日子命―八綱田命―彦狭島命―御諸別命―大荒田別命―上毛野君
□ 豊城入日子命の子の八綱田命はまるで東の国に縁がない。そればかりでなく、狭穂彦王の乱に際して城に火を放って撃ったのが八綱田命であり、その勲功として倭日向武日向彦という号を授かっている。狭穂彦は『古事記』の系譜によると日子坐王を父に、春日の建国勝戸売の女、沙本の大闇見戸売を母として生まれている。日子坐王の母は丸爾族だから両親とも三輪山の磯城族とともに元出雲国の一員であった。八綱田命はかつての仲間を売って新王権についたことになる。だから八綱田命は当然東の国に縁がなかった。
□ 八綱田命は東の国へは移住せず、紀伊国にのこったらしい。それも後に紀伊国から分割される和泉国である。というのも『新選姓氏録』にこの八綱田命をはじめ豊城入日子命を祖とする氏族が何件か載せられているからである。豊城入日子命を祖とする佐代公と茨木造、八綱田命を祖とする登美首と軽部、御諸別命を祖とする珍県主と葛原部などである。
□ この中で注目すべきは珍(ちぬ)県主である。三輪山の磯城族に代って大物主神を祀った大田田根子は、茅渟懸の陶邑から呼び出されていた。しかも、八綱田命が勲功として授けた倭日向武日向彦の号とは、三輪山頂の神坐日向神社の神社号に他ならないから、八綱田命と大田田根子の関係は根深いものとみなせるのである。狭穂彦王の乱とは、だから三輪山の出雲神をめぐる祭祀権闘争であったといえよう。
□ 国造本紀によると狭穂彦王の三世孫、臣知津彦の子の鹽海足尼は甲斐国造というから、これもまた東国へ移住したらしい。
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鐸を祭る
□ ところで、狭穂彦王は妹の狭穂姫とともに果てたが、火焔の中で産まれた誉津別命のみ助け出された。しかし誉津別命は成人しても子供のように泣き、口がきけない。クグイの飛ぶのを見て初めて「何か」といったので、クグイを出雲国(一説に但馬国)で捕らえてくると、誉津別命はもてあそんで口をきいた。これは『日本書紀』のはなしで、『古事記』の記事はさらに詳しい。
□ 本牟智和気はクグイを捕らえて与えてもうまく口がきけなかった。そこで夢占をすると出雲の大神が現れ、宮を修理すればよいという。本牟智和気は出雲へ出かけて出雲大神を拝すると口がきけるようになったので宮を造ったという。
□ 『尾張国風土記』逸文にも後半にあたる品津別の部分の記事がある。いずれも出雲神によって誉津別命は口がきけるようになる。この出雲神を通説は当然ごとく山陰の出雲国の神とするが、誉津別命の出自からみて倭国の三輪山の出雲神、大物主神ではなかったか。
□ この誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、やはり卜して日子坐王の孫の曙立王・兎上王兄弟であった。そのとき曙立王は倭は師木の登美朝倉の曙立王という名を与えられたと『古事記』はいう。師木は三輪山麓の磯城に他ならず、その名において出雲神の加護を得ることが出来たのである。
□ さらに兄弟の系譜が『古事記』にあり、曙立王は伊勢の品遅部君と伊勢の佐那造の祖、兎上王は比売陀君の祖である。このうち比売陀君の名は他の文献に一再出てこず、himedaはmがぬけたhieda、つまり『古事記』を誦んだ稗田阿礼を出した稗田氏かもしれないと考えられる。また伊勢の佐那造とは、おそらく銅鐸・鉄鐸の鐸に関わる一族である。というのも、銅鐸について『記・紀』はあからさまに語らないが、齋部宿禰廣成が上申した『古語拾遺』には鉄鐸を「サナギ」としており、佐那造の名に重なる。倭国を追われた出雲族とは鐸を祭祀したのだ。
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近江国日枝神社
□ 近江国琵琶湖西岸の大津市坂本に日吉大社がある。元は日枝神社といい、比叡山を神体山とする。祭神は大山咋神に加えて大己貴大神を祀っている。大山咋神については『古事記』にも「近淡海国の日枝山に坐す」とあるから、元々の地主神である。 大己貴神がここに祀られた経緯は社伝等によると、大化改新後に白村江の戦いに敗れた天智朝が近江の大津へ遷都したとき、宮城守護のために大和の三輪神社から勧請したとされる。
□ 比叡山に天台宗の延暦寺が開かれ、その南側の志賀の長等山麓に薗城寺(三井寺)が起こった。長等山の薗城寺は神仏習合の本地垂迹説をもって比叡山延暦寺に対立する。寺門派といわれた薗城寺の言い分は、志賀の地こそ天智朝が近江京のあったわが国中枢の地と称えた。薗城寺の寺伝では天智が企図して大友皇子が創建したという。山門派の延暦寺は薗城寺の言い分を認めた上で、天智よりはるか以前の成務朝は坂本の安太に高穴宮を営んだから、こちらがわが国の中枢地だと主張して対抗した。因みに成務は葛城の高尾張から尾張国へ移住した八坂入日子の妹の八坂入日売が美濃国泳宮にいたとき、丹波国の景行があいて産まれた。
□ つまり、日枝山に出雲神を祀る日枝神社は、それほど古からあるという後世の主張である。天智の近江遷都の翌年、宮城の西北の山中に崇福寺建立のために地ならしをしていたとき、高さ五尺五寸(約167cm)の銅鐸が掘り出されたと『扶桑略記』が記している。最初の銅鐸出土記事であり、この寸法が事実とするば最大の銅鐸である。大津宮の所在や規模も明らかになっていないから、崇福寺の正確な位地も分からない。この銅鐸を祭祀したのは何者なのか。
□ この坂本から十キロほど北方の小野に小野神社がある。和迩の地名や和迩川が琵琶湖に流こんでいるように、和迩族の居住地である。式内社小野神社を祀る小野氏も和迩族から出た。祭神は和迩氏祖の天足彦国押人命と七世孫で小野氏祖の米餅搗大使臣命を祀る。付近一帯に近江国有数とされる古墳時代前期の前方後円墳の大塚山古墳はじめ、多数の古墳がある。
□ 倭国を追われた出雲族は鐸を祭祀していたとすれば、この和迩族出身の小野氏が最も崇福寺から出土した銅鐸を祭祀した可能性が高い。というのも、小野氏は信州伊那の小野神社を祀り、諏訪神社などと同じく鉄鐸を祭器としている。諏訪地方は天竜川を溯った三遠式銅鐸の終着地点である。
□ 小野氏が祭祀したであろうと思われる鉄鐸は、さらに東山道を南下して、毛野国は毛野族の聖地ニ荒山に祀られた。ニ荒山頂から百三十一口の鉄鐸が出土している。ニ荒山神社の初期の神主は小野氏であり、小野猿丸大夫の伝説をのこしている。因みに猿を神の使いとしたのは日枝神社である。
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ヤマトタケルの東征
□ 毛野族の倭国あるいは紀伊国からの東の国への移住は疑うべくもない。とはいえ、その移住が簡単に為されたはずがない。『日本書紀』は 豊城入日子命に東国統治を命じたとしても、豊城入日子命自信が東の国へ移った形跡は記していない。孫の彦狭島命が東の国に就こうとして、旅の途中で客死してしまい、逆に東の国の人々が屍を担いで上毛国へ運んだという。曾孫の御諸別命の代になって本格的に東の国の統治が始まる。『先代旧事紀』の国造本紀にも、崇神朝に彦狭島命を上毛野国造、仁徳朝に豊城入日子命四世孫の奈良別命を下毛国造にしたとある。
□ 毛野族の東の国統治記事は蝦夷征伐に終始する。この蝦夷は東北の蝦夷地とする説もあるが、それは後代のことであろう。弥生時代後期の古墳時代の初めの東の国には、異なる土器がそれぞれの地域圏を形成していた。上毛野地方では樽式土器をもつ先住民がいたが、しだいに陶汰されて東海系の石田式土器に取って代わられている。東の国は後年になっても東夷(あづまえびす)と呼ばれたくらいだから、毛野族が平和な移住であったとは考えられない。
□ 例えば出雲国の国譲りに際して『古事記』は、大国主神の子の建御名方神は科野国の州羽海に閉じ込められたとするが、地元の諏訪神社の伝承では、諏訪の守屋神と戦った末に征服した伝える。毛野族の東の国移住に際しても同様なことがあったのではないか。『常陸風土記』は律令体制下になってから編まれたものだが、常陸の蝦夷は討伐されるべき賊として、策略によって皆殺しにする行為を、さながら英雄的偉業のように讃えている。
□ 毛野族は紀伊国から出たことは既に述べた。豊城入日子の先祖と見なせる名草戸畔の子孫の智名曽の娘の乎束媛に、道臣命を祖とする大伴氏の角日命が娶いて豊日命が生まれた。その子の武日命はヤマトタケルに従って東の国征伐についた一人である。東征には他に吉備武彦がいたが、紀伊の女を母とする孝霊の子あるいは子孫にあたる。日本武尊自身も播磨国出身ではあるが、その末にあたる。
□ ヤマトタケルの東征は日本武尊一人というより、この時代の多くの東征を仮託した物語ではないかといわれる。そこに関係する系譜からすると、あたかも毛野族の東征であるかにみえる。ヤマトタケルが倭国へ凱旋できなかったように、毛野族もまた東の国へ居着いてしまう。
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毛野族の秘密
□ ところが大和国に律令政権が樹立されると、毛野族は東国六腹の朝臣として上毛野君・下毛野君をはじめとする諸族が、大和政権の中堅官僚として登場するのである。
□ 天智二年(663)の白村江の戦いに前将軍の上毛野君雅子、天武元年(672)の壬申の乱には東国勢として佐味君宿那麻呂と大野君果安、天武十年(681)『日本書紀』編纂の史局設置の際、上毛野朝臣三千は諸臣の首座に名があがっている。また大宝元年(701)の大宝律令撰定の実務統括者に下毛野朝臣古麻呂が就いている。
□ 毛野族が紀伊国出身であり、元倭国で出雲神を祭り、国譲りの結果、東の国へ移住したのなら、追われた大和の政権の中枢に、このとき何故返り咲くことができたのか。やはり毛野族は、倭国政権による東の国の征討と支配の尖兵だったのか。
□ 問題は「出雲の国譲り」にある。
□ 国譲りの「出雲」は山陰出雲国にはない。それにもかかわらず「出雲の国譲り」の結果としての出雲大社が山陰の出雲国に存在する。
□ 上毛野朝臣三千は『日本書紀』編纂に際して、その立場から自族に有利な内容を採用すべく働きかけたであろうことは容易に想像できる。とはいえ、例えば系譜を仮冒するなどといった事で満足しただろうか。もっと国家の誕生に関わる根源的な場面で、自族に有利な展開を望んだのではないか。
□ 毛野族が古来から出雲神を祭祀したことは、覆うべくもない事実としてあった。しかし、その「出雲国」を自から手放したという、屈辱的な立場に甘んじることは出来なかった。
□ そこで山陰にあった出雲国が身代わりとして引き出され、あたかも山陰出雲国が倭国政権に国譲りしたかのごとき「出雲の国譲り」神話を創出したのだ。山陰の出雲国には国譲りの主人公という栄誉ある立場と、国譲りの結果を象徴する証拠として出雲大社が与えられた。出雲国は名を採り、毛野国は実を取ったというべきである。
□ だが、毛野族は何故そこまでしなければならなかったのか。
□ それが利根川の対岸、武蔵国の国造族は正真正銘の出雲族、山陰出雲の出雲臣の末裔を称していたことによる。出雲神を祀る毛野族は武蔵出雲族との、坂東における覇権をめぐって、それは国家レベルへ持ち出された途方もない謀略だったのではないか。
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/band/ban-101.htm