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Kは思うのだが、人間という存在は不可思議である。
「私は幸福になりたい」幸福の定義は問題もあるが、誰でも漠然とそう感じているだろうと思う。では、「何が、どうすれば幸福なのか?」
金銭的に裕福ならば人は幸福であろうか?コレクターという趣味的な意味合いで「お金を集める人」もあるのだろうが、Kはお金は使ってこそ価値があるのだろうと思うが、「幸福という物はお金で買えるか?」と言う命題でもある。多分だが、ある程度は「買える」のだろうとも思う、しかし、本当の意味では「買えない」のだろうとも思う。
「(私の)個人の幸福」と「他人を含む、全体としての幸福」と言うのは誰の中にも程度に差はあるとして「同居する相反する指向性」なのだろうとKは思う。
「他人の笑顔を見ることで自分の仕事に喜びを見いだす人」というのは確実に存在する。「他人の笑顔(他人の幸福)」を引き出す事が「その人の幸福であり、存在価値」と感じるという献身的な人というのは「自己本位の人」には理解できないだろうが、誰の中にもある程度は存在するのだろうと思う。ただし、これは本能なのか?教育によって形成されるのかはハッキリ言って良く分からない。
自分が率先して幸福になることが「全体の幸福に繋がる」と言う事もある程度は正しいのかもしれないが、大多数の人は「他人より少しでも良い暮らしをすることこそ幸福」とも考えているのではないだろうか?
もしも、そうであるならば、人間の不幸は絶対に解決不可能だとも言える。人は誰も「一番になることを目指し、暫定的に一番になってからは、その地位を確保する為に気が抜けない」と言う事になってしまうからである。
人間という存在の幸福を計る目安の一つが「笑っている時間の長さ」と言う森永卓郎氏の意見はかなり正確だろうとKは考えている。それは、必ずしも金銭的な裕福さとは比例しないだろうとも思う。
しかし、過労死寸前の労働を「笑顔でしていれば良い」とも思えない。
月収10万円を「10万円も貰えた」と捉えるか「10万円しか貰えなかった」とするのかでも幸福度合いと言う意味合いでは「天と地の開き」がある。
とは言え、10万円では「最低限の文化的生活が営めるのか?」という側面もある。工夫次第では「1万円で1ヶ月生きられると言うような番組」も放送されていることはされているが、あれは「食費だけが問題になっている」事を忘れるべきではない。現実では国民保険の掛け金だけで1万円では終わりである。
「社会は変わらない」ので「個人を優先して変えるべき」というのはデラシネさんの考え方である。
この考え方には「2つの意味があり、それぞれに分離して広がっていく」
主体としての個人の認識として「現状を肯定して受け入れる」という意味と「現状を否定して、打破するために個人の出来る範囲で生活の改革をする」と言う意味である。すなわち、今勤めている会社に適応するか、転職を考えるかと言う事である。後者では場合によっては国外移住も視野に入れる事になる。
現在の流れの中では「最終的には、この手法に行き着くのだろう」とKは考える。
個人の生活防衛が手一杯で「他人の事までは考える余裕はない」と言う方向に否応なく流れている。と言う事である。
しかし、その一方で「この流れを変える」という「個人よりも社会を変えるのが先」という考え方もあり、Kは「その方が正しいし、簡単」だろうとも思う。「働きすぎない社会の法規制」というのは可能であり、現在の流れの中にも潜在的にある思考であるだろうと思う。「労働条件の監視と警告」というのは行政が決断しさえすれば明日からでもできる事である。
日本の人口の多くは労働者によって占められている。
その労働者に時間のゆとりと適正な賃金が保障されることが「日本が総体的に幸福になること」だろうとKは考えている。
他人の生活を羨み、妬むという考察法の改革こそ「全ての改革の突破口」なのだろうと思う。