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(回答先: もしかして、Kは読み間違いましたか? 投稿者 考察者K 日時 2005 年 8 月 30 日 21:16:41)
>ただ、大筋では「自分の生きたいように生きることが幸福」な事であり、
>回りに惑わされずに「自分の考え方を変えるのが先で、社会は変わらない」
>と考えるのがデラシネさんで、「日本と言う国では、それは難しい」
>というのがKの意見という対比構造だろうと思っています。
「個人が変われば、社会は変わる」が小生の主張です。
それはともかく、「原点」において、「そこを変えなければ、何も変わらない」という小生と、「そこを変えるのは難しい」というKさん。
「いつまでたっても話が平行線」という原因は、そこですよね?(笑)
やっと、「意思疎通」成りました。(笑)
>しかし、「しがらみ」というのが日本人の感情の中の大きなウェートを占めている事もまた確かですし、
>海外の日本人がそれなりに受け入れられているのも「健全な日本という国があってこそ」
>と言う意味合いもあります。(勿論、本人の努力を否定するわけではありません)
御意です。
そのことはまた、「日本が軍隊をイラクに駐留させたことにより、真っ先に命を狙われるのは在外邦人だ」という小生の訴えにも通じることです。
ですから小生、投票できないにもかかわらず、せっせとここに書き込みを続けている次第です。
何度も何度も、小生が「マクロの眼・広角の眼」と言っているのは、そこなのです。
「広角の眼」で見えないことというのは、「日本がどんなに悲惨な国となっても、ここで生きていかざるをえない」という人々の切実な思いでしょう。
「我々は、社会と一蓮托生」という暗黙の了解。
そしてマクロの眼で見えないこととは、「そうでしょうか?」という広角人間の視点。
Kさんの思想の根底をなすものが、まさに「人は変われない」というものではないでしょうか?
そして小生の思想の根底となすものは、「人は変われる」です。
Kさんの思想と、小生の思想。
これはきっと、並列させてこそ意味があるのだと思います。
ここまでくれば、ぶっちゃけた話、Kさんの一連の投稿をまとめて掲載する際に、「この一連の私の主張は、『人は変われない』ということを前提とした私の考察です」というサブタイトルをつけねばなりませんよね?(笑)
だが小生は、「人は変われるか、変われないか」ということを論点にしてはおりません。
究極的に我々は、「自身も含め、どうすれば人々が幸せになるか」を話し合っているのですから。
そうすると、「人は変われない」を前提とするKさんの主張からすると、「我々が幸福になる為には、社会を変える以外にない」となる。
小生の主張からすると、「社会は変わらなくとも、自分を変えることによって、人は幸福を獲得することができる」ということですよね。
どちらにしろ「幸福」というものは、究極的に「個人」に帰するものですから、あとはそこに至るまでのプロセスの問題なのかもしれない。
人は幸福を求めて生きている、幸福を求めて人生の荒海を航海しているという真実において重要なことは、そこに至るまでのプロセスなのではないでしょうか?
そうすると、Kさんの「やり方」と小生の「やり方」の、どっちが簡単なのかという話になる。
乱暴な言い方かもしれないが、「社会を変えることによって、自分も(お零れ的に)幸せになる」Kさんのやり方と、「自分を変えることによって、手っ取り早く自分だけ幸せになっちまう」小生のやり方。
ここで、別な側面から見てみましょう。
ひとつの命題として、「(自分が)不幸な人が、他人を幸福にすることができるか?」という命題です。
答は明白ですよね。
これはとても大切な事実です。
人を幸福にできるのは、幸福な人だけなのです。
人を幸福にしたかったら、まず自分が幸福にならなければならない。
小生の思想の原点は、ここにあります。
いちばん大切なことは、難しいことはともかく、「とりあえず(自分が)幸せになること。」
そうして幸せになって、次に人を幸せにすることです。
皆が皆、そう考えることによって、結果として社会は変わっていくでしょう。
小生は、今流行の「精神世界」の話をしているつもりはありません。
ものの道理を話しております。
自分を変えるということは、実はそんなに難しいことではないのです。
それは、「自分自身とよく話し合ってみる」ことなのです。
自分には何が求められているか、ではなく、自分は何を求めているか。
常に主体を「自分」とすれば、あんがい簡単に答は出る。
それがなかなかできないのが日本人、とも言えますが。