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(回答先: 中世における八女点描(1)−−ミュータント・ホリエモンをはぐくんだ隠れ里 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 8 月 27 日 08:50:23)
中世における八女点描(2)
森 山 靖 章
http://www.wing8.com/dcity-yame/kurashinojiyoho/200111/con01.html
五條家秘蔵 八女奥地の古文書
平地から眺めると、八女の山岳地帯は有り触れた、そして、大地に這い蹲ったような低い山並としてしか受けとれない。
ところが、一歩足を山岳地帯に踏み入れると、昔、要塞堅固の地であったことが、成程と頷ける地形を示している。
つまり、北部は断層山脈で有名な耳納山脈、東部大分県側は御前嶽、釈迦嶽など千二百米の山が、また南部熊本県側は姫御前嶽、国見山の千米級の山々が聳えたっているのである。
さて、六百年ほどの昔にたち帰るとしよう。後醍醐天皇を奉る朝廷(南朝)と足利尊氏を始めとする新興武家(北朝)との利害が衝突し、戦乱に明け暮れた南北朝時代のことである。
この北部九州の地も、南北両派の戦火の真直中にあったが、八女郡の矢部には最後まで南朝に忠誠を尽くした五條一族があった。
第二室戸台風と呼ばれている低気圧の九州上陸が報道されていた昭和三十六年九月十五日、怪しげな雨雲が乱れ飛ぶなか、今なお当時の古文書が保存されている五條家を奥八女の地に尋ねた。
南北朝時代五十七年の間、五條氏を始め八女郡の祖先たちが、終始南朝に加担したその思想的背景として、宋の滅亡を機として起った殉忠報国思想である朱子学の影響があげられているようだ。
当時、熊本の菊池氏は朱子学の大家、寒嶽禅師や大智大和尚を迎えて、その教育をうけていたが、これが八女の地にも影響を及ぼしたものと見られている。
一三三六(建武三・延元元)年、足利尊氏は京都で一敗地に塗れ、九州に逃れてきてから、九州の戦火に油が注がれた。つまり、菊池武敏のひきいる南朝軍が、これを香椎の多々良湾に迎え撃ったが、南朝軍は敗退を余儀なくされた。
その後、尊氏は九州全土に勢力を伸ばしていったが、後醍醐天皇は劣勢をはね返すため、懐良親王を征西将軍に任じ、西下を命じた。
一三三八(暦応元・延元三)年の秋、親王は五條頼元ら十二人の公卿と共に九州に向い、薩摩国谷山城に入城。その後、北上して一三四八(貞和四・正平三)年肥後の菊池氏のもとに到達した。
頼元、良氏、良遠ら五條一族は、八女郡矢部を根城として、木屋行実、黒木定善らと共に、親王を奉じて筑後は勿論、豊後、豊前、筑前へ進出した。
一三五九(延文四・正平一四)年七月、親王は五條頼元、菊池武光ら南朝軍四万をひきつれ、筑後川畔大保原で大友、小弐の北朝軍に潰滅的な打撃を与え、九州の主導権を握って、京都進攻も企てられた。
しかしその後、将軍義満は北朝の勢力挽回をはかり、九州探題として今川了俊をつかわすに至り、再び戦火は燃え広がり、親王勢は苦戦することとなった。
懐良親王は征西将軍の職を良成親王にお譲りになり、自らも肥後、矢部に立て籠り奮戦されたが、戦況は進展せず、一三八三(永徳三・弘和三)年お亡くなりになったのである。
良成親王を後征西将軍と仰いだ南朝軍は、勢力を盛り返そうとしたが、各地で敗退し親王は最後の拠り所として五條一族の死守する矢部大杣を御座所とされた。
こうして南朝軍劣勢のまま、一三九二(明徳三・元中九)年、両朝の和議が成立するに及び、戦乱も終熄するに至った。
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五條家には、南北朝時代から慶長年間までの五〇通の書簡を始め、三六五通の古文書が十六巻にまとめて保存してある。
このなかには、後醍醐天皇の御宸筆と伝えられるものや、後村上天皇の御宸筆、懐良親王の御自筆のものがあり、当時の事情を窺うことが出来る。
また、五條頼元が懐良親王を奉じたとき、朝廷より御剣、金烏(太陽の中に三足の烏がいるという中国の伝説によるもので、太陽の異称)の御旗、それに菊桐の紋章を賜っているが、御剣は現存していない。
屋敷の一角にある宝物蔵には、そのほか筑後川の戦の際用いた鎧、兜などがあるが、最後にその後の五條家のあゆみを跡づけてみよう。
征西将軍を奉じて矢部の奥地に居住した五條一族は、室町時代から秀吉の時代までの間、十三代にわたり同地に留まっていた。
しかし、讒言により秀吉から退去を命ぜられ、大友宗麟の助言も空しく、加藤清正のもと、肥後の国に移住したが、約二十年後、徳川家光の時代、一六二六(寛永三)年、立花柳川藩主の客分として迎えられ、八女郡の大淵に帰住した。
なお、一八九七(明治三〇)年七月には、男爵の爵位を授けられている。
現在五條家の屋敷は、福島からバスで矢部へむかう途中の城原という停留所のすぐ右上にある。門を潜ると、右方に宝物蔵、正面に屋敷が、樹間に静かな佇まいをみせている。
また、左の山手には大きな石楠花があるが、初夏には、庭一面の躑躅とともに紅く咲き乱れ、古の栄華を夢みるに恰好の雰囲気を醸しだすそうである。
(福岡中央銀行会長)