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http://www.asahi.com/column/wakamiya/TKY200507260325.html
2005年07月26日
一、昨八月六日、広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり
大本営がこう発表したのは、原爆投下から1日たった1945年8月7日の午後。広島には人類が初めて経験する地獄絵図が広がっていた。長崎の悲劇はさらに2日後に訪れる。
激しい熱線、爆風、放射線。一瞬で命を失った人、生きて死の苦しみを味わった人、今に至るまで後遺症にさいなまれる人々。数十万に及ぶ死傷者の大半が普通の市民や子供だった。
「従来のいかなる兵器、投射物に比し得ざる無差別性残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり」。10日、日本政府は米国に抗議したが、顧みられることもなく15日の無条件降伏に至った。
間もなく60年が過ぎる。
あんなことが許されるのか。米軍は東京など多くの都市に無差別攻撃を繰り返した末、ついに原爆を落とした。「もし米国が負ければ、戦争犯罪になっていただろう」。ルメイ将軍のもと対日作戦にかかわった後の国防長官マクナマラ氏は、最近の映画『フォッグ・オブ・ウォー』でそう述懐した。
◇
だが、勝者は決して非を認めない。原爆投下から3年後の48年8月6日、広島で行われた平和祭(後の原爆慰霊式)に占領軍代表として出席した英連邦軍のロバートソン総司令官はあいさつで「広島市が受けた懲罰」は「日本全体への報復の一部」と語った。
原爆を落とさなければ日本は降伏せず、本土決戦で壮絶な抵抗にあっていただろう。戦争を仕掛けた日本が「原爆」で被害者に変わってしまうのも納得できない。それが米国の論理と感情だ。96年、原爆ドームが世界遺産に決まった時も、これに反対した。
だが、わざわざ人々が活動を始めた月曜日の朝8時過ぎを狙い、しかも人口が密集する市心部に原爆を落とす必要があったのか。原爆の威力を試してみたかったのではないか。緊密な同盟関係に至った日米の間に、いまもそんな割り切れなさが沈んでいる。
とはいえ、非道の責任を米国にだけ求めるのはフェアでない。最近放送された2本の『NHKスペシャル』を見て、つくづくそう感じた。「沖縄 よみがえる戦場」(6月18日)と「僕らは玉砕しなかった〜少年少女たちのサイパン戦」(7月2日)である。
沖縄でもサイパンでも、島民が日本軍とともに悲惨な戦いを強いられた揚げ句、集団自決を求められた。
沖縄では、集落ごと米軍のスパイになったと疑われて日本軍に銃殺された人々もいる。サイパンでは「天皇陛下万歳」と叫びながらがけから身を投げたり、敵に決死の突撃をしたり。自決用に配られた手榴弾(しゅりゅうだん)で一家心中した家族も少なくない。九死に一生を得た両島の人たちが老いて昔の「生き地獄」を語るさまは、見ていて息をのむばかりだった。
自決の指示に従ったのは「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の一節をたたき込まれていたからだ、と彼らは口々に言う。捕虜になるくらいなら死ね――皇国意識を徹底し、戦意を高揚するために東条英機陸相(後の首相)が布告したこの教えは、軍人だけでなく、国民への戒めとして広く教え込まれていた。
これが60年前の現実だ。民間への無差別攻撃を非難する資格が、果たして日本政府にあっただろうか。
◇
「人を飛蝗(ひこう)にしてはならぬ」
97年1月5日に載った朝日新聞の社説だ。トノサマバッタなどが飢饉(ききん)などをきっかけに黒く戦闘的な姿に変身して大発生し、集団で空を飛び、農作物を荒らし回る。そんな「飛蝗」の現象を人間になぞらえたのだった。
旧ユーゴスラビアの内戦のころだ。客人を温かくもてなす土地柄なのに、民族対立からすさまじい殺し合いとなった。「人は友好的にも、攻撃的にもなれる。お互いにうつろいやすい。属している集団の空気に染まりやすく、いったん暴走を始めると、止めるのが難しい」。昨年亡くなった先輩の手になるこの社説を私はよく思い出す。
戦争は人を変えてしまう。信じられないことが常識になってしまう。非道の全体主義と戦ったはずの米国が落とした原爆は、人間のもつ矛盾と恐ろしさの極みではなかろうか。
長く大国が独占してきた核兵器は次々に拡散し、その恐怖がイラク戦争も生み出した。いまは北朝鮮の核に世界が手を焼いている。
イラクでは、存在しなかった核に代わってテロの嵐が吹きまくる。自爆テロがロンドンやエジプトも襲う。
核と自爆テロ。民間人への無差別攻撃という点では同じである。闇市場に流れた核がもしテロに使われたら、世界はどんなことになるだろう。
人を飛蝗にしてはならない。いま改めてそう思う。