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(回答先: 蘇生する合の手(馬場さまへ) 投稿者 ぷち熟女 日時 2005 年 8 月 20 日 19:37:48)
【しみじみ流三浦半島歴史ツアー: 走水神社】
http://www.geocities.jp/sakingno13122/rekisi/hasirimizujinja.htm
走水神社 (横須賀市走水 京急馬堀海岸駅 バス停「走水神社」)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、弟橘媛命(オトタチバナヒメ)をまつる。
日本武尊が東征の際、相模の国(神奈川県)から東へ進み、走水の海(浦賀水道)
を渡ろうとしたとき、海が荒れ、船は進めなくなった。このとき日本武尊の妻である
弟橘媛命は、海の神をしずめるため荒海に身を投じた。すると海は、自然に穏やか
になったという。
このとき弟橘媛命が詠んだとされる歌の歌碑がこの神社の境内に建っているが、
これは明治43年、東郷平八郎、乃木希典ら7人による発案である。
「さねさし 相武の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
また、このときの二人の問答が書かれたものもある。
「弟橘媛命 妾は皇子の御為に よろこびて今こそ此の浦に身を捧げなむ
はようつとめ果し 大君の御心安んじさせ給え」
「日本武尊 弟橘媛よ 汝の願い心し吾が胸にのこりなむ 永久に安かれと
ただおろがまむ」
昭和10年、与謝野晶子が夫鉄幹と共に観音崎〜浦賀〜久里浜をまわる旅の途中、
この弟橘媛のことを想って詠んだ歌がある。
「走り水 何のまぎれか 風烈し 弟橘の おまへの濱に」
走水とは、潮の流れの速い海という意味であり、日本武尊は常陸の国(茨城県)に
行くため走水を渡り上総(千葉県)に上陸するという経路を進んだのであった。
【日本史のなかの女性 2】
http://www.lib.nara-wu.ac.jp/open/ronbun/tuna02.html
英雄のかげに
火なかに立ちて
四世紀のころ、日本は原始時代から古代国家形成への途上にありました。
記紀(古事記と日本書紀を併せてこう呼んでいます)は、そのころ国土平定に働いた大和
朝廷の勇者を、景行天皇の皇子ヤマトタケルの命(みこと)に象徴して物語っています。
九州の熊襲(くまそ)を平げたこの青年武人は休むひまもなく東国遠征を命ぜられますが、
相模の国の焼津(やいず)の原で土地の豪族に謀られて、危うく野火で焼き殺されるところ
を、叔母に授かった草薙剣(くさなぎのつるぎ)と火打石で迎え火をつけて難をのがれます。
ただの旅さえ命がけだった頃、満足な武力も与えられない征定の軍(いくさ)は苦難にみち
たものだったでしょう。行をともにした妃オトタチパナ姫が、海神の怒りを鎮めるために海
に身を投じるのはこのすぐあとの事です。
古事記によりますと、焼津を立って走水の海(いまの浦賀水道)を一行が渡ろうとした時、
の海の神が暴風を起こして、船はいまにも沈みそうになります。その時、お妃のオトタチ
バナ姫がヤマトタケルの命(みこと)にいうには、「私が御子に代って海に入りましょう。
御子は命ぜられた任務を果して天皇にお返事を申しあげ遊ばせ」そうして一つの歌をよ
んで海に入ります。
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
さしもの荒海も鎮まり一行は無事に上陸することができましたが、七日めに姫の櫛が海
岸に打ちよせられます。それから残るくまなく東国をたいらげたヤマトタケルは、足柄山
に登ってはるかに海をのぞみ、三度「吾嬬(あずま)はや」と亡き妻を偲ぷのでした。
自然現象をすべて神の霊威のなせるわざと考えた古えでは、海上で風波の難にあうのは
その海の神が船中の人また物の類を欲するからで、神の欲するものを海に入れれば風
波は鎮まると信ぜられていました。そこで姫がヤマトタケルに代わって海に入ったのです。
いわゆる人身御供です。そのような風習は当時まれではなかったのでしょう。しかし後生
の「長良の人柱」のような陰惨なかんじが表に出ないのは、この物語にこもる二人の愛の
強烈な純枠さゆえでしょうか。
いま姫の辞世の歌を物語から独立させてみますと、野火――畑作のために春に野を焼く
のは当時の風習でした―−の燃える野原で私に言い寄られたあなたよ、という恋の歌で、
おそらく東国農村の乙女たちの心から生れた歌謡であったのでしょう。古事記の伝誦者は
これを姫の辞世として選んだのです。さねさし相模の、と緊迫したリズムにはじまり、燃ゆ
る火の火中に立ちて、と愛の炎と焼津の火難が二重に映え、その中で私の安否を気づか
って呼ばわってくださったタケルの皇子よという、まことに勇壮な愛の絶唱となっています。
この短い物語から何を汲みとるかは現代の私どもの自由でしょう。ヤマトタケルには都合
六人の妻のいた事を記紀はしるしています。土地の豪族は帰順のしるしに娘を征服者に
捧げ、大和朝廷に血縁づくことによってその勢力のもとに安堵されていったのです。オトタ
チパナ姫もそのような一人だったかも知れません。しかしそんな背景の中でも愛はすべて
をおおったのでしようか。愛する者のために身を捨てる−捨身この東洋的なあり方が、
愛のかたちの一つの極北であることも事実でしよう。古事記の女性伝誦者は、英雄とはい
え専制君主としてではなく、大和を遠くはなれ危難にさらされてたたかう、やわらかい心を
もつた一人の若者としてのヤマトタケルのかげに、そのような心を埋めたのでしょうか。
ほむら野に立つ〜私を救った北野生 http://www.rikuryo.or.jp/talkrelay/hirozane.html
古代史の扉2005:日本武尊 http://www.asukanet.gr.jp/tobira/yamatotakeru/yamatotakeru.htm