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小説のデジタル的解体と,日本の復権! ( 矢作俊彦インタビュー)
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/570.html
投稿者 馬場英治 日時 2005 年 8 月 21 日 19:18:56: dcAX/x0KhXeNE
 

(回答先: 2004年: アメリカ人にさようならを言う方法を、人類はいまだに発明していない 矢作俊彦 投稿者 馬場英治 日時 2005 年 8 月 21 日 18:44:39)

矢作俊彦インタビュー
http://hotwired.goo.ne.jp/speakout/interview/980227/text.html
Toshihiko Yahagi
text:江坂 健

photo:安珠

小説のデジタル的解体と、ニッポンの復権!

 矢作俊彦は、怒っている。この停滞し、明日のビジョンを示せないでいる今の日本社会に、幻滅し、無性に腹を立てているに違いない。
 そう思いこんでいた。
 3年から週刊ポストに連載されている「新ニッポン百景」で、バブル以降の無惨に変貌していく日本の風景をつぶさに観察して、蓄積された怒りのエネルギーは、新作「あ・じゃ・ぱ!」で、戦後日本が、東西に分断されているという偽昭和史を描かせた。
 また、かっては、ダンディズムに彩られた多くのハードボイルド小説や、スタイリッシュなカー・ノベルを描いていた彼の美意識には、平成のこの日本のありようが、あまりに許しがたいものに写っているはずだ!!!!
 と、かってに決めつけて望んだインタビューだったが、トレンチ・コートに、黒いサングラスに、憂いを漂わせて、銀座の喫茶店に現れた氏は、のっけから、こちらのかってな期待を裏切って、面倒くさそうに語り始めた。

小説が、劇的に変化しはじめている

−−矢作さんの著書に共通しているのは、一種のダンディズムとか美意識のようなものだと思うのですが、そうした矢作さんの目から見ると、このところの日本社会というのはどのように映っているのでしょうか?

矢作 ん〜。それは、昔の話じゃないの? この10年全然興味ないよ。ダンディズムとか。

−−はぁ。すみません(小声)。

矢作 むしろ、ぼくから聞きたいんだけど、Eメールとか、フォーラムの文章というのは、独特の文章を使うでしょう。表現が、ものすごくテクノロジーに縛られている。今、アメリカの量産型の小説家の小説が劇的に変化しはじめているんだ。それはどこがどう、と言い始めると1時間や2時間ではすまないから乱暴にいいきっちゃうけど。劇的に変わり始めている。この10年ほんとうに量産型の作家が、古典の素養を失いはじめているということもあるけれども、シェークスピアの引用ぐらい書けるやつでないと、昔は大衆小説だって書けなかったんだけれども、どっちかというと量産型の作家が生まれてきた。なぜ、量産型の作家が生まれてきたのかというと、タイプライターの発明なんだよ。タイプライターの発明によって・・・退屈?

−−いえ、全然。

矢作 いわゆるイタリック体以外の字を書いて、筆記体で表現できない人間でも、バコバコある程度いい加減な文章が打てるようになってきた。それにスペルの心配もしなくてよくなってきた。タイプライターの発明がまず、文章を標準化し、かつ大衆化した。次にワープロが発明されたことで、いくとこまでいったわけだよ。文章表現の"いろは"も知らなくても、ワープロさえ持っていれば、そこそこの小説が書けちゃうようになった。アメリカの大衆小説のレベルがものすごく下がっているよ。日本はもっと昔から下がっているけど。日本の大衆小説なんて、屁ですよ。あんなものアイデアもなければ、なんにもない。それをありがたがる連中がいる。それってさ、テクノロジーによって文章表現がものすごく変わった。映画でもコンピュータ・グラフィックスの登場によって、劇的に変わったってことがあるわけでしょ。

 今、もうひとつ劇的にドラスティックに変わろうとしている気がするんだけど。ネットの中で、ピーチク、パーチク話してる。話すってことは、書くってことなんだけど。文章なんか書いたこともないヤツが書いてるわけだよ。しゃべる勢いで。あのガキどもの世界は、単語を並べたてることで通じ合っているじゃない。あれがあの世界で日常で、とてもあの世界にはついていけない。こんな文章は書きたくないし、ぼくは物書きとして、あんな文章は書けないわけだ。たぶん、あの中から物書きが生まれるでしょう。もう生まれてるのかもしれない。そのとき、ドラスティックな変化が文章表現に生まれるんじゃないかと思う。それは、英語のフォーラムなんか見ると、学者でも、こんな英語ありかよ、っていうような英語が出てくる。それをアメリカ人が書いているわけだからね。それって、インターネットの世界にいて、すごい劇的なことが起こっているっていう認識ない?

−−え、そうですね。コミュニケーションのレベルが変わってきている、いう気はします。

脱構築小説「あ・じゃ・ぱ!」

矢作 オレはすごく不器用だから、文章を作るのに、すごく手間がかかるんだよ。粘土細工を作るように書くんだよ。だから、ワープロというのは、劇的にぼくの文章を変えたと思うね。ワープロを使ったのは、「スズキさんの休息と遍歴」からなんだけど。ある意味でほんとに役にたったのは今度の「あ・じゃ・ぱ!」からで。あれは、850枚を「NAVI」の連載として書いて。それを細胞分裂のようにバラバラにしたわけ。新潮社の人間国宝のような校閲のおばさんもパニック起こしていたけど、そういうことを平気でワープロを使ってやったわけ。ワープロの検索機能がなかったら、あれは書けなかった。

 あれは、レイモンド・チャンドラーの「さらば愛しき人よ」を全部解体して使っているから、筋書きまったく同じですよ。章構成もほとんど同じ、その章の始まりの言葉を全部同じにしてあるわけ。そういうシャレたことをしたのも、ワープロがあったからだよ。

 10数年前だったら盗作かパロディかでもめたんだと思う。それを気にしていたんだよ。だけど、翻訳者からも早川書房からも何も言ってこないし、それどころか、翻訳者が面白がっているらしい。だから、意識が変わってきている、ということだと思うんだよ。

 それをやるにあたって、チャンドラーの全部の文章をスキャナーで読み込んで、Macに取り込んだわけ。デジタル化したわけ。それを、"マーロウがこうしている"というような条件検索にかけて、全部バラして、それから全部ブッこんで、それで文章の頭の部分を自分の文章に書き換えていったわけ。その中に、挿入するようにこれまで書き貯めたものをここにぶっこんで、伏線をここにひいて、と・・・やって、それを下敷きにしたわけ。だから、これは、ワープロが発明されたからできたことだけれども、ワープロが発明されないで、超人的な頭脳をもってこれをやったら、盗作になったんじゃないかと思うんだよ。まったく同じ文章が入っているからね。登場人物の名前も同じものもあるしね。

 それに気づいた人も何人か文芸評論家にはいるんだけれども、面白がっているだけで、何にもいわないんだ。そこを挑発して、誰かに考えて欲しい。ぼくは、あれは盗作ではないという自信があるし、面白いでしょ、ぼくの作品だ、という自信もある。だけど、チャンドラーの小説も使いました。翻訳も平気で使いました。なかには、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の有名なシーンが延々と4頁もまるまる使ってあります。でも、誰も気づかないほど、ひとつの小説になっているでしょ、と。脱構築とはこういうことを言うじゃないですか、と言いたいわけ。

 でね、誰か、これはとんでもない野郎だ、って言って欲しいわけ。それで論争したいね。たしかに、20年前だとこれは盗作だと思うね。今これは盗作なのか。いま、インターネットに自分のページを開くとしたら、これを持ちかけたかったんだ。だけど、アシスタントが・・・高校2年のオレのガキだけど・・・うまく動かせなくてまだやってない。もうひとつは、これを仕掛けても、ネットでやりとりしてる連中が乗るだろうか、という思いもあった。これは、どっちかというと朝日新聞かなにかに仕掛けないとしょうがないのかな、という思いもある。

 日本の翻訳文化というのは、1000年以上続いてる。こんな国ほかにないんだよ。そもそも、日本語表現自体が中国語の脱構築でしょ、パロディだと言い替えてもいいんだ。ね。だからさ、こんなところで、脱構築だ、ポストモダンだ、とフランス人あたりに言われたからって、ぼくらがびっくりする必要ないわけ。夏目漱石や、森鴎外がやってきたことは、ヨーロッパ文学の脱構築ですよ。

 だからそういう意味で、サイバーパンクとかピンチョンとかをありがたがる人たちは、教養がないよね。基本的に日本の古典やヨーロッパの古典も読んでない。世界文学全集でも読みなさい、というのがぼくの意見。ピンチョンなんてありがたがってるけど、しょせんアメリカ人だから(笑)。ポール・オースターだって、フランス人は、バカにしてるよ。エヴァンゲリオンみたいなものでしょ。日本人だけマジメになってるでしょ。アメリカ人は、大衆小説や大衆映画を作ってりゃいいけど、いったん芸術始めるとダメよ。馬脚が出ますよ。

 だって、ビフテキに最敬礼して、ハンバーガー毎日喰って、コーラ飲んでるような連中がだよ。昨日、今日、わび、さびがわかるかって。いきなり豆腐や、納豆の味がわかるかって。わかりゃしないんだよ。でしょ。あいつらも最近成長してきて、昔は泥水と呼んでた飛行場のエスプレッソが飲めるようになってきたけど。ちょっと、話が飛んだけど・・・。

−−(めちゃくちゃな・・)(笑)

ワープロの登場によって、書かれた小説

矢作 だから、テクノロジーと表現というのは、最近すごく不安になるね。今、この年齢になって、「あ・じゃ・ぱ!」ぐらいのことはできるし、あれで僕自身面白がれるけど、この次に来るものに対応できるか。あるいは、この次に波が来たときに、溺れちまうんじゃないか。もう俺の小説、誰も読まなくなるし、売れなくなるんじゃないかっていうさ。すくなくとも、俺が面白がることは、もはや受け入れられなくなるんじゃないかという不安は強く、強くあるよね。うん。ある。

−−はぁ。

矢作 それこそ、「マッドマックス2」のようにさ、荒野のはずれで、ガリ版で本を作り続けてさ、秘密警察が「ここで本を作り続けている!」。イヌが印刷インクの匂いをかぎつけて、黒い制服着た文化統制官かなんかが、イヌ連れてやってくる・・。輪転機とMac1台しょって、逃げ回らなくちゃいけない(笑)。そういう時代が来るかもしれない。

−−(笑)・・・テクノロジーと表現の形態という意味では、音楽のほうが先行していて、もはや何がオリジナルなのか、ということがわかならくなっていますね。

矢作 そうだ。音楽はそれが進んじゃって、淘汰されちゃったから、終わっちゃてんだけど、これからそれが、文章表現に来るだろう。ワープロが日本語を変えましたよ。ぼくは、俗物な人間だから、二十歳の前ぐらいに、アメリカの小説家を見て、葉巻をくわえて、ビール飲みながらタイプライターをバッバッバッ、と打つのがかっこいいな、と思ったよ。そこいくと、日本は、痔瘻のオシリを掻きながら、万年筆でコシコシやっていると、後ろから妻が襖を開けて、「あなた、お米屋さんの払いが・・」なんて世界やだな、タイプライターっていいな、そういう俗っぽい羨望を持っていたけれど、それがワープロの登場によってかなったわけじゃない。

−−はぁ。

矢作 83年頃には、すぐ飛びついたんだけど、デカイはバカだわで、使えなくて。それを放り出してて、もう一回使い始めようとかな、と思ったのは、「スズキさん・・」の連載の最後の頃かな。それからもう、7、8年ですよ。ぼくにとっては、表現も変わったし。アメリカのハードボイルド小説を、いかにしたら日本の文章にできるかということをずっとやっていて、それが、どこをついてもフェイクだと思ったときに、日本語そのものが中国語のフェイクじゃないか。それは、そのころ香港の女の子、学者なんだけど、とつき合ってて・・

−−・・

矢作 あの女、じゃない、学者に、あるとき、「あんたたちは、どうせ翻訳なんだ。言葉まで密輸なんだ」っていわれて、なるほどね、と思った。それで、それならそれで、はじめから、ポストモダンなんて、我々には縁のない世界じゃないか。ポストモダンと、ヨーロッパ人が言ってることなんて、もう乗り越えているだから、その先に行けるんじゃないかと、漠然と考えたわけね。ぼくは、彼女とつきあって、中国語圏のものの考えかたとか、多くのことを学んだな。つまり、アメリカのハードボイルドを日本語にどうのこうの、ということ自体ナンセンスだったんだね。ナンセンスだと気が付いたのとほぼ同時にワープロが導入されて、だから、もうぼくは、ああいうものには興味がない。

 むしろ、ぼくの中で、決着をつけなきゃいけないという思いがあるのは、その次にどうするのか、ということだね。だからって、もし、読者がいなくなったとしたってよ、ネットの中で行き来してるような文章の中に、もし日本語表現が解体していくとしてもだ、それは、オレと関係のないことだから。読者がいなくなっても、その先の日本語表現による物語とは何かということを、ちゃんとしなくちゃいけないないな、という気がするね。

 それは、要するに香港の学者の友人(笑)と、ワープロがなしたような影響を、たぶんインターネットがもたらせる、か。まぁ、もたらさないなら、それはそれでいいんだけどさ。ぼくはけっこう期待感をもってるわけ。
 今のところ、まだその期待感をなんにも満足させられていないんだよね。

田中角栄が始めた世界

−−そういう意味では、これからの日本語表現に可能性とか、楽しみを感じていらっしゃるんですね。

矢作 うん、感じますよ。ぼくがさっき言った心配っていうのは、ぼくが楽しいと感じることが、銭にならなくなるんじゃないか、ぼくが生活していけなくなるんじゃないかと、という。ぼくは嫌々生活するのは、嫌だから。今のところ、ぼくは、たいへん幸福な人間で、一番面白おかしくやった仕事が一番お金を運んできてくれるから、けっこう自信をもっているんですよ。自分が面白くできた仕事は、金になるっていう、自信があるんだけど。そういう今までのルーティンが、頭打ちになるんじゃないか、という不気味な予感があるわけだ。Eメールなどを読む度に感じるわけ。

−−それは、週刊ポストに連載されている「新ニッポン百景」でご覧になられているように、日本の風景が劇的に壊れていく、ということと関わりがないですか?

矢作 編集者だね(笑)

−−すみません(笑)

矢作 そりゃ、そういうふうに無理矢理結びつけてもいいけど。もちろんポストモダンというのは、風景にも表現されるわけだし。もっと簡単に言えば、なんで「あ・じゃ・ぱ!」の主人公が、田中角栄かというと、戦後の日本を決定的に変えたのは、田中角栄と昭和天皇だと思うから、それに彩りとして長嶋重雄と美空ひばりがはいってくる。

−−また・・

矢作 田中角栄が始めたこと。銭だ、銭だよ、キンキラキン!の世界。あれが、いまのいままでこの国を引っ張ってきたわけでしょ。1972年の列島大改造から始まって、今に至っているわけですよ。バブルがはじけて、やっと目が醒めたわけだけど、目が醒めたとき居る人材は、全部バブルに踊った人間だから、対処療法しかできずに、あたらしい処方箋を書ける人間がいないわけだよ。たぶん、菅直人なんかには、期待してるよね。竹下に"ふるさと創生"とかって、1億円もらって、金のカツオを町役場に飾るような国になって、それが作る景色というのは、やっぱりあるわけよ。ぼくをそれを見てまわって、これは田中角栄だな、と思った。あの「新ニッポン百景」の企画には感謝している。ぼくが昭和史を考える上で、ものすごく参考になった。

−−なるほど。

矢作 ぼくが行った高校は、東大に90%いっていたから、官僚がものすごく多いんだけれども、ぼくが女のベッドに潜り込んだり、酒場でゲロ吐いてるときに、連中は勉強してたからね。何の楽しみもなく。あんなに志の高かったやつらが、どうしてこんな風になっちゃったかなと思うね。今回の大蔵官僚の事件は、誇りも何もない。今、3年上の先輩が、1年上の先輩パクろうとしてるわけだけどさ。彼らの自己実現というのは、日本をよくするんだとか、オレがいないとこの国はダメなんだとか。そういうところに矜持を持っていたのに、自己実現が金にすりかわっちゃったんだよ。自己実現が換金できるようになっちゃったんだよ。それは田中角栄からだよ。だけど、自己実現って、換金不可能なものでしょ。

 そういう時代も終わったから、時代からはじき飛ばされているんけど。そういう時代が終わったっていう証拠なんだよ。で、それで心配する必要はないと思う。アメリカだって、1950年代にこういうことが起こっているんだから。それから、60年代の公民権運動とか、ケネディ暗殺、ベトナム戦争を経て、今のようになっているわけだから。それに、今のアメリカが特別いいわけじゃないしね。じゃ、ヨーロッパがいいかっていうと、ヨーロッパはヨーロッパで、絶望的な孤独を抱えて、個人が自立し、神からも国家からも、社会からも個人が完璧な自立を獲得したがゆえに、一人一人死ぬほどの孤独を抱えて、闇のなかに魂をさまよわせているわけじゃない。

ニッポンの復権!!!

 最近、起こっている事件なんかに右往左往する必要はないと思うわけ。やっと、日本が否定されていた時代が終わるんだな、という気はするよね。ニッポンは、九州に戦争で負けたんだよ。ニッポン 対 九州っていう図式を考えたほうがいい。そのことを大阪から江戸まであった文化、姫路でもいいや、もっと行くか・・・安芸、うん。広島から江戸までの文化は、間違いなく、島津藩に破壊されたんですよ。親欧米の大久保利通って男に。大久保ってのは、江戸文化にとって、テロリストですよ。

 江戸文化が、いまの東京に正しく伝承されず、過去の伝統を徹底的に否定したせいで、この100数十年間というのは、文化的には最低のところにいたと思いますよ。それでも、世界に伍して、クロサワがどうだ、とか、タケシがどうのと、グローバルスタンスを持ち得ているのは、そのなかに伝統が脈々と生きているからですよ。だけど、徹底的に破壊されてきたんだと思うよ。200年近く、あんなに内戦のない国なんてないですよ。それに江戸は、コレラは何度か流行ったけど、ペストは流行ったことはない。江戸は都会として比類なく清潔だった。糞尿を全部樽に入れて、余所へもってってんだな。ほんとうなんだぞ!

−−(笑)・・

矢作 それはさておくとしても・・。その間、ヨーロッパでは、何回ペストが流行ったか。どれだけ理不尽に殺人が行われたか。ヨーロッパなんかに、威張られる必要はないんだよ。

 ぼくたちは、日本人が日本人でいることを130年、否定されていたわけですよ。ぼくがよく言うのは、ぼくなんか在日日本人であるって。やっと解放されるんだよ。文化的にいえば、やっとぼくらは日本人であることを回復した。ニッポンの復権!わかったよ、編集者にわかりやすく、小見出しつけると、これだな。ニッポンの復権!明治維新以降の日本の歴史は間違いだった。だからぼくは、「あ・じゃ・ぱ!」を書いたんだよ。ま、どんな歴史でもいいじゃないか、って。あれは間違った歴史なんだ、どっちにしろ。島津藩によって、粉砕されたものであり、その後、大日本帝国というフィクションによって、占領された。そのフィクションが、戦後になって戦後民主主義と名前を変えただけであって、すべてフィクションですよ。われわれは、リアルな日本人ではなかった。だから、考えなきゃいけない。江戸時代を再評価しないといけない。その流れは起こっていますよ。

 ぼくたちは、今より悪くなることはないだろう。あの89年以前、冷戦期に大人になっちゃった人間は、これからの時代を楽しめるかどうかは、疑問だけど。まじめに考えれば、ニッポンは復権するだろう。そこで、むしろ、みんなで憂い顔をしてみたりする必要はまったくないと思うよ。
 


プロフィール
●1950年横浜生れ。教育大附属駒場高校卒。
『抱きしめたい』でデビュー。
代表作に『スズキさんの休息と遍歴』 などがある。ハードボイルド作家にして、エッセイスト、コミック原作者、映画監督 など巾広い活動をこなす鬼才。

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