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(回答先: 無知の罪は我々の方にある 投稿者 馬場英治 日時 2005 年 8 月 16 日 10:42:37)
馬場さん、こんにちは。
それでなくても真夏の暑い時に、どちらかというと熱い話に御つき合いをいただきありがとうございました。
>私は,一番上が小5のとき離婚していますが,そのときの友人宛ての手紙に「子どもたちには大きなおにぎりを持たせてあるからその点に関しては不安はない」と書きました.実際,比較的最近子どもたちと再会することができたのですが,私たち(子どもと私)の間にはまったく断絶を感じるところはありませんでした.同様のことは,知人・友人の子どもたちからも感じているところです.これはある種の情報遺伝子ですから,相当長い時間かかっても識別できる様態(縞状)で存続するのではないでしょうか?
“唐獅子牡丹”に始まった青春は70年頃には“同棲時代”に埋没し、やがて73年の“神田川”の新たな若者文化へと吸収されていったのですね。想い起こせば友人・知人の多くが同世代同士での結婚をしましたが、殆んどが10年を待たずして離別しています。あまり他人のことを詮索せずに通り過ぎてきたためでしょうか、どんな理由が主だったものかはっきりと憶えてはいません。
親子関係に限られた世代間では文化的遺伝子(ミーム)は受け継がれていくのかも知れません。しかし、それ以外の世代間に存在する切断状況を補完するためにはどうしたらよいのか、検討すべき課題であると思っています。
>私の周辺にも原理研に染まった者はおりました.新左翼にもある種「非合理ゆえに我信ず」のような面はあったような気もしますが,原理研の非合理性は常軌を逸してますからね.ここまで大きな力を及ぼすようになるとはあの頃思っても見ませんでしたので,個人の内面の問題として軽視してしまいましたが,大きな誤りだったと思います.一つ重要な点は彼ら(原理研の上位ランクにいるものたち)は最初からこの「大陰謀」の仕組みを知っていた(知らされていた)ということではないかと思います.もし,そうであるとすれば,無知(の罪)は我々の方にあったということになります.
確かに新左翼運動には個人の内面の問題を捨象していた風潮がありました。私の周囲にも恋愛問題を契機にして原理研に寝返った者がいました。同じく右翼学生組織の全国学協でも個人的な問題は回収しきれなかったのではないでしょうか。
「大陰謀」の仕組みを知る特権を得ていた上層部からみれば下部の人間の個人的な内面などは操作対象として浮上する場合を除いて、普段は視野に入れるべきものではなかったでしょう。無知(の罪)を承知で(覚悟して)コミットメントするのでなければ済いがないような気がします。
>遺伝子の中にあらかじめ埋め込まれた冗長性のようなことでしょうか?
細胞の成長には他物との闘いが組み込まれているわけではないこと、つまり予定調和への可能性を探るといった作為的なものではなく、単に他物との接触の可能性を探索する傾向(性質)があるというものです。元々の遺伝子の拡張性には競争が予定されてはおらず、淘汰は広義の環境において関係要素との接触が齎した結果であると発生学を私流に理解したことによりますので、これからも科学的に研究されていく必要性があると認識しています。
>しかし,何より重要なのは,人間を信じることではないかと思います.幸い私にはごくわずかながら,100%信じることのできる友人たちがいます.もちろん人間ですから裏切られる可能性はゼロではありませんが,そのとき私は地球全体を捨てても特に惜しいとは思いません.
>もちろん,神を信じることができればこのような回りくどい説明は一切不要になってしまいます.私は「神」の実在を知っていますが,少なくとも当面「神」は人類史に干渉する可能性はないと考えています.(もし私が「神」だったとしても,ちょっと手を出す気分にはなれませんね) 従って,人間は人間の問題を自立して解くしかありません.
現在の私にはComradesと互いに呼び合えるような友人はいませんが、多分馬場さんの友人はそれに最も近い存在なのかも知れないと想像し、羨ましく思ってもいます。
しかしながら、限りなく無神論者に近い私は『私は「神」の実在を知っています』と公言する人を訝しく感じてしまう人間ですので、少し気になっているパラグラフです。無論、馬場さんによる「神」の概念規定が如何なるものか不明ですので直截に裁断できることではありません。
>「公の概念を一旦解体し」というのが生体解剖になってしまうのではないか?という危惧を感じます.私の場合,「公共性」というのはほとんど「身体性」という言葉で置き換え可能ではないかという気もしているのですが,もしそうであるとすれば逆に如往さんの強調される「マトリックス」と位相同型になってくるような気もするのですが.まだあまり熟していませんが,あえて申し上げれば,「身体性+正義・公正」というのが私の「公共性」と言っているものに一番近いような感じがします.身体性の中にはもちろん大気・水・土壌などが含まれています.正義・公正というのは,一般に倫理と言われるものです.私が「経済共同体」と呼んでいるのは,このような意味での「身体性」です.
「公の概念を一旦解体し」=生体解剖との想像はおそらくは的を射ているのではないでしょうか。我々日本人にとって「公」の最たるものは天皇(制)に外ならないでしょう。一部の人達の身体性とは切り離すことができないと想われますが、最早在来の「公共性」の概念では地球の経営までを視野に収めきれないと思量します。
そして、「身体性+正義・公正」(馬場さん)の考察は必ずやのその延長線上にMatrixを望み、やがてはそこに帰着(円環)していくのではないでしょうか。例えば、嘗ては西欧人にとってはキリスト教的原理が、日本人にとっては天皇(制)が、それに向かうとするときのメルクマールであったのかも知れません。ただし、それらは既に歴史的役割を終えてしまい、ただ残骸を晒しているだけではないでしょうか。しかしながら、その上に何を築くべきかが問われているの確かであると思います。
当方の知的怠慢を省みては馬場さんにとって満足がゆく回答になったのか不安を払拭することができ得ません。また、言い放ったままだとのご批判もあろうかと想いますが、何卒ご容赦を賜りたくお願い申し上げます。
私に関しては一先ずこのスレッドを終息させ、後はぷち熟女さんにお任せしたく存じます。 尚、御気に留まったIssueについては新たにスレッドを立てていただければ幸甚に思います。勿論、“共同的資本主義”のGesellschaftにおける実験の可能性について質問させていただきたいこともありますが、私の方でももう少し煮詰めてみたいと考えていることがありますので暫く御時間を下さい。そして、然る後にはよろしくお願い申し上げます。
また、会いましょう。