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(回答先: Re: しばし待たれたし 投稿者 馬場英治 日時 2005 年 8 月 08 日 09:11:05)
馬場英治さん、こんにちは。
ぷち熟女さんとの会話が佳境に入りつつあるも暫しの休憩が訪れたものと察し、刺身の具(つま)にでもしていただければと少しばかり鯱張った標題の雑談で恐縮ですが、御つき合い願えれば幸いです。尚、ぷち熟女さんとの会話の中で馬場さんが全共闘世代であると吐露されていたことに接して、ある種の同時代性とその後の思想遍歴に興味を覚えたのが今回のスレを立てる動機になっていることを申し添えておきたいと思います。
さて、今から丁度2年前に雑談板2にて馬場さんが『共同的資本主義論』を提示されていたとき、その付近で私は吉本隆明の『共同幻想論』を主題にマルハナバチ氏、すみちゃん氏、愚民党氏等と遣り取りをしていました。けれども、馬場さんの展開とうまくジョイントできずに瞬くの間にスレッドが流れて2年が経ってしまいました。
けれども、馬場さんも同時代を生きた人ならば何らかの形で一度は吉本隆明の思想の洗礼を受けたのではないかと推察しています。私は高校時代に『共同幻想論』と『言語にとって美とは何か』を手にし、『異端と正系』や『固有時との対話』や『転位のための十篇』は大学を卒業して後暫くして読むことになりました。結果的に解かったのは後掲の3作は前掲2作を著す動機の素因を構成しているものだということでした。
『共同幻想論』は当時の読書会の仲間に活動家がいて彼の推薦で読んだもので、吉本隆明が企図していたものが国家の上部構造の解体にあったことは朧気に理解できたのですが、戦後民主主義の起点がそこに置かれなければならない、すなわち戦前的な上部構造の否定を出発点としなければならないとの主意に得心ができたのは全共闘時代の風も既に通り過ぎてしまった70年代後半になってからでした。
しかし、今読み返してみても『共同幻想論』においては上部構造の解体に成功してはいないと、またその後に対置すべきものが何であるかも言明されてはいないと感じられます。それでも、私にとって吉本隆明の思考方法の斬新さは全く色褪せることはありません。それは、事象や情況を読み解く場合に或る既成のContextに依拠するのではなく、自身でParameterを措定することによってCase別に試行(思考)していくものです。『異端と正系』ではそうした手法で文芸批評が展開されましたが、批判された側には全く吉本隆明の意図するものが理解できなかったようです。
ところで、『共同幻想論』に立ち戻りますと、私は提示されたParameterについて、[自己幻想=自己の存在の意味性⇒自己像・信念]、[対幻想=情(愛)による交合⇒家族像・倫理]、[共同幻想=物語(歴史)の共有⇒国家像・宗教]と理解し、自己幻想が対幻想によって担保され、最終的には対幻想(自己幻想を含む)が如何なる共同幻想によって担保されているか否かが重要な点であり、明治期以降から戦中期までその役割を担わされたのが万世一系論の衣を纏った天皇制であったと考えています。では、曲がりなりにも天皇制の衣を脱ぎ捨てた戦後はどうかと云うと、それに対置すべき原理を日本人は見出して来なかったと想っています。にも拘わらず、周囲の状況にも恵まれ目覚ましい経済発展を遂げることができた戦後の日本があります。日本は世界史を一望しても過酷な他者支配を被らなかった稀有な国であったのですが、それが新たな統治原理を自ら探求する必要性に迫られなかったことの遠因にもなっているのでしょう。兎にも角にも、結果から見れば非常に運が良かったと謂えるかも知れません。(無論、第二次大戦での300万の犠牲者のことを忘却していいはずがありません。)
何れにしても左派や右派の別なく我々は答えを出さずに今日に至っています。おそらくは答えを自ら出そうとする試みの熱情さえも希薄化しているのでしょう。この知的怠惰の環境にどっぷりと浸かっている状態では性懲りもなく安易な方法に頼ること、つまり再び天皇制を持ち出すことになるかも知れません。
馬場さんの『共同的資本主義論』は、そうした日本人にとって自ら答えを創出していくときのメルクマールとなるべき有力なAlternativesの一つになると想われるのですが、やはり日本人自身が当事者意識に目覚めねばダメでしょう。ただし、何らかのルサンチマンあらずして変革を齎すようなPathosが生成することがあるのか、自然に問題解決の当事者意識に目覚めるかは限りなく不透明です。
私は『共同的資本主義論』を@Anarcho capitalism(協同的資本主義)[資本主義社会が最終形←淘汰の原理]とAAssociate socialism(合資的社会主義)[社会主義社会が最終形←叡智の信奉]に大別し、@もAも過程形は類似点が多いと見ています。しかし、Aを志向するならば、キリスト教やユダヤ教やイスラム教や天皇制等の宗教的理念によるのではない、共同幻想もしくは共同目標(Vision)を構築しなくてはならないだろうと思っています。と同時に、Driving forceにとってはそこに至るまでのプロセスを支えるメルクマールも必要になって来ます。そして、それは永続的革命であることに変わりがなく、幾世代に引き継がれていくべきものでしょう。
私の中心のテーマはこれまでにも阿修羅の各所・各機会で述べていますが、“人間の行動における動機性の所在及び様態の解明”です。 そして、解明にあたって多用している現状のParameter はConatus (自己保存力)で、副次的にEros、Thanatos、Ethos、 Pathosを用いています。そこで、現時点で私は、ErosもThanatosも、PathosもEthosも、Conatusを構成している諸相に過ぎないと捉えています。
さらに、解明のための基本的なThese には『Conatus は「(細胞の)自己複製を起源とする慣性的エネルギー運動」を表象し、それ自体に意味はない。』 を掲げています。先ごろの日さんへの返信では、【このConatusに「聖」性を求むることは可能か、あるいはConatusの「聖」性とはどんなものかと問い続けています。その根底には『自己複製を起源とする慣性的エネルギーの継続運動に「聖」性はあるのか。換言すれば、それは「聖」なる運動と謂うべきか。』という、更なる問いが潜んでいます。】と私自身で語ってはいるものの、実は斯かる諦観が基底に厳然として存在しています。ただし、何故自己複製を惹起したのか、その根拠についての考察を含めた存在論的問いから決して人は自由ではないでしょうし、宗教や神話でそれを覆い尽くそうとするのは知的怠慢の謗りを免れません。しかし、少なくとも脳の反省機能の発達なくしては自己幻想も対幻想も共同幻想も喚起され得なかったのではないかと思っています。【注:スピノザはConatusを自己保存のための努力を含む“自己保存欲”として概念規定しているようですが、(細胞の)自己複製の力を中核概念に据えた場合には“自己保存力”がより適合すると想われます。】
[Conatusの方行]=[自己複製を起源とする慣性的エネルギー運動の往きつく先]は予想を重ねてみても尽きせぬものがあります。Conatusの運動の軌跡が生命誌で、人間が物語ろうとしたのが歴史なのかも知れません。畢竟するに、人間の歴史は地球における生命誌に含まれるものでしょう。
私はConatusに託されているMissionは生命を繋ぐことでありそれ以上でもそれ以下でもないと考えています。そして、自己複製のモメントを神が与えたかどうかに腐心するような所謂創造論に与する考えはありません。寧ろ、複製の素地を与えたのも、モメントを与えたのも、それを受けとめたのも“地球というMatrix”であるのは確かであり、そこを認識の起点として再出発することが重要ではないかと思っています。既にお気づきかも知れませんが、これらはErnst.Machの系譜を引く生態史観を私なりに敷衍したものに外なりません。
以上、先ずは現在の自分の心的立ち位置について取り急ぎ纏めてみたような次第です。もし、馬場さんの形而上から形而下へと円環する考察の一端を垣間見ることができましたら幸甚に存じます。
また、会いましょう。
<参考>
日さんへのレス:【死に向かう宿命の共有化への途を辿りつつ...何れまた。http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/1205.html投稿者 如往 日時 2005 年 7 月 29 日】