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自殺はもっとも、悲惨な死だろうと思う。
自ら、命を絶つ、そこに至る精神の苦しみは外からでは絶対に分からない。
肉体的拷問に耐えきれなくなれば「殺してくれ」と願うようになると言われている。
それと同等、いや、それ以上の苦しみを心で感じるのである。
その苦しみは想像を絶する。片腕を失っても普通の人は生きたいと思う。
人が、肉体的痛みで「死を願う」のは想像すらできない痛みが、何時終わるか分からない時である。希望があれば、それにすら耐える
http://www.asyura2.com/0505/senkyo10/msg/798.html
自民党の議員が自殺した。この事は大変痛ましいことであり、同情を禁じ得ない。
ニュースによれば「郵政民営化について、反対の意を示しながら、投票では賛成に投じた」と言う事である。
それは、対最近の事である。
少なくとも、その時は「死」については考えてもいなかったはずである。
「後任取り消し、公明党の選挙協力拒否」を避けるために、涙を飲んで「賛成票」を投じたのだから、次を目指していたはずである。
しかし、これは間違った選択だった。「地元を切り捨てるかのような法案に賛成する議員は、地元が見捨てる」のである。
自民党の議員は、党の構成員である前に、地元の代議士なのである。
地元の支援者の声を反映させるために送り出されているのである。
地元に帰って見て、自分が取り返しの付かない選択をしたことに気付いたのかもしれない。
地元の為に頑張るつもりが「自己保身のために地元を見捨てた」自分が許せなくなったのかもしれない。
多分、地元の風は厳しかったのだと思う。しかし、それだけでは「なかなか自殺には至らない」
多少は、優しい風もあったのではないだろうか?
これが、自分の行った行為の「愚かしさ」に「死にまで至る」ものに、させ得る恥ずかしさを感じさせる。
ハッキリとは分からないが「遺書は残されていないようである」
地元の厳しい風に心が折れたならば「何かを書き記す」とKは思う。
しかし、地元の優しさに触れて「自分の行った行為を恥じた」のならば「俺は、こんなに良い人達を裏切った」との自責の念を感じた末の物ならば「遺書は記せない」
議員をここまで追い込むような言動、行為は「あきらかに憲法違反である」
誰にも、個人の信念による投票の自由を妨げる権利はない
誰でも、誰にも干渉させずに信念による自由な投票を行う権利を有する。
党議拘束は何の意味もない。小泉総理の最近の解散権発動の恫喝は「脅迫であり憲法違反である」