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雑談板っつこって、おらも気楽にしゃべらせてもらって、管理人さあへは深く、深くお礼ば言わせてもらう者(の一人かもすんね)だ。あっしらさんも帰ってきたこったすい、久しぶりに「カス!」って激励の言葉も聞き手えな。Kさんがそれに近い激励ば受けてるようだが、ま、、和気藹々で、阿修羅も発展するべすた。
ああ、すっかすい、時代が変わりすぎておらそろそろ投稿ばやめねばなんねなっつ思うだよ。
時代は昭和20年代なんだども、おらだは九州の山の中の田舎さ居たもんで、車(自動車)は珍らすい時代だった。そこさ日常使うのが「高等馬車」だ。里から町まで買い物さ、おらのお袋や近所のおばさんたつが誘い合って、(つても数人すか乗れねえ)町までゆぐ。コトコトカタカタタイヤじゃねぐて馬車の車輪だよ。ふんで高等馬車はそのあいだどうすてたかはもう忘れた。んだから、ほれ、途中には馬糞(ばふん)が落ちてんだ。まあるいのば山のごとくすっかんね。いまやバフンって言葉も死語さなったみてだども。
ふんで、ときには、高等馬車が出ねえときは、バスも使う。このバスが例の戦後の物資不足ば色濃く顕わすた「木炭バス」なんだ。んでも、いまから思えば、ガソリンねぐても車は走るっつもんだべにゃ。平坦な道ならえんだども、国鉄の線路の踏み切りさ差し掛かると、そこがだいたい路面より位置が高いもんで、バスは一端、踏み切りの確認ばすんだども、そのついでだ、路面より高い踏み切りば、バスは自力で越えることが不可能なんだ。ふんで、むがすは女の人の「車掌」が必ず乗ってたべす。その人が言う、「みなさま、踏み切りです、いったん下車して後方を押してください」。ふんでおらみてなまだん才のガキまで一緒に全員降りてバスの後ろさまわって、バスがエンジンばふかすのさあわせて、「イチニノサン」っつて全員で推す(この車掌さんも、おらの記憶する限り、田舎のおんぼろ車の車掌さんだったどもおらがガキの癖に一目ぼれすた人だったもんで、いまや80超えてんべすた、おらのおふくろよっか上だったにゃ。)いまから思えばなんかベトナム戦争のころのベトコンの知恵みてだ。すごかったよう、ベトコンの知恵は、ホーチミン・サンダルなんっつてね。バスの後ろさは木炭ば焚くためのかまどがあんのよ。
http://www.kanachu.co.jp/topics/santa2/syosai.html
http://www.sigesan.net/~ebi/gzb20021130.html
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/bunka/umemoto/data/081.html
ふんでおらが山形の都会さ行ったときだ(ここは昭和30年のはずめはおらにとってものすごい都会だった)。んで急進主義的体質は小学校三年の遠足のときさ芽生えた。みなで行進すてるときに、ガキの一人が心無く、山形市の道路端に積み上げてあった1メートルほどの砂の山ば足先で蹴っ飛ばし、頂上付近ば崩した。そのころのシェンシェーたつは、赤だから(みーーんな赤だったす、当然だと思ってる)、「コラッ、ニコヨンの人たつが苦労すてつくった砂場ば壊すな!」っつてごしゃいてた・おらはサラリーマンの息子だったんだだども、その砂山ば崩したガキの心無さっつのがずいぶんと後世まで尾を引いてんのがわがる。むがすは「日雇い」って言わねがたんだ。
おらのクラスには乱暴者が居てな。中学一年まで山形で同じクラスだったんだども、かあちゃんと息子一人の生活だったども、あるひこの男の子が作文で優秀賞ばとった。かあちゃんがニコヨンで、息子は乱暴者で、そのくせかあちゃんは優しぐて、この乱暴者の息子はやっぱすいかあちゃんが好きで、クラスでなんで乱暴するか、みな恐れていたけども、ちょっと込み入った話ばすればすぐに仲良しさなれたんだども、この野郎が、書いた作文(実は「詩」は、今でも覚えてんだ。ちょっとはうろ覚えさなったども。詳しくは当時の「文集」さ掲載されてんだ。そのうち紹介すっから)
ま、阿修羅ば見てねがら、ええべつな、N君(珍らすぐ彼は標準語ば使ってた)。
(中略)
「僕は今日もクラスで人をなぐった
「僕は面前で馬鹿にされることはない
「ヤツラは僕を恐れているから
「でも僕は後悔する
「なんで殴るのか
「今日も僕は一人
「母の居ない部屋で一人母の帰りを待つっている
「ニコヨンで疲れた母の帰りを待っている
おら、中学三年のときは東京に居たけども、まだまだ中卒の多いところだったんだ、葛飾区は。みんな大成すてんだべな。サラリーマン諸氏はこれから定年だども、おらだは定年なし、ま、死ぬまで働くんだども。
ま、デラシネさん、愚民党さん、元気でやってけろ。
おらも元気だで。