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ヤンキー先生インタビュー<上>:
ちびっ子に語る少年時代
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050620k0000m040041000c.html
北海道の北星学園余市高校の元教師で、4月から横浜市教育委員に就任した「ヤンキー先生」こと義家弘介さん(34)に、私立関東学院六浦小学校(横浜市金沢区)の桐木健斗君(6年)と堀川真木子さん(同)がインタビューした。義家さんは、「子どもたちが、何もない自分を奮い立たせてくれるし、教師を仕事とは思ってない」と、熱い思いを語った。【篠口純子】
◆「いじめられっ子」転じて・・・
堀川さん・どんな小学生でしたか?
義家さん・今考えると、とてもさみしい子だった気がする。3月31日生まれの私は、クラスで一番小さくて、勉強もできず、落ち着きのない子だった。毎日先生に怒られていた。隣の子に話しかけたりして、じっと座っていることが我慢できなかった。頭の中に給食やバスケットボールのことが浮かんで、教室をウロウロした。すると先生から「廊下に立っていなさい」。廊下に立ってると、今度は違う衝動にかられて、全速で廊下を走ったりした。
その結果、最初は笑っていた友だちが、「あいつにさわるとバカがうつる」って、いじめるようになった。先生に相談したら、「人のことを批判する前に自分の行動を改めなさい」と。助けてくれないんだなって思った。
「強くなりたい」。そう思って、空手にのめりこんだ。高学年のころには、口より先に手が出る子だった。一目置かれた存在だったけど、一番嫌われていた。
でもね、一つだけうれしいことがあった。優子ちゃんっていう、一年中半袖に短パンのぽっちゃりした女の子がいて、私がいじめられた時、声をかけてくれた。中学と高校も一緒で、私は高校は中退しちゃったけれど、今までの人生でほとんどかかわってきた親友だ。誰も助けてくれなかった時に、助けてくれた。それがすごくうれしかった。
桐木君・小学生の時の夢は何ですか?
義家さん・弁護士。幼稚園の時に、父に弁護士になるべきといわれた。どんな仕事か尋ねたら、時代劇を見せて「悪いやつだって親はいるし、苦しみもある。こういうやつらを守るのが弁護士」だって。小学校時代のクリスマスプレゼントは、「マンガで読む民法」。どう見ても姉や弟のプレゼントのほうが豪華なのに、期待されてるって思った。
堀川さん・どうして不良になったのですか?
義家さん・絶対に言い訳してはいけないけれど、少年だった私は居場所を探していた。家で孤独を味わい、学校でも居場所がなくて、どこへいけばいいのか、思春期のころ考えた。そして、自然と同じような境遇の子と仲良くなっていった。親が働いていて帰ってこない家に集まるようになった。そこが自分の居場所だって思った。しかし、そこは一瞬、心を救ってくれた場所ではあったけど、未来にはつながっていない。悲しい場所だった。
◆自分を変えた恩師の一言
桐木君・なぜ教師になろうと思ったんですか?
義家さん・教師は一番なりたくない仕事だった。社会のことをみんなわかったような顔して、ずるいって思ってたから。
高校を出て、弱者のために社会と闘う弁護士を目指し、大学へ進学した。弁護士への手応えを感じていた大学4年生のとき、オートバイの事故に遭い重体になった。
その時、北星学園で担任だった安達俊子先生が北海道から横浜へ駆けつけてくた。「あなたは私の夢だから死なないで・・・」って何度も言ってくれた。不良だった私を“夢”だと。ならば、この人が歩いてきた教育の道の続きを歩いていこう。そう思った。
ゼロ歳で母と別れて、ずっと母を求めていた。安達先生が母。「やっと会えた」と思った。究極のマザコンなんだ。本人を前にして言えないけど、心の中では母だと思ってる。
桐木君・義家さんの人生を変えた安達先生とは、どんな先生ですか?
義家さん・不器用で、すぐ泣く、すごくほめる、怒る時は本気で怒る。なんてわかりやすい大人なんだ!って感じました。今まで出会った大人は、こっちが心を開いたら「でもね・・・」って議論しはじめる。安達先生は直球しか投げてこない。
堀川さん・安達先生以外に恩師はいますか?
義家さん・いない。心を閉ざしていたから。でも、出会いはあった。16歳で出会った里親さんもそう。里親さんがいなかったら施設に行っていた。恩師ではないけど恩人。ヘーゲルの弁証法に出会ったのも大きかった。常に否定と肯定を繰り返し、統一に向かうという考え方。これだけの文章が、私の人生を変えた。
◆教え子を失うつらさ
桐木君・教師になって楽しかったことや、つらかったことは?
義家さん・悲しいことは日常。教室には悩みがいっぱい渦巻いている。普通っていわれる子が悩んでいる。
だけど、楽しいことも日常。すごく気付かされることがある。先生にとっての先生は、生徒。生徒が一番の先生だ。
今まで生きてきた中で一番つらかったのは、大切な教え子を失ったこと。授業時間が足りなくて、中退しちゃった子なんだけど、最後に会ってから2週間後に自殺。いまだにその悲しみは癒えない。教師としてよりも人間としてつらい。一緒に笑えないし、怒れないから。
◆義家流「けんか=激論」と義家的「理想の教師」
堀川さん・北星学園余市高校では、けんかをしましたか?
義家さん・けんかというと聞こえがよくなけど、けんかイコール激論。けんかをできない人間は本当の関係を築けない。「いいよ、いいよ」って受け入れて、失敗した時に責任を押し付けるのは楽。ダメなことはダメって、体を張って教える。今は、親も子も逃げている。本音でぶつからなかったらさみしい。「私のことわかってくれない」って言う前に、あなたの本音を誰も知らない。未来につながる議論なら積極的にやるべきだ。
桐木君・印象に残る教え子はいますか?
義家さん・全員。担任を持ったら、なおさら。憎たらしいなって子もいるけど、宝物。自分にとって大切な一人ひとり。きれいごとじゃなくて本気で思う。全国の”義家組”とずっとかかわりあっていきたいし、これからもつながっていく。
堀川さん・義家さんから見て”教師”はどうあるべきですか?
義家さん・三つのプロフェッショナルであること。
一つは、聞くプロ。声にならない子どもの声にもアンテナをかざす。
二つ目は伝えるプロ。どう伝えたら理解しやすいか、意識を常に持ち続けないと。
そして、三つ目は、誰よりも学ぶプロであること。過去の知識で授業していたらダメ。一人ひとりどんな子か、学べないことは何もない。いろんなことを学びながら人は生きていく。私も絶えず学ぶ人間でありたい。
(ヤンキー先生インタビュー<下>に続く)